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 午後、2時頃から降り出した雨は徐々に勢いを増し、風が時折窓に水滴を叩きつけるまでになっていた。現在時刻は3時50分、教室に残っている生徒の数もまばらだ。

「あちゃぁ……。」

 手提げ鞄の中を覗き込んで、ゆらは溜め息をついた。ランドセルと一緒に持ち歩いているそれに、今朝がた確か折り畳みの傘を入れてもらったはずなのだが。お母さんはどうやら、自ら「入れといてあげるよ」と言ったものを失念してしまったらしい。でも、ゆらは自分で何もせず、確認もしなかったわけだから、責める事も出来ない。
 4時間目の授業が家庭科で、手提げにはその道具が入っていた。その時に気付いていれば、昼休みに家へ電話する事も出来ただろう。ただ、同級生の手前、忘れ物を届けてもらうのはいかにも気恥ずかしい。たとえ校門前でこっそり受け取ったとしても、誰にも見られない保証はないのだ。だからもし機会があっても、家に電話なんて出来なかったよね、と自己弁護しつつ、周りを見てみる。
 同じクラスの子達が何人かいるが、おしゃべりを終えて皆出て行こうとしているところだ。それと日直の鵡坂(むさか)くん、間内(まない)さん。この二人だけがゆらの方に寄ってきて声をかけた。教室の後方、窓際のゆらの席に三人が集まる。

「近知(こうち)さん、もしかして傘がない?」
「うん……。色々あって、ないんだよね。」

 間内さんは面倒見の良いタイプで、普段から親しい相手でなくとも、困っていれば助けてくれる。その横で鵡坂くんが、ああそうかぁと、のんびりした相槌を打った。

「私の傘に入れてあげられればいいんだけど。」
「家、逆じゃん。いや、僕もそうだけど。でも近知は今までどこ行ってたの?」

 鵡坂くんに指摘された。同じ方向に帰る人がいなくなるまで、ゆらの姿はこの場になかった。

「実は、音楽室の窓を開けてきちゃって、閉めに行ったんだよ。で、そこでも色々あって……」

 この学校では、清掃時に自分達の教室と、加えてどこか一つ別の場所を受け持つように分担が決められている。学年毎の割り当てのうち、五年生は特別教室の集まる区画を担当しており、ゆらのクラスは音楽室を清掃しているのだった。
 毎日、全部で6つある班を、教室組と音楽室組に分けているのだが、やはり遊びたがりの子が片方に集中してしまう場合もあるわけで、今日はその典型と言える。箒も雑巾も持たずに走り回る連中を注意しているうちに時間が過ぎ、なし崩しで「終わり!」となってしまった。窓が少しだけ開いていると気付いた人間は、その時点で誰もいない。
 そして帰りの会の後、たまたま窓について思い当たったゆらが一人で出向いたのだが、運悪く怖めの先生に見付かり、お小言などを頂戴していた。というのが事の次第だ。

「あぁ、大変だったねぇ。」
「だなぁ。」

 二人とも、自分が怒られでもしたような顔でゆらの話を聞いてくれた。でもちょっとだけ面白がっているのが悔しい。

「じゃあ今日はどうするの?クラブやってる子なら、まだ学校にいるかもしれないけど?」
「今日は皆解散しちゃってるんじゃないかな。あたしもこれから家に電話して、迎えに来てもらうから。職員室行ってくる。」
「なんか、何も出来なくてごめんね。じゃあ私……」

 そこまで言いかけた間内さんが、教室のドアを振り返る。違うクラスの友達が手を振っていた。早く帰ろう、という事のようだ。
「ばいばい、気を付けてね。」

 彼女はそう言い残して去っていった。鵡坂くんも、今日の天気でクラブが中止になり、そのまま帰宅するそうだ。

「明日も雨だろな。やることないなー。」
「体育、何やるんだろうね。」
「うーんと、バスケかな。とりあえずボール出すだけで出来るし。じゃあ僕も帰るわ。電話するなら早くしちゃいな。」
「うん、じゃあね。」

 これで、教室には人影がなくなった。ゆらも早足で職員室へと向かう。
 校舎は二棟に分かれている。一~三年生までの教室と職員室などの階がある第一校舎、四~六年生の教室と特別教室がある第二校舎だ。従って、職員室へ行くには渡り廊下を通る必要があった。今いる二階から三階に上がり、渡り廊下を使って第一校舎へ。そこでまた階段を上がって四階の職員室へ。
 途中で立ち止まって空を見てみると、青黒い雲が至る所に雨を打ち付け、うごめいていた。勢いはもう増さないようだが、止む気配もない。廊下には蛍光灯が点り、こちら側の方が外より明るい為、窓ガラスにうっすらと自分の顔が映っている。

「ふぅ……。」

 明日の朝、肩や髪を濡らしながら登校する事を考えて溜め息が出た。その浮かない顔のまま、職員室のドアをノックする。

「失礼しまーす。」

 校内から外部へ連絡を取る際にはここに設置された電話を使う。公衆電話機ではないので、お金を入れずとも通話が出来る。但し、事前に近くの先生から許可を得なくてはいけない。誰に声を掛けようかとゆらが思う間もなく、

「ゆらちゃん。どうしたの?」

 部屋の中ほどから声が上がった。

「あ、友江ちゃん!」
「こらっ、『友江先生』でしょ。まだ帰ってなかったの?」

 ゆらの担任、友江涼子(ともえりょうこ)先生だ。スーツの上着を脱ぎ、代わりにカーディガンを羽織るという、いつもの格好である。そして下はサンダル。看護婦さんってこんなの履いてなかったっけ、とゆらが思っているうちに、こちらへ近付いてきた。

「暗くなったら危ないから、早く帰った方がいいわよ。」
「ええと、傘を忘れちゃって……。だから、電話を使わせて欲しいんですけど。」
「お家に連絡したいの?それならちょっと待って。寄り道しても構わないなら、私が送ってってあげるわ。」

 そう言って、彼女は手に持っていたバインダーを開いてみせた。受け持つ生徒達の連絡先が書いてあるページだった。そこに載った名前の一つを見て、ゆらも思い当たる。

「ひなちゃん家に行くんですね?」
「そう、今日はお休みしちゃったからね。色々届けないと。」

 言いながら友江ちゃんは自分のデスクへ戻っていく。椅子に座って、バインダーを卓上の電話の側に置いた。「彼野陽菜香(かのひなか)/早津市狭松(そうづしさまつ)北○○○……」と住所などが見えている。
 友江ちゃんが電話で訪問の事を伝えている間、ゆらはここ数日のひなちゃんの様子を思い返していた。今、彼女の家ではお祖母さんが入院しており、最初に治療を受けた時からそろそろ一年半が経つ。そして悪い事に、向こう一週間くらいが体の限界だろうと、お医者さんが言ってきたそうなのだ。それからずっと、ひなちゃんは悩んでいた。大人しい子だから、表面的に大きな変化はなかったが、一番の仲良しだろうゆらには何度か胸中を話してくれている。
 ずっと一緒にいた人がいなくなってしまう、その時やその後、どうすればいいのか訊かれた。どうすれば、という質問からして漠然としているわけで、小学五年生のゆらには当然上手く答えられなかった。しかも、ひなちゃんは不安や悩みがあるとその事ばかりを考え続け、自分の内でどんどん大きくしてしまう。毎回、最後には体調を崩してストップがかかるのだが、学校を一日休んでしまう程のものはさすがに初めてだ。
 どうしているだろうか、顔を見て、少しだけでも側にいられたらと思う。今まで、帰宅してから電話をしようと思っていたのが、もう直接会いたい気になってきた。でも、家の事情が事情だけに一人ではやはり訪ねづらい。
 そこへ、友江ちゃんから申し出を受けた。先生と一緒であれば少なくとも、不躾な印象は持たれないだろう。今日の雨も、傘を忘れた事も、結果的にゆらを良い方向へ導いてくれたようだ。神様の思し召しと言うべきか。頭の中に、白髪で髭をたくわえた老紳士の絵が浮かんでくる。が、服装が半裸になってしまった。これだとまるで雷様だ。もっと現代的な、例えば神父さんが着ているあれを着せないと……。

「ゆらちゃん。」

 と、想像が変な方向に行きかけたところで友江ちゃんに呼ばれた。

「私が支度してくる間に、自分のお家に電話しといてくれる?遅くなったら心配かけちゃうからね。」
「あ、はぁい。」

 彼女は教員用の更衣室に向かった。ゆらは職員室の隅で、自宅へと電話をかける。お母さんはまだ、ひなちゃんが欠席した事も知らないのだから、そこから説明して了解を得ないといけない。天気も悪いし先方にもご迷惑になると、会いに行くのを止められる事も考えたが、友江ちゃんが一緒だと分かると許してくれた。

『じゃあ、くれぐれも失礼のないようにするのよ。彼野さんに宜しく伝えておいてね。』

 そんなやり取りで電話は切れた。そのまま、通りかかった先生と校庭の水はけがどうとか、そんな話をしている内に友江ちゃんが戻ってきた。

「じゃあ、行こうか。それじゃ、すみませんけれど今日はこれで失礼します。」

 周囲の先生方も、ご苦労さんとか、運転気を付けるんだよと返している。行き先は皆承知しているようだ。その後、ゆらは生徒用の玄関まで移動し、友江ちゃんを待った。3、4分程だろうか。

「お待たせ。これちょっと小さいんだけど、入って。」

 やってきた友江ちゃんが傘を差し出してくれた。彼女の言葉通り、二人で入るには少々小さいが。それでもゆらは子供なので、どうにか肩の端がはみ出すくらいで収まった。と、

「ゆらちゃん、もっとくっついちゃっていいから。」

 友江ちゃんが軽く肩に手を回してくれた。そしてゆらの腕は自分の腰に回させる。二人の横幅が少し減り、ほぼ傘の大きさと同じになった。このまま駐車場まで行くようだ。ただ、風が強いのである程度は濡れてしまうだろう。
 第二校舎を出て、第一校舎の職員玄関へ向かう。

「ねぇ先生、あたしが靴を持って、職員玄関まで行けば良かったんじゃない?」
「生徒はあそこから出入りしちゃいけないって決まってるでしょ。私の立場上、ゆらちゃんが怒られるような事をさせるわけにはいかないから。」
「う。そうだよね……。」

 もし他の先生にでも見付かれば、きっと友江ちゃんまで怒られてしまう。ゆらはちょっと萎縮した。
 二つの校舎の間にある、石畳の道を抜け、第一校舎の西側に出てくると職員玄関がある。そのすぐ前が駐車場だ。先生方と、来客の車もここに停められている。友江ちゃんの使う軽自動車は比較的出口に近い場所にあった。

「今、ドア開けてあげるからね。傘を持っててくれるかな?」

 傘を渡し、組んでいた肩をほどいてから、彼女は助手席のドアを開けた。ゆらに椅子へ座るよう促して、自分も運転席側に回る。二人とも座席についてドアが閉まると、雨音が低くなって、自分の息遣いや、洋服の擦れる音が耳に入ってきた。

「そこにタオルが入ってるから、使って。」

 指されたとおり、ダッシュボードの引き出しを開けるとタオルが畳んでしまわれていた。しかし一枚しかないようだ。

「先生、先に拭いてあげる。」
「ん、いいの?じゃあせっかくだから頼んじゃおうかな。」

 友江ちゃんは髪を纏めていたゴムを外して、こちらに背中と後ろ髪を向けた。ゆらはタオルを持ち、濡れた部分を丁寧に拭いてあげる。髪は撫でるように。肩は包んで水を吸い取るような感じで。

「ねえ、ゆらちゃん。」
「はい?」
「もう他の先生もいないから、『友江ちゃん』でも『お姉ちゃん』でもいいよ。」
「……いいの?」

 濡れた箇所を拭いてもらい、髪を束ね直す友江ちゃん。見つめると、職員室での時と表情が違う。事務的な色が抜けて素に見える。

「家で会う時みたいにしてもいい?」

 にっこり笑ってくれた。もう、お許しが出たと思って間違いない。
 この人、友江涼子とゆらの間には、遠いながらも血の繋がりがあった。彼女のお父さんと、ゆらのお母さんが従兄妹同士。つまり、友江ちゃんはゆらにとって、はとこのお姉さんという事になる。暮らしている地域が近いのと、親達の親しさもあって、子供の頃から年に十回近くは顔を合わせていた。尚、担任になったのは全くの偶然だが、ここの学校への赴任は友江ちゃん自らが希望してくれたらしい。但し本人の弁によると、『おばさんの圧力によって』だそうだ。
 とは言いつつも、やはり彼女はゆらの事を良く考えてくれている。私情は入れずにきちんと教師として接し、その上で力になるべき時は見逃さない。多分今日だって、ゆらとひなちゃんの間柄を踏まえた上で誘ってくれたのだろう。ゆらを先に送り届けてから、一人でお見舞いをする事も出来たはずだから。

「髪、伸ばしてるの?」

 車を走らせながら友江ちゃんが訊いてくる。ゆらは丁度、乾きかけの毛先を玩んでいた。

「うん、髪を長くしたら、前より大人っぽく見えるかなって。」

 去年まではずっとベリーショートだったけれど、今年は春からお母さんにお願いして、髪を切りに行く頻度を減らしている。また、切る際も不要な部分だけにしてもらい、全体の長さは維持してきた。そろそろ後ろ髪がうなじを隠しそうな感じだ。

「大人っぽく、か。どのくらいまで伸ばすの?もっとずっと?」
「んー、もう少しだけ。あんまり長いのは似合わなそうだし。」
「そう。確かに、ゆらちゃんなら今くらいのが一番可愛いなぁ。」
「ほんと?友江ちゃんが褒めてくれるなら、きっと悪くないね。」

 他愛のない会話が続く。幾度目かの信号待ちで、ゆらは初めて本題を口にした。

「ひなちゃん、大丈夫かな……。」
「心配だよね。でも、ゆらちゃんを連れて来れて良かったわ。これ以上の適任者はいないもん。」
「あたしと会わなかったら、一人で行くつもりだったの?」
「うん。彼野さん本人には会わないで、お母さんに言づてを頼むつもりだったけど。私相手じゃ、どうしても気を遣わせちゃうでしょ。」

 良いタイミングだったと言う友江ちゃん。ゆらも頷いた。
 車は広い四車線の道路から外れて住宅街に入り、ひなちゃんの家がある方角へ向かっていく。所々に設置された街灯の灯りが、夕方の雨にぼやけて浮かんでいる。時折擦れ違う車からも、ライトが濡れた路面に反射して、晴れの日よりも光が視界に広がっている気がした。
 次第に見慣れた道、見慣れたカーブミラーなどが目に入る。白樫(しらかし)の枝葉がのぞく塀を曲がったら、後は道なりに行くだけだ。

「着いたわよ。じゃあ、私が先に降りるから。」

 友江ちゃんがやって来てドアを開けてくれた。そのままゆらも車を降り、先程のように相合い傘で玄関先まで行く。門柱に『彼野』と書かれた表札とインターホンがあって、ゆらが友江ちゃんに代わりボタンを押した。

『はい、彼野ですけれど。』

 ひなちゃんのお母さんだ。事前に連絡済みだからか、余りよそよそしい感じのしない話し方だった。

「私、先程ご連絡しました諒園(りょうえん)小学校の友江と申します。」
『あ、友江先生、わざわざ有り難うございます。今そちらへ行きますので。』

 通話が切れてしばらく待っていると、お母さんが表に出てきた。最初、友江ちゃんの顔を見て会釈したが、すぐにその横のおまけに気が付いたようだ。

「あら、ゆらちゃん。来てくれたの?」
「おばさん、こんにちは。本当はあたしが来ちゃっていいのかどうか、分からなかったんですけど……」
「私の方から彼女に頼んだんです。クラスメイトを代表してお見舞いに来てくれないかって。勿論、彼野さんのご事情は伺っておりますし、陽菜香さんに会うのが難しいようでしたらこの場でお暇しますので。」

 友江ちゃんがかなりのフォローを入れてくれた。ゆらは思わず、おばさんの顔色を窺ってしまう。でも、彼女は逆に、ゆら達がすぐに帰る事も考慮しているのに驚いたようだった。

「いいえ、とんでもないですよ。実はね、ひながゆらちゃんに会いたいって言ってて。でもそんな、こちらから呼び付けたり出来ないし、困っていたのよ。」
「そうなんですか……。」
「ええ。だからゆらちゃん、是非ひなに会ってやって。」

 と言って、おばさんは二人を玄関まで招き入れてくれた。どうやら今日の訪問は正解だったようだ。良かったね、という感じで肩を叩いてくれる友江ちゃん。
 彼野家は平屋の日本家屋で、上階がない代わりか、全体が結構広い。また、それぞれの部屋や廊下などもゆったりとした造りになっている。ひなちゃんの部屋は玄関から一番遠くにあり、そこへ行くまでに庭に面した廊下を通る事になるのだが、ゆらはその時の雰囲気が気に入っていた。

「取りあえず、濡れたままじゃ冷えちゃうから。先生もゆらちゃんも、洗面所にどうぞ。」

 おばさんの案内で洗面所に通され、タオルを渡される。

「これを使って下さいね。ドライヤーもありますよ。その間に私はお茶を淹れますので。」

 との事で、おばさんが去ってから二人は髪や服を拭き合った。自分で出来る気もしたが、友江ちゃんがさっきのお礼と言ってゆらを先に拭いてくれたため、ゆらもお返しに拭いてあげざるを得なくなったのだった。

「ドライヤー、使う?」

 友江ちゃんが訊いてくる。

「ううん、そこまで濡れてないから。」
「そうね。」

 顔を見合わせて、タオルを洗濯籠に入れる。それから少し髪を直してもらい、ゆらが先に立って食堂のある方へ向かった。

「ありがとうございました。」
「いいえ。さあ、先生はこちらにどうぞ。ゆらちゃんはそれをお願いね。」

 見ると、テーブルにコースターとティーカップが4セット。もちろん中身は入っていて、湯気と良い香りを立てている。紅茶だ。テーブル上に置かれた2つが友江ちゃんとおばさんの分、お盆に乗っているのがゆらとひなちゃんの分だろう。これを持って行きなさいという事らしい。

「お茶菓子もいるわねぇ。」

 おばさんが個包装されたクッキーを何枚か乗せてくれた。更に友江ちゃんが、

「これ、今日の授業でやった範囲を書いた紙と、プリントね。言ってくれれば、個人授業してあげるからって伝えといて。」

 手提げにプリント類を入れ、それを手首に下げた状態でお盆を持つ。

「じゃあ、行ってきます。」
「ええ。ひなも、ゆらちゃんに会えばきっと喜ぶわ。」

 二人に送り出されて廊下へ。食堂を出たら角を曲がり、そのまま真っ直ぐ進んでもう一度角を曲がる。コの字の形をした家屋の下の横棒部分に玄関があって、庭を挟んだ反対側にひなちゃんの部屋がある構図だった。
 微かに軋んだ音を立てる床を踏み、ガラス戸からのぞいた庭を見ながら歩く。濡れた飛び石や、何も下がっていない物干し台がある。廊下に差し込む灰白色の光、雨によって強くなった木や土の匂い。もし今日が晴れだったなら、光は橙色に変わり、日向の風が雨音に取って代わるだろう。いつでも、どこか懐かしさを呼び起こす様々なものがここには存在していた。そして、ひなちゃんの事を考える。この廊下を歩きながら、何を話そうかとか、話しながら変わる彼女の表情を思い浮かべるのがゆらは好きだった。ほんの短いお気に入りの時間だ。ドアの前に立ってノックをする時、自然と穏やかな顔になっている自分が快い。

「はーい。お母さん?なあに?」

 ドアを叩いてから半呼吸くらいで、足音と共に返答があった。ベッドから降りたのだろうか。が、ゆらが来た事を知らない彼女は、相手がおばさんだと思っているようだ。

「ひなちゃん、あたし。ゆらだよ。」
「ええっ……、あの、ちょっと待っててくれるかなっ。」

 こちらに近付いていた気配が止まり、静かになった。どうしたのかと耳を澄ませていると、一度足音がしてどこかで止まり、少し経った後にまた気配がドアの方へ戻ってきた。ノブが回り、ひなちゃんが決まり悪そうに顔を出す。

「ゆら、来てくれたんだ。中に入って。」
「あ、うん。お邪魔します。」

 ひなちゃんはパジャマを着ていた。地色が薄いグリーンで、それよりも若干濃いブルーを使ったチェック模様、更に丸襟と、ボタンを留めるラインだけが白くなっている。可愛く清楚な印象だ。また彼女のトレードマークである、とゆらが勝手に考えている長い黒髪。今日も流れるようで柔らかい、はずだったのが、どうも様子が違う。まるで髪を下ろしたまま走ってきたかのように乱れていた。
 ゆらの視線に気付いたのか、ひなちゃんは困った表情で微笑んだ。

「ごめんね、こんな見た目で……。」
「ううん、謝ることなんかないよ。具合が悪かったんだから、仕方ないって。」

 一日伏せっていれば髪くらい崩れるだろう。ミニテーブルに紅茶を並べながら、ゆらはひなちゃんに笑い返した。そう言えばと思い、周りを見回すとやはりあった。ベッドのサイドチェストにブラシが投げ出してある。

「ひなちゃん、髪を直そうとしてたんだね。さっきは。」
「うん、でもあんまりゆらを待たせられないから、止めちゃった。今話しながらでも直せばいいし。」
「じゃあさ、あたしが梳かしてあげるよ。ね。」
「いいけど、お茶が冷めちゃうよ?」
「冷めても飲んじゃうからいいよ。ここに座っててね。」

 返事を待たずひなちゃんの後ろに回り、両手で軽く髪を掬って整えてみる。彼女の髪は柔軟で、一本一本が手の動きに逆らわずに付いてくる感じだ。ゆらは自分の髪も一度触ってみたが、やはり感触が違う。

「ほんと、綺麗だよねーひなちゃんの髪。あたしなんて、寝癖がついたらなかなか直せないもん。」
「綺麗かな……ありがと。でも私もね、風の強い日なんかは嫌になるよ。ばさばさになっちゃうから。」
「それでもいいよー。可愛い娘は何だってオーケーだよ。」

 まず背中辺りの毛先から手で髪をすき、それが終わってからブラシで少量ずつ毛束を梳かしていった。先の方が済んだらそれよりも上、という風に徐々に頭部近くへ範囲を移動させていく。皮膚感覚は自分で触るよりも、人に触られる方が敏感になるものだから、意識して力を入れ過ぎないようにしてあげた。時折ひなちゃんの顔を覗いてみると、気持ち良さそうにしているようだ。

「もう、具合は良くなったの?」
「うん、だいぶ。朝はね、ご飯を食べてからすぐに戻しちゃって、お母さんもびっくりしてたんだけど。一日休んだら良くなったよ。」
「やっぱり、お祖母ちゃんのことが心配だから、だよね……。あ、こういうこと聞いちゃいけないかな。」
「ゆらになら話せるよ。今日もお父さんが病院に寄ってから帰ってくるって言ってた。お医者さんの話だと、あと二、三日が山だろうって。」
「ひなちゃん、平気?」
「平気じゃないけど、覚悟はしたつもり。」

 ひなちゃんの右手が、ティーカップを掴もうとして止まり、その形のまま戻ってきた。所在なげな様子で指先を見つめている。ゆらは髪を梳かすのを一端止め、彼女の隣に行って自分の左手を重ねた。かける言葉が見付からず、そうする他なかったからだ。

「ゆら、ありがとう。」
「いや、あたし何にも出来てないじゃん。」
「そんなことないよ。今日だってこうして来てくれたし、ゆらがいるだけで私すごく安心するんだよ。」

 ひなちゃんは重ねた手をそのままに、左手を自分の胸元に当ててゆらの目を見た。何だか照れ臭い。

「一緒にいるだけでいいの?もっと無理言ってくれてもいいのに。」
「ううん、これで充分だよ。だから何も気にしないで。」

そう言われて、ゆらは自分もまた、心の中に不安を抱えていた事に気付いた。気付いたのは、今それが薄らいだからだ。親友が辛い時に、力になってあげられる自信が持てず、取るべき行動を誤っていないかとずっと不安だった。ひなちゃんの言葉はそんな気持ちを忘れさせてくれた。ちょっとした言動でも、時には大きな力を持つ。だとしたら、ゆらがただ側にいるだけであっても、彼女にとっては本当に心強い事なのかも知れない。

「ねえ。」
「なに、ゆら。」
「あたしも今日、ひなちゃんに会えて良かったよ。」
「そう思ってくれるなら、すごく嬉しい。」

 目を細めて笑うひなちゃん。ゆらは両手で彼女の手を取り、

「ひなちゃん、抱き付いてもいい?」

 ほんの冗談のつもりで口にしたのだが、

「え、えっと……。嫌じゃないんだけどね、ゆら、そこまでしなくてもいいんじゃないかな……。」

 顔を赤くしたひなちゃんは手を引っ込め、俯いてしまった。それでもゆらの方を上目で見て、どうぞという感じで体をこちらに向けようとしている。その姿が否応にも罪悪感を誘う。と同時に、こういう場合どうすればいいのか、ゆらも考えていなかった事に気付く。

「ごめん、ひなちゃん。冗談だから。ほんとにそんな事しなくていいんだよ。ね。」
「あ、そうなの……?私、緊張して息が苦しくなっちゃった。」

 顔を覗き込んで謝罪するゆらと、胸を撫で下ろすひなちゃん。

「でも、ゆらにそんな事言われたら私、本気にしちゃうよ。」
「それって、あたしはどういう人に見られてるのかな……。」
「ゆら、意地悪したから教えない。」

 責められたけれど、ひなちゃんは楽しそうだった。元気になってくれたのだから、これはこれで良かったようだ。

「じゃあ、髪の続きしよっか。」
「うん。」

 向き合うのを止めて再びひなちゃんの背後に回り、ブラシを手に取る。先程梳かし終えたところまでを軽く直してから、新しい部分に取り掛かった。もう一息で頭頂部からブラシを通せるだろう。

「これが済んだら、おばさんのとこに行こうね。友江ちゃんが待ってるから。」
「お母さんも言ってた。先生が来て下さるから、ご挨拶はきちんとしなさいって。」
「もう、具合も良くなったから、大丈夫だよね。」
「ゆらのおかげね。来て欲しいって思ってたら本当に来てくれた。」

 それは成り行きなんだけど、と今までのいきさつを説明してあげた。そもそもは自分のそそっかしさから始まっているわけだから、呆れられても構わなかったが、ひなちゃんは静かに話を聞き、時々微笑みながら相槌を打った。

「ゆら、それは巡り合わせだよね、きっと。」
「あたしも思ったよ。偶然なのに、何かそうじゃないような気がして。」
「うん。ちょっと映画みたい。ちょっとだけね。」

 二人は顔を見合わせて笑った。ゆらの脳裏にもう一度神様の姿が浮かんできたが、今度はちゃんと服を着ていた。
 気付くと、最初に話し始めてからもう25分近くが経っている。友江ちゃんをこれ以上待たせるのは悪いという事で、やや急ぎめに支度を始めた。ゆらは部屋に入った時と同じようにティーカップ等を持ち、ひなちゃんはパジャマの上に羽織る物を探して、押入を覗いている。今の姿で先生に会うのは気が引けるそうだ。

「これで、どうかな。」

 グレーのガウンを着て、こちらを向いたひなちゃん。リネン地で襟はなし、前には大きめのボタンが付いているが、留めてはいない。シンプルさや色合いが、いかにも寝間着といった印象をカバーし、見知った来客なら対応出来そうだった。

「いいんじゃない。可愛いし、あたしもこういうの欲しい。」
「それなら、今度お店に連れてってあげるね。」

 すぐには無理だけどそのうちに、と約束を交わし、連れだった二人は部屋を出た。
 食堂に着くと、おばさんと友江ちゃんが何かを話していた。内容は分からないが、難しい話ではないようだ。

「あ、来たわね。ひな、友江先生の近くにいらっしゃい。」
「彼野さん、こんにちは。体の具合は良くなったの?」
「先生、こんにちは。来てくれてありがとうございます。」

 ひなちゃんが先になって進む。友江ちゃんも席を立って歩み寄ってきた。距離が縮まった後、確認するようにひなちゃんの事を見つめていたが、彼女の顔色はもう随分良くなっている。それが分かった事で、友江ちゃんは頬を緩め、安堵の溜め息をついた。

「心配してたのよ。でも、もう大丈夫みたいね。」
「先生がゆらを連れて来てくれたんですよね?全部そのおかげです。」
「全部か。やっぱりゆらちゃんは特別なんだね。」

 ゆらの方を見て、友江ちゃんが納得したという顔で頷く。ひなちゃんも、隣に来たゆらを横目で見ていた。良い返事を期待されているのだと思うものの、気の利いた言葉が浮かばない。ただ、友江ちゃんがいなければここに来る事もなかったし、ひなちゃんに会えたから、心につかえていたものが取れた。だから自分だけが皆に何かをしてあげたわけではなく、全員が少しずつ、誰かの力になれたのだと思う。

「これは、皆のおかげなんです。」

 つい、声に出して言ってしまった。

「ん?」
「ゆら……?」

 友江ちゃんもひなちゃんも、ついでにおばさんも一斉に不思議そうな顔をする。

「ゆら、ごめんなさい。どういう意味か良くわからない……」
「あー、つまりね、あたし一人が良い事をしたんじゃなくて、友江ちゃんはあたしを連れて来てくれたし、ひなちゃんだってあたしにしてくれたこと、あるし。」

「つまり、ゆらちゃんだけじゃなく、皆が誰かの役に立てたってことかな。」

 友江ちゃんが上手く代弁してくれた。

「そうそう、そういうこと。」

 ゆらの言わんとしていた事が理解出来たのと、しどろもどろの説明が可笑しくて、皆が笑った。ひとしきりからかわれ、それから友江ちゃんが退室の挨拶をしてくれた。

「それじゃ、私達はこれで失礼します。」
「先生、ひなの為に有り難うございました。ゆらちゃんも本当にありがとう。」
「いえ、あたしの方こそ、今日来れて良かったです。」

 おばさんとひなちゃんに玄関まで送ってもらい、二人はまた車に乗り込んだ。彼野家の住所は早津市の狭松北地域になり、近知家は狭松西地域になる。小学校の通学圏内にあるのだから、車で移動すればそう時間はかからない距離だ。また、帰宅ラッシュの時間帯にもまだ早いため、道路は空いていた。きっと早く家に着くだろうから、ただ座って送ってもらう身のゆらとしては、その後どうするかを専ら考える事になる。まず友江ちゃんにきちんとお礼を言って、お母さんにも今日の話をしてあげないといけない。
 そこで、ひなちゃんの顔が浮かんできた。ゆらに会えて喜んでくれ、側にいるだけでいいと言ってくれた。その優しさに報えるものを自分は持っているのかどうか。無いのなら、これから生み出していかなければならないだろう。
 甘えているばかりじゃ駄目だよね、と窓に映った自分に言い聞かせる。そこへ、風に靡く街路樹が重なり、後方へと消えていく。

「風、強いね。」

 ルームミラー越しに友江ちゃんを見て話しかける。

「海沿いの土地だからかな。天気が崩れると一緒に風も強くなるよね。」

 日本の首都となるのが徐永都(そえいと)、その東隣に位置するのが八蓮府(やはずふ)で、早津市は八蓮府の南東部、太平洋岸に拓けた都市だ。友江ちゃんの言葉通り、立地的に風雨の影響を受けやすい。台風が通り過ぎていく場合などは、市内の学校が休校になる事もあった。残念ながらと言うべきか、今年はそんな日がなかったが。

「そろそろ着くかな。車、停められたらいいんだけど。」

 近知家が入居するマンションはオフィスビルや集合住宅が多い区画にある。道路に面した門を抜け、建物正面に設置された警備室の前を通ってしか、駐車・駐輪場や入り口には辿り着けない。取りあえず、友江ちゃんは車を警備室のすぐ前に停めた。窓を開けて声を掛けると、おじさんが外に出てくる。レインコートを着込みながら腰を屈め、こちらの人相を確かめている様子だが、ゆらの顔を覚えていてくれたようだった。

「近知さんとこのお子さんだったよね。お客さんですか?」

 制帽のつばを直しながら、おじさんが二人ともに訊く。

「ええ、親戚の者です。駐車場は空いてるでしょうか?」

 友江ちゃんが答えた。来客用の駐車スペースは多くないので、場合によっては利用出来ない事もある。おじさんは目を背けて考えてから、

「まだ空いてますよ。今、駐車カードを持ってきますから。」

 と言って窓口まで戻っていき、B5判くらいのカードを取ってきてくれた。

「どうぞ。帰られる時に返却していって下さい。」
「ありがとうございます。ご苦労様です。」

 渡されたカードは書類を整理するのに使うような透明プラスチックのスリーブで、『外来用駐車証No.04』と書かれた紙が挟まっている。この番号がどこに車を停めればいいかを表し、またカードを車内の見やすい場所に置いておく事で、無断駐車ではないと示せる仕組みだ。これがなければレッカー移動されてしまうらしい。
 友江ちゃんが車を駐車場の方へ移動させていく。ゆらは今お礼を言っておこうと思った。

「友江ちゃん、今日は色々ありがとう。いつもお世話になってるけど、今日は特に。」
「いいのよ。ゆらちゃんは私にとって、妹でもあるからね。」

 もし、彼女が本当の姉だったらどうだろうかと想像してみる。性格からして、おやつの取り合いとか、下らない喧嘩はしなさそうだ。朝に洗面所を占領されたりはするかも知れない。お下がりの洋服をくれるけれど、今一つ着こなせなかったり、たまにおみやげを買ってきてくれたり。そして意外と日曜には、出掛ける用事が出来るまでパジャマでうろうろするかも知れない。

「じゃあ、叶恵(かなえ)おばさんに顔を見せていかないと。」
「あ、うん。」

 ゆらの頭の中でうろうろしていた友江ちゃんはかき消えた。
 一緒にマンションのロビーまで歩いていき、エレベーターに乗り込む。505号室がゆらの家だから、五階で降りてそのドアの前へ。インターホンを押すと、すぐにお母さんの声がした。

「はい、近知です。」
「お母さん、ただいま。ゆらです。」
「それと涼子です。」

 二人で通話口に話しかけ、傘を畳んだりしているうちにドアが開いた。

「ゆら、お帰り。涼ちゃんもご苦労様。この子が迷惑かけたんじゃないかしら?」
「いえ、私から誘って連れ出したんです。それに迷惑なんて全然。」
「そう?それより涼ちゃん、今日は大雨で体も冷えちゃってるわよね。お風呂の用意してあるから、先に入ってきなさい。」
「お風呂、ですか?」

 友江ちゃんはちょっと面食らったようだった。夕方から、しかも家人に先駆けて入浴とは、首を縦に振りにくい申し出だ。

「だって、風邪引いちゃうでしょう。」
「でも、お風呂をいただくわけには……」
「お母さん、お姉ちゃん困ってるってば。」

 ゆらが助け船を出した。友江ちゃんも恐縮しているので、お母さんはお風呂を諦めたらしい。その代わり、

「じゃあご飯は食べていくわね。もう涼ちゃんの分も材料買ってあるから。」
「ええ、それでしたら、ご馳走になります。」

 今度は友江ちゃんも応じた。もっとも、最初の申し出を断った手前、次も連続では断りにくい。もしかしたら、お母さんは夕食をご馳走するのが目的で、初めから二段構えの支度をしていたのではないか。お風呂は断られても構わないから、その後に夕食の話を切り出す。そうすれば、友江ちゃんはきっとご飯を食べていってくれる。
 これはなかなか上手いなと感心しているゆらをよそに、お母さんは更なる申し出を口にした。

「涼ちゃん、ご飯の時間までだいぶあるから、ゆらの宿題とか見てやってくれるかしら。」
「えー!だいぶあるから、遊ぼうと思ってたのに……」
「せっかく先生が来てるんだから、そんな事させないわよ。じゃあ涼ちゃん、お願いね。」
「あ、はい。責任持って指導します。」

 笑顔になる友江ちゃん。それと対照的に落ち込むゆら。

「やられた。お母さんの狙いはそれか……」
「ちゃんと涼ちゃんの言う事聞くのよ。ほら、まずうがい手洗いしてきなさい。」

 結局、お父さんが帰ってくるまでの間、友江ちゃんにみっちり講義を受ける羽目になってしまった。近知家では特に遅くなる場合を除き、お父さんが帰宅したら全員で夕食だと決まっている。つまり時間目一杯の特別授業という事だ。
 お父さんが部屋に来て、友江ちゃんに挨拶した時、ゆらは既にぐったりとしていた。

「おいおい、大丈夫かゆら。父さんより疲れてないか?」
「もう駄目だわ……。」
「ゆらちゃん、良く頑張ったもんね。おじさん、私も手伝いますから、すぐご飯にしてあげましょう。」
「そうだね。夕飯が済んだら、父さんと一緒に風呂だな。」

 机にへばり付いていたゆらが、それを聞いて起き上がった。

「やめてよ。お父さんとなんか入んないって。お母さんならともかく。」
「何だ、元気残ってるじゃないか。先に行ってるからな。」

 そう言い残して、お父さんは部屋を出て行った。残った二人も、ノートなどを手早く片付けてダイニングへ向かう。そこではもうお母さんがお皿やお箸を並べている最中だった。

「皆揃ったわね。じゃあ物を運ぶの、手伝ってちょうだい。」

 オープン型になっている対面キッチンの片側に、お父さん、友江ちゃん、ゆらが並んで、お母さんの渡す物を運んでいく。その動作が何かに似ていると思ったら、学校給食の時間だった。お味は給食よりも数段上であろうけれども。
 今夜のメニューは、肉じゃがに、鱈とチーズ入りささみのフライ、そして豆腐と大根にじゃこ乗せのサラダという具合だ。しかし、見ると味噌汁の中にも豆腐とわかめが浮かんでいる。

「豆腐と豆腐だなぁ。」

 腕組みをしてあごを掻きながら、お椀とお皿を眺めているお父さんに、冷茶の入ったピッチャーを出しながらお母さんが答えた。

「ちょっとかぶってるけど、いいでしょ?」

 多少食材が重複するのは、予算の節約という理由で、この家ではたまにある。

「そう言えば、ゆらにも手伝ってもらおうって言ってなかったっけ、お母さん。」
「ゆらちゃん、料理出来るの?」
「逆よ、涼ちゃん。全然したことないの。だから少しは教えないと駄目かなって思っててね。」
「うーん、私も、人に食べさせられるようなものは出来ないですねぇ。」

 一緒に教わった方がいいかもね、と友江ちゃんはゆらに笑いかけて、お茶を受け取った。運ぶのはそれが最後だから、お母さんもテーブルにやって来て座り、皆で手を合わせる。

「いただきます。」

 食事中の話題は、概ねひなちゃんの事に終始していた。

「出来るだけ、陽菜香ちゃんの力になってあげなさい。」

 お父さんが言う。頷くゆらに、少し昔の話を聞かせてくれた。ゆらも人の子なのだから、お祖父ちゃんとお祖母ちゃん達がいる。そのうち母方の祖父母は健在で、父方のお祖父ちゃんだけが亡くなっていた。ゆらが2歳になった頃の事だ。お父さんとお母さんは、何度かゆらを連れて病床のお祖父ちゃんを訪ねていたらしい。

「その度に喜んでくれてね、早く元気になりたいって言っていたんだけど……。」

 それを聞いて、ゆらは写真で見たお祖父ちゃんの姿を思い浮かべてみた。あの人がゆらを見て、笑ってくれている姿を。でも想像は出来ても、直接その場面を思い出す事は無理だった。

「あたし、お祖父ちゃんのこと、全然憶えてないや……。」
「うん。だからゆらはまだ、身近な人とお別れした経験がないって言えるだろ。」
「そうかも。あたし、ひなちゃんにお祖母ちゃんのこと、相談されても上手く答えられなくて。もしかしてそのせいかな?」

 サラダを口に運んでいた友江ちゃんが、会話に加わった。

「それが全部じゃないとは思うけど、原因の一つかもね。」
「家族と別れるのは、誰しも必ず通る道だから。陽菜香ちゃんについていてあげるのが、ゆらにとってそういう事を考えるきっかけになればいいなって、父さんは思ったんだけど。」
「そう言えば、あの頃はお父さん、ゆらには心の豊かな人になって欲しいってよく言ってたわねぇ。」
「今だってそう思ってるよ。まあ、勉強もちゃんとして欲しいけどね、その辺は涼子ちゃんに任せるから。」
「はい。いつも厳しくしてますよ。」

 冗談交じりに答える友江ちゃん。学校での彼女は、家で会う時と接し方が大きく違う。しかし、無闇によそよそしくしているのではなく、先生と生徒として普通の関係を保っていくための配慮だ。それはゆらにも良く分かる。

「お姉ちゃん、本当は優しいから大丈夫だよ。」
「それを分かってくれてるなら、もっとびしびしやってもいいかな?」
「何でそうなるのー。駄目。無理。」

 むくれるゆらと、呆れる友江ちゃんを見て、お母さんが苦笑した。

「二人とも、仲良くやってるみたいね。そうそう、お父さん、ご飯の後で、ちょっとアルバムでも見ない?皆で。」
「ん、うん。久しぶりに見てみるか。」

 夕飯の片付けが終わってから、お父さんが引っ張り出してきたアルバムを見る事になった。写真はゆらが生まれる前後から整理されるようになり、数冊に渡って保管されている。意識して記録を残そうとはせず、撮りたい時に撮るだけのため、それほど数があるわけではない。それでも、お父さんとお母さんが二人で暮らしていた頃よりはずっと枚数も増えたらしい。

「ゆらが生まれて、残しておきたい場面が増えたから、けっこう撮るようになったわよね。」
「父さん達はもう大人だけど、ゆらには行事が沢山あるもんな。七五三だとか、入学式とか、色々さ。」
「確かに大人になると、旅行した時ぐらいしか写真も撮らなくなりますね。」

 まだ赤ん坊の時のゆらを見ながら、皆で話している。ゆらもそのうちの一枚を指差した。

「これ、お姉ちゃんが撮ってくれたんだよね。確か。」
「そうよ。私が映ってる写真もあったよね。」

 その言葉通り、同じ日付で制服姿の少女が映ったものもある。髪が肩にかかるくらいの長さしかないけれど、友江ちゃんだ。今よりも少しふっくらとした、幼さを残す顔つきをしていた。

「高校に入ってから、涼ちゃん一人で遊びに来るようになったのよね。」

 ゆらが生後半年の頃に、友江ちゃんは高校に入学している。それ以前は父である充佳(みちよし)おじさんと一緒に近知家を訪ねていた。子供が生まれたから忙しいだろう、という事でおじさんが頻繁には来なくなり、入れ代わりに友江ちゃんが顔を出すようになったのだった。娘に、子供と接する機会を与える考えもあったらしい。

「私はゆらちゃんと一緒にいるうちに、先生になりたいって思ったんだよ。」
「それは、どうして?」
「ゆらちゃん以外にも、子供達に何か教える仕事がしたいなって。私が教えるばかりじゃなくて、子供から逆に教えられることもあるし。」

 例えば身の周りの事柄に対する視点であったり、また自分自身が小さかった時に考えていた事を思い出したり。それが自分を見直すきっかけになるのだと彼女は言う。

「すごいね、お姉ちゃん。ただあたしと遊んでたわけじゃないんだね。」
「まあ大きくなるとね、進路とか考えなきゃいけないから。」

 そのうち、今までになく大人数の写真が出て来た。父方のお祖父ちゃんとお祖母ちゃん、その二人と同居している伯父さん夫婦、そしてお父さん達とゆらが映っている。日付は穣和(じょうわ)55年11月7日、ゆらの誕生日の二日前だ。

「この日は日曜でね、ゆらが1歳になるからって、福磋(ふっさ)から皆で来てくれたのよ。」

 福磋は中部地方の府で、八蓮からはかなり距離がある。

「親父、この時は一度退院してたんだけど、しばらくしてからまた入院する事になっちゃってね。」

 結局体調が良くならなかったと、お父さんが説明してくれた。座布団に座って、ゆらを抱っこしたお祖父ちゃんの顔や体は少し痩せている。それでも表情には慈愛が感じられた。短い期間だったろうけれど、確かに繋がりがあったのだと思える。もし、自分に物心つくまでお祖父ちゃんが元気でいてくれたら、その繋がりはもっと強いものになっただろう。但しその場合、失くした時の辛さも同じくらい強くなるに違いない。
 ひなちゃんは生まれた時からずっとお祖母ちゃんと暮らしている。ゆらにも少し、彼女の気持ちが理解出来てきた。ひなちゃんの喪失感は自分よりもきっと大きい。繊細な子だから、誰かの支えが必要になる。本来ならその役目はお父さんやお母さんが担うところだけれど、今日そうであったように、ひなちゃんが望むのはゆらだ。
 自分が最も親しいと思っている相手から、同じく一番に求められるのは嬉しい。友江ちゃんが帰宅して、夜に寝付くまでの間、ゆらは色々考えてみた。ひなちゃんに対し、具体的に何をしてあげたらいいのか。と言っても、子供の行動力で出来る事は限られているので、そんなに大仰な行為を思い付くわけではなかった。例えば、『二人でどこに行こうか』の『どこ』の部分であったり、仮に何か食べに行くのだとしたら、何を食べるかという部分であったり。かなり限定された範囲でしか、選択の余地が生まれないのだった。
 そこまで思い至ったゆらは、余り難しく考える必要はない気がしてきた。まずはひなちゃんと一緒にいる時間を増やす。そして、したい事は二人で決めればいいし、何もしたくないならそれでもいい。結論が出て安心したところで、ゆらはゆっくり眠りに落ちていった。





 ひなちゃんからお葬式の日程を教えてもらったのは、数日後の事だ。
 お通夜が土曜日の夕方、告別式が日曜日の昼となり、ゆらにも両日の参加が出来る。それまでにお母さんと相談し、礼服を用意したり、会場への道順を詳しく調べて準備をしておいた。
 当日、お母さんが運転する車で駅前の鐘入(かねいり)地区へと向かう。ここの讃愛(さんあい)会館という場所がお通夜の会場となっている。駐車場には既に何台も車が停められていて、黒い服を着た人達が連れ立って歩いていた。お父さんは今日、仕事があったので、会社から直接タクシーでこちらに来るそうだ。先に着いた方が入り口付近の分かりやすい場所で待つよう決めておいたから、居るならすぐ分かるだろう。

「お母さん、ゆら、こっち。」

 申し合わせ通り、待っていたお父さんが手招いている。場所が場所だから、声も身振りもごく小さく。ゆら達も駆け寄ったりはせず、静かに歩いて合流した。そのまま周りの流れに会わせて受付に向かう。少し並んでから、お父さんが家族を代表して不祝儀を渡し、名簿への記帳も済ませた。
 かすかに花の香りが漂う廊下で、葬儀社のスタッフらしき人が話をしていたり、ひなちゃんのお父さんの知人だろうか、互いに挨拶を交わす男性などもいる。そんな中、周囲より一回り人数の多い集団から、小さい人影が歩み出て来た。

「ゆら、こんばんは。」

 黒いワンピース姿のひなちゃんが、小さく手を上げて会釈する。それに気付いたように、ご両親も振り向いてこちらを見た。親戚の人と話しているようだったが、ひなちゃんがゆらの方に行ってしまったので、会話を中断し、並んで後をついてくる。ゆら達も、お父さんが一歩前に出た状態で歩いていき、先方に背中を正して相対した。

「この度は誠にご愁傷様でした。心からお悔やみ申し上げます。私、ゆらの父で近知尚人(ひさと)と申します。こちらが家内の叶恵で、ゆらの事はご存知ですね。」
「ええ、ご丁寧に有り難うございます。私は彼野勝昭(かつあき)と申します。隣が家内の美香(みか)、その隣が娘の陽菜香です。」

 お母さん同士は時々電話で話したり、たまには会ってもいるようだが、お父さん達は初対面のはずだ。

「週末でしたのにわざわざ足を運んで頂いて、申し訳ありません。」

 真面目そうなひなちゃんのお父さんは恐縮している。確かに、娘の同級生のお祖母さんの葬儀であれば、通常は出席までしないわけだから、気を遣ってしまうのだろう。

「いえ、うちの子が彼野さんにはずっとお世話になっているようですから、いずれ伺ってご挨拶をしなくてはと思っていました。ですから何もお気になさらずにいて下さい。」
「お心遣い、感謝します。私達も、ゆらちゃんにはいつも楽しい思いをさせてもらっているんですよ。」

 大人しくておっとりしたひなちゃんに対して、よく喋ってどこか抜けているゆらは、おじさん達から見れば、愛嬌があると言えなくもない。二人はバランスの良い漫才のようにでも映っているのだろうか。おじさんに他意が無いのは分かるが、褒められている気がしなくて複雑な心持ちになる。弱ってしまってひなちゃんの方を見ると、邪気のない柔和な笑顔と目が合ってしまった。こうなると同じ顔を返すしかない。嬉しそうなひなちゃんを見て、何だか知らないが諦めがついた。

「本当なら、お会いするのはこういう席でない方が良かったんですが……。」

 と、周囲にもう少し人が増え、余り彼野家の人達を占有出来ない雰囲気になってきた。

「まだ準備等がおありでしょうから、どうぞそちらにいらして下さい。お話は後程しましょう。」
「はい。では、お言葉に甘えて。近知さん達はどこかで休んでいて下さい。」

 おじさんが背中を向けかけた時、おばさんがそれを軽く制し、ひなちゃんに顔を寄せて尋ねた。

「ひなはお通夜が始まるまで近知さんのところにいてもいいけど、どうする?」
「ううん、私も一緒に行く。でもちょっとだけ待って。」

 そう言って、ひなちゃんはゆらのすぐ側までやって来た。後ろ髪をアップにして、サイドの部分を少し垂らしている。彼女が顔をゆらの耳元に近付けると、耳たぶが目の前に来た。綺麗な薄い桃色をしている。

「ゆら、今日は心配しなくてもいいよ。私は大丈夫だから。」

 顔を離し向き合って、真っ直ぐ目を合わせるひなちゃん。大丈夫という言葉はゆらにだけでなく、自分自身にも言い聞かせているようだ。

「うん。お祖母ちゃんのお見送り、しっかりね。」

 今は最小限の言葉だけで良い。ひなちゃんの心の糸が振れないよう見守って、一区切りが付いた後に何でも聞いてあげよう。その時まで自分は待っていればいいんだと、ゆらは決めた。

「ゆら、あれで良かったの?」

 お母さんが訊いてくる。

「いいの。あたしが余計な事したら、ひなちゃんの気持ちが乱れちゃうから。」
「そう。ゆらがそうすべきだと思うなら、きっとそれでいいのね。」

 新しく受付に来る参列者が減ってきたところで整列が始まった。ゆら達も念の為トイレを済ませておいてから、そこに並んだ。
 皆が会場に入りきり、着席すると低い音量で音楽が流れ始める。後ろを振り返れないので分からないが、座席が足りずに立っている人もいるようだ。沢山の花に囲まれた祭壇には棺が据えられ、その上に遺影も飾られている。その中のお祖母さんは、この場の皆に向かって微笑んでいた。
 その笑顔を見ながら思い出す。元気だった時は、実際にああしてゆらにも声をかけてくれた。学校でのひなちゃんの様子を訊かれた事もある。給食で自分の苦手なメニューが出た日に、それをひなちゃんに食べてもらって、逆にひなちゃんの苦手なものが出た場合には代わりに食べてあげる約束をしたとか、本当に些細な出来事だったけれど、楽しそうに聞いてくれた。
 たまに、お祖母さんがお菓子を作って、ひなちゃんの部屋へ持ってきてくれたりもしている。大抵は事前に少し香りが漂っていたため、内緒にされていても分かってしまったものだ。一度、二人でお茶だけを用意してお祖母さんのクッキーを待っていたら、すごく笑われてしまった。しょうがない子達ねと、目尻を押さえて涙を拭いていたその表情が、遺影に重なって見える。
 司会進行の人がお通夜の開始を告げた。僧侶も神職の人間も入場していない事から、無宗教の葬儀だというのが伺える。司会が故人の生い立ちと半生を読み上げてから、それを引き継いで葬儀委員長を務める男性が前に進み出た。町内会長さんらしい。最近の、入院する前までのお祖母さんと、周りの人との関わりを述べ、彼女が友人達にとって大事な人であったという話や、そしてこれを言うのは辛いのですが、と前置きした上で別れの挨拶をした。
 その間に祭壇の袖で準備されていた台座が運び込まれてくる。その中央に長方形をした薄い陶器の器が置かれ、台座の下部には電熱調理器のような加熱装置があった。この陶器を砂座(さざ)と言い、その横に置かれた碗から納枝(ないし)と呼ばれる匙を使って香砂(こうさ)を入れていく。香砂には香料が塗られていて、熱を帯びる事でそれが少しずつ蒸発し、香りを発する仕組みだ。ここまでの動作を、葬儀の参列者全員で行うのが紹斉(しょうざ)という儀式になる。仏教で言えば焼香に当たるもので、起源は朝鮮半島の古代国家、曾誼(そぎ)の風習にあった。記録では彼らの国教、「啓道(けいどう)」の葬儀の中に紹斉が登場している。ただ、今ではこの国も啓道も絶えてしまっているので、紹斉を行うのに宗教的意味合いは伴わない。という理由から、日本では無宗教の葬儀を行う際、一般的に利用される儀式となっていた。
 まずおじさんとおばさん、ひなちゃんが揃って台座に向かう。足を止めてから振り返り、左右に着席した参列者に一度ずつ礼をする。それから三人が順番に納枝を取り、香砂を入れて均す作業を行っていった。おじさんの番が終わったらおばさん、そして最後にひなちゃんという具合に。
 遺族、親族は一人ずつ、その他の参列者は代表の人だけが納枝を持って紹斉は進む。全ての人が巡り終えた時には、会場の中にほのかな香りが満ちていた。コスモスのようだ。そう気付いたのは、ゆらがこの香りを別の所で嗅いだ事があるからだった。それもつい最近。目を閉じて、該当する場所を思い浮かべてみた。彼野家の庭で、ひなちゃんの部屋から最もよく見える一角に花壇が設えられており、そこへお祖母さんが季節毎に花を植えては面倒を見ていた。ゆらの記憶の中では、この場所が一番花を連想させる。お祖母さんが最後の入院をしてからも、おばさんとひなちゃんが二人で代わりに手入れをしていた。そこで今丁度育てられているのはコスモスだ。だから今日この香りを選んだのだろう。お別れの日の花として、これからひなちゃんの記憶にコスモスは残っていくかも知れない。
 紹斉の後、おじさんが祭壇の前に立って参列者に挨拶をした。多くの人から故人に対する厚意への感謝を、そして今後も変わらずに自分達を見守って欲しいと述べて深く頭を下げる。その後で司会がお斎(とき)の席への案内をしてから閉式となった。
 帰宅する人やもう一度故人と対面しようとする人、ロビーでおじさんに声をかける人など、参列者がそれぞれに動く中、ゆら達は受付の近くに留まっていた。

「どうしよう。彼野さんにご挨拶してくるか、早めに座って待ってるか。」
「私達よりも、ご親戚とか、会社の関係者の方のほうがずっと近い間柄じゃない?だから私達は後の方が良いと思う。」
「そうか。じゃあ、先に座ってお茶を戴いてるか。」

 お母さんの提案により、三人は揃ってお斎の席へと移動した。何人かの先客の間を抜け、部屋の隅の方に場所を取る。料理は既に用意されているが、まだ各テーブルまで運ばれていない。

「お茶はあそこで貰うのかしら?」

 お母さんがディスペンサーからお茶を汲んで持ってきてくれた。と、その様子を見ていた老婦人が席を立ってこちらに歩み寄ってくる。一人だけで参列したのか、誰も連れの人物はいなかった。

「こんばんは。」

 彼女はお父さんに向けて声をかけた。

「こんばんは。彼野さんのお友達の方ですか?」
「いいえ。私はちょっとした知り合いで、友達という程でもないくらいの者です。皆さんは美沙(みさ)さんのご親族でしょうか。」
「いえ、私達もそれ程近しい者ではないんですよ。彼野さんのお孫さんと、うちの娘が仲良くさせて頂いてまして……。」
「あぁ、こちらのお子さんね。お母さんに似ていらっしゃるみたい。こんばんは。」
「こんばんは。近知ゆらです。」
「私は森住妙子(もりずみたえこ)と言います。」

 森住さんはゆらの隣に腰掛けた。大部分が銀色の髪を、耳が出るくらいに短く刈っている。着物を着ているが、それを差し引いてもゆっくりとした身のこなしだった。上品な女性という印象を受ける。

「今日は私、ここに来るべきかどうか悩んでいたんですけどね。さっきも申しました通り、あまり親しい人間でもないもので。」
「彼野さんとは知り合われて間もないんですか?」

 お父さんが尋ねた。余り深く詮索するような言い方は出来ないので、慎重に言葉を選んだようだ。

「ええ。三年前になるんですけど、息子達と同居をする事になりまして、私が早津に引っ越してきたんですよ。でも、今までやっていた家事なんかは、お嫁さんが大体してくれるものですから。」

 頷きながらゆらも話を聞く。何となく、この先の内容が分かった気がした。

「まあ、ちょっと退屈してしまって、時々近所を散歩するようになったんです。天気の良い日にね。」
「じゃあ、その時にひなちゃんの、あ、彼野さんのお祖母ちゃんと……」
「段々うちの周りの地理が分かってきて、あらかじめ歩くコースを決めるようになってきたの。そうしたら、あの人と会ったのよ。」

 周囲の席に人が増え、料理も並び始めた。もう少ししたら、ひなちゃん達も入ってくるだろう。

「同じ道で、お互いに時間が合った時だけ擦れ違うようになったんですけど。初めは挨拶程度だったのが、私の方から声をかけて立ち話をするようになって。散歩にも慣れてきたから、今度は話し相手が欲しくなったっていう、言ってしまえば勝手な理由ですよね。でも美沙さんはいつも笑顔で応じてくれました。」

 その時の会話を思い返しているのか、森住さんは俯き加減で微笑んだ。口元がどこか寂しそうに見える。

「しばらくそんな関係だったところへ、ある時思い付いてお茶を持っていったんですよ。そうしたら彼女も喜んでくれて、二人で公園に寄って、そこでお茶を飲んでね。この日から二人でちょっとしたお茶会みたいなものをするようになったんですけどね。」

 森住さんは簡潔に話しているけれど、お茶に誘う際の心情など、言葉にない部分を想像すると胸がざわめく。知り合ったばかりの友達と初めて遊びに出掛けたり、そういう時の気持ちを思い出しながら、ゆらはこの話を聞いていた。

「私にとっては楽しい時間でした。でも、すぐに美沙さんは体調を崩されて。最後に会った時は、これから入院するけど、結果によっては自由に出歩けないだろうから、会えなくなるかも知れないと言われました。実際その言葉通りに、あの人とはそれっきりになったんです。今日ここで会うまで。」

 ハンカチを出し、滲み出る涙を拭いながら森住さんは話を続ける。

「私は、自分といる時以外の彼女を全く知らなかったから。私が思っているのと同じように、美沙さんにとっても私との時間が大事なものであって欲しいって、そればかり考えてしまって……」

 その後は言葉にならなかった。涙を堪えきれない森住さんに、お母さんが立ち上がって声をかける。

「きっと彼野さんも、森住さんと同じ気持ちでしたよ。短い間でも、大事な時間だったはずです。」

 泣きながら頷き、笑う森住さんは小さい声で何度も「ありがとう」と呟いていた。
 その間に座席もほぼ埋まり、司会が給仕などに確認した上でマイクを持つ。

「では皆様、通夜振る舞いのお席も準備が整いましたので、是非彼野様のお話などをされながら、しばらくの間おくつろぎ下さい。」

 ロビーで帰宅する参列者を見送っていたおじさん達も会場にやってきた。食事をする人に挨拶したり、飲み物をついであげたりしている。

「森住さんもお食事をされていくんですよね?」

 お父さんが訊いた。

「いえ、私はここで失礼します。ただ誰かと少し、話をしたかっただけですから。」
「そうですか……。ご遺族の方もいらしてますが?」

 会っていかないんですか、という意味なのだが、それも彼女は首を横に振って否定する。

「美沙さんにお別れも言えましたし、本当にこれでいいんですよ。」

 そのまま立ち上がってゆらと、お父さんとお母さんに一度ずつ頭を下げ、目立たないよう給仕の人が出て行くのに合わせて部屋を出て行った。誰も引き留めようとしなかったのは、彼女が間違いなく満足そうな顔をしていたせいだろう。
 森住さんは親しくないと言っていたけれど、二人の繋がりは強いとゆらは思う。彼女といる時以外の、お祖母さんの人物像を知っている身としては、少なくとも森住さんから一方通行の気持ちではなかったと言える。出来れば自分の口からそれを伝えてあげたかったが、お母さんが先に同じ事を言ってしまった。ちょっと失敗したなと後悔しながら、何となくひなちゃんの姿を目で探す。まだおじさんやおばさんと一緒に、挨拶をして回っている最中だった。

「じゃあ、ちょっと食事を戴こうか。せっかくだから。」
「ゆら、お茶とジュースがあるけどどっちにする?」
「じゃあジュースにする。」

 お母さんがゆらのコップにオレンジジュースをついでくれた。そう言えば、宴席などで子供用の飲み物として出てくるのは大概オレンジジュースな気がする。アップルでもグレープでも良さそうなものだが、取りあえずゆらの人生経験においてはオレンジが第1位だ。やっぱり色が子供っぽいからだろうかとか、取り留めのない方に思考が傾きかけていると、横から声がかかった。

「ゆら、おまたせ。」
「あれ、ひなちゃん、もういいの?」

 ひなちゃんは式の前よりも少し疲れた感じで、でもゆらの所に来てほっとした表情をしている。

「親戚の人には一通りお礼を言ったから。後はお父さんの知り合いとか、私の知らない人達だから、ゆらと話しててもいいって。」

 指で前髪を直しながら座るひなちゃんに、コップを差し出して訊く。

「飲み物、飲む?」
「うん。お茶がいい。」

 その横から、お母さんも顔を覗かせた。

「じゃあ、二人でお話してる?お母さん達はここで待ってるから、ロビーに行ってきたら?」
「あ、ありがとうございます。うちのお父さん達も、もう少ししたら来ると思いますから。」

 お茶とジュースを一口飲んで、ゆら達は場所を移した。行き交う人も数が減り、周囲は静かになってきている。そんな中、二人だけで座ってみると、普段一緒にいる時の空気が少し戻ってきたようにも感じられた。お葬式という非日常の中、少なからず緊張していた気持ちが若干ほぐれてくる。

「ひなちゃん、大変だった?」
「うん。まだ明日もあるし、今日は私が特別何かしたわけじゃないんだけど、やっぱりしんどいね。」
「そっか、大事なお別れだから、緊張してるんだろうね。」

 ひなちゃんは頷いた。

「この日の事をずっと憶えておこうって、すごく気持ちが張ってたから。でも、お別れ自体の辛さはそんなになかったと思う。」
「そうなの?」
「最初はね、自分が悲しさを我慢出来てるんだって、だから辛くないんだと思ったの。でも本当はそうじゃなくて、全部お祖母ちゃんのおかげだったんだよ。」

 ゆらは身体をずらし、少しひなちゃんに身を寄せてあげた。

「病院でお祖母ちゃんに会う時に、大きい家具なんかは処分していいとか、庭の花壇のお手入れとか、自分がいなくなったらこうして欲しいっていう話を何度もされてて、私はそれがすごく嫌だったの。一度泣いてお祖母ちゃんに、お願いだからそんな話しないでって、怒っちゃった事もあって……」

 膝の上で組んだ両手に力を込めて、ひなちゃんは悔いる顔をしている。ゆらは何か声をかけようとしたが、まずは最後まで話を聞いてあげようと思い、黙って先を促す。

「それでもお祖母ちゃんは笑ってくれて、これは大事なことなのよって。その時の私には意味が分からなかったけど、お祖母ちゃんはああやって、私に心の準備が出来るようにしてくれたんだなって。お別れすることにちゃんと目を向けさせてくれたっていうか。」
「ひなちゃんは、お別れするのが嫌で、そのことを考えないようにしてたんだね、きっと。」
「うん、でもそれじゃ、何の準備もしないまま今日を迎えることになって、かえって辛い思いをするだけだよね……。」
「お祖母ちゃんはそれがわかってたんだ。だからひなちゃんにそういう話をしたんだね。」
「私が嫌がっちゃったから、お祖母ちゃんはきっと私より辛かったと思う。本当、何してるんだろうね、私。」

 ちょっと自嘲した表情で、ひなちゃんは笑った。握った手に涙が落ちて少し跳ねた。

「ひなちゃん……」

 居たたまれなくなって、ゆらは上半身を横に向け、ひなちゃんに手を伸ばす。すぐに二人の目が合い、彼女はゆらの胸元に頭を預けた。そのまま声を出さずに泣いて、泣きながら緩く抱き付き、ゆらもそれに応える。
 落ち着きを取り戻してから、ひなちゃんは小さな声でごめんね、と口にした。

「大丈夫だって言ったのに、最後の最後で泣いちゃった。ゆらが目の前にいると甘えちゃうのかな。」
「あたしは全然構わないよ。それに、泣いたら駄目ってわけじゃないよ。」
「うん。だけど、湿っぽい思い出にしたくなかったから。」
「それなら、まだ明日があるから。明日は明るく送り出してあげようよ。」
「そうだね。」

 ひなちゃんはハンカチを出し、瞼を拭きながら微笑んだ。

「ほっぺたにも涙の跡がついてるよ。」
「あ……どのへんかな?」
「あたしが拭いてあげようか。」
「ううん、大丈夫。自分でするから。」

 と言いながら、顔を背けるひなちゃんの頬が少し赤い。どうやら照れ臭いようだ。それにつられて、ゆらも少々赤くなっていたところへ、おじさんとおばさんがやってきた。

「ひな、大丈夫?今日はゆらちゃんにたっぷり甘えていいわよ。」
「お母さん、変なこと言わないで……。」

 割と図星なせいか、ひなちゃんはむくれた顔で抗弁する。が、おばさんは見ないふりをしたまま、おじさんに話しかけた。

「じゃあ、皆で食事にしちゃいましょう。」
「そうだね。ひなもゆらちゃんもおいで。近知さんのところで食べよう。」

 おじさんに誘われるまま、両家全員で席に着く。食事中はどちらかというと、学校など日常の話題が多かった。ゆらのお父さんは、これまで彼野家と直接関わりが無かったので、おじさんが気を遣ったようだ。多分、お父さん達もそれを分かっていて会話していたと思う。
 その後、ひなちゃん達はまた親族の集まっているところへ戻り、来客がいなくなってから宿泊の準備を始めるとの事だった。

「じゃあ、私達はこれで失礼します。また明日に伺いますので。」
「本当に有り難うございました。今日は皆さん、ひなの為に来てくれたんだから、お礼を言いなさい。」
「おじさん、おばさん、ありがとうございます。ゆらもありがとう。」
「そんな、いいよ。明日も来るからね。」

 家に帰ってから、友江ちゃんに電話しておこうかと思ったけれど、遅めの時間だったので止めておいた。先にお風呂に入ってしまいなさいと、お母さんに言われるまま支度をし、脱衣所で着ている物を脱ぎながら考える。ひなちゃんは明日、弔辞にあたる挨拶をすると言っていた。原稿は出来ているし、おばさんと一緒に読むそうだから平気だとは思うものの、知らない人が大勢いる前に立てば予想外に緊張するかも知れない。

「はー……」

 熱めの湯船に入り、何かしてあげられる事はないかと思案する。お湯の中で手を組んだり、髪の毛を弄ったり。式の最中に側へ行くのは無理だから、事前に一声かけておくとか、例えば緊張しないおまじないでもあればいい。

「そうか。」

 ならば、ひなちゃんに何かお守りになる物を渡しておき、それを持っていれば緊張しないよと言ってあげればいいだろう。問題は何をお守りにするかだった。今からではお店も開いていないし、手作りしている時間もない。
 お湯に半分顔をうずめ、お風呂の水平線を見つめながら知恵を絞り出す。今持っている中で、お守りたる由縁のある物がないかどうか。
 悩んだ末に一つだけ思い当たった事がある。小学三年生の頃、テスト時に緊張しない為のおまじないとして、緑色の消しゴムをポケットに入れておくのが流行った。あれが確か、まだ机の引き出しに残っていたはずだ。
 お風呂を出て、パジャマに着替えたゆらは真っ直ぐ自分の部屋へ行った。後ろ手にドアを閉めて机に取り付く。想像していたのとちょっと違う場所だけれど、消しゴムはちゃんとあった。使っていないから新品同様で、ひなちゃんに渡しても大丈夫そうだ。これで一安心、と思ったところでお母さんの呼ぶ声がする。

「ゆらー、髪も乾かさないで何してるの?そのまま寝たら風邪引くわよ。」
「あ、ちょっと。今戻るよー。」

 持っていくのを忘れないよう、礼服のポケットに消しゴムを入れてから、ゆらは部屋を出ていった。





 翌日、昨日と同じように受付での記帳を終えると、今度はゆらの方からひなちゃんの姿を探す。親戚の人達か、ご両親と一緒にいるかと思ったが、一人で廊下の椅子に腰掛けていた。ぼんやりした表情で、緊張しているようにも見える。

「ひなちゃん。」
「ゆら、おはよう。」
「おはよう。夕べは良く眠れた?」
「うん、一応はね。自分の家じゃないから、慣れない感じだったけど。」

並んで座る二人の前を、スタッフや参列者の人が何人か横切っていく。

「今日で終わりだね。」
「そうだね。さっきもお祖母ちゃんにご挨拶してきたところ。」
「そっか。ひなちゃん、緊張してない?」
「してると思う。朝ご飯があまり食べられなかったから。」
「実はね、あたし、お守りを持ってきてあげたんだよ。」

 と言ってポケットから消しゴムを出し、ひなちゃんの前に差し出して見せた。

「これって、だいぶ前に流行ったおまじないだよね。ゆら、まだこれ持ってたんだ。」

 お守りを持ってきた事だけでなく、ゆらの物持ちの良さにも感心されている。運良く、今回はそれが役に立った。

「こんなのしか用意出来なかったんだけど、持っててくれるかな?」
「もちろん。ありがとうね、ゆら。」

 喜ぶひなちゃんを見て、ゆらも気持ちが良かった。見た目は単なる消しゴムでも、心意気は沢山こもっているんだという、その部分を言わずとも汲んでくれたからだ。付き合いの長さだけでなく、ひなちゃん本人に元々備わっている人柄がそうさせるのだろう。

「そろそろお父さん達のところに行かないと。ねえゆら、このお守り、ずっと持っててもいい?」
「いいよ。それじゃ、また後でね。」
「うん。」

 ひなちゃんが立ち去った後、ゆらもお父さん達と合流して会場入りする参列者に加わった。昨日よりも少し前方の席に座れそうだ。祭壇の左手には砂座が置かれている。係の人がずっと香砂を絶やさないようにしているらしい。
 開式の辞の後、まず弔電の紹介が始まる。直接参列はしていないが名前を読まれるからには、という事で立派な肩書きの人ばかりが続く。何となくだけれど、ひなちゃんのお父さんは結構偉い立場の人なのではと想像出来た。

「次に、ご遺族から故人様に向けて、お別れのお言葉を頂戴したいと思います。」

 司会に促されて、おじさんが先に、続いておばさんとひなちゃんが並んで立ち上がる。祭壇の前へ行き、最初に座席側を向いて左右の参列者にそれぞれ礼をした。その時ゆらは無意識にひなちゃんの顔を見ていたのだが、一瞬目があったように思う。それから、お守りをしまったあたりにひなちゃんが軽く手を触れてみせたので、どうやら気のせいではなかったようだ。二人以外の誰にも分からないサインなのに、思わず周りに目をやったりしながら、ゆらはその先を見守った。
 おじさんが原稿を読み終え、スタンドマイクの前を離れると、おばさんがひなちゃんを連れてその場所に歩み出た。二人で顔を見合わせてからマイクの高さを調節する。まずおばさんが先に話すらしい。

「お母さん、こうして改まって話をする事なんて今までなかったけど、今日は最後の機会です。だから聞いていて下さい。私が生まれた時からずっと一緒に暮らしてきたお母さんは、私にとって全く意識しないくらい普通の存在でした。でも今、例えば毎朝朝ご飯を私だけが作っているとか、洗濯物がちょっと少ないとか、そんなところからようやく実感が湧いてきています。当たり前にいてくれた人がもういなくなるのだという事実に対してです。ただ、どうか心配はしないで下さい。私には支えてくれる家族がいます。夫や娘と助け合ってこれからも暮らしていけるでしょう。こう胸を張って言えるのは、今の自分自身が充実しているからですし、それは私が一人前になるまで守り育てた、あなたの愛情があったからこそです。立派に育ててくれてありがとう。本当に長い間、お疲れ様でした。」

 おばさんは少しだけ涙声で挨拶を締めくくり、遺影に向かって頭を下げた。そしてひなちゃんを促して自分の側に立たせる。ひなちゃんは自分でスタンドの位置を直してから話し始めた。

「お祖母ちゃん、庭の花壇に植えたコスモスが今沢山咲いています。家のことや、私のこと、最後まで気にかけていてくれましたね。自分の体が辛いのに、家族への心配を優先させて、私の前ではいつも笑顔でいてくれました。それはすごく大変だったはずですが、子供の私はお祖母ちゃんの優しさを当たり前のもののように考え、自分がどれほど気遣われているのか分かりませんでした。本当にごめんなさい。そして、こんなに愛してくれてありがとう。これからの生活は、大事な人が一人欠けて不安もありますが、一つだけ目標を決めました。私はいつか、お祖母ちゃんのような人になりたいです。この気持ちは例えれば種みたいなもので、長い時間をかけて世話をし、大きな樹になるまで大事に育てていかなければいけません。もし私がどこかでくじけそうになったら、お祖母ちゃんの言葉や笑顔を思い出して頑張ろうと思います。そして、この樹がまた新しい種を生むぐらいになったら、それを周りの人にも伝えていきます。お祖母ちゃんの孫として暮らしてこれて、私はすごく幸せでした。どうかゆっくりと休んで下さい。」

 ひなちゃんが礼をし終わってから、三人とも揃って席に戻る。周りには泣いている人もいて、ゆらも同じように、そっとハンカチを出して涙を拭っていた。
 続いて献花を行う旨が告げられ、参列者は昨日の紹斉と同じく、順番に席を立って祭壇へと向かっていった。今回の場合は、葬儀社の人から花を受け取った後、それを直接棺に納める手順になっているようだ。あの弔辞の後で故人に最後の挨拶をするのなら、参列者の気持ちも高揚しているし、式の流れとして美しい。特定の宗教に則った式ではないので、おじさん達がプログラムを決めたのかも知れないなと思いながら、ゆらも自分の番が来るのを待った。

「どうぞ。」

 中年の女性スタッフから花を渡され、棺の前に立つ。そう言えば葬儀が始まってから初めてお祖母さんに対面する。花に囲まれて眠る彼女は、温度を失った肌の色とも相まって、やはりこの世とは隔絶された存在になったのだと思わされる。しかしそれとは対照的に、彼女の遺したものの大きさ、温かさをひなちゃんが示してくれた。この気持ちを育て、周りの人にも伝えたいというひなちゃんの言葉に心の中で頷き、さようならを言いながらゆらは花を捧げた。
 参列者が献花を終え、出棺も済むと、閉式の辞が告げられる。それから移動の準備だ。火葬場は讃愛会館から北西に20km程離れた山裾にあって、係の人が送迎バスの案内をしていた。

「早津市当葉(あたば)斎場までご同行を希望される方は、こちらでバスにお乗り下さい。」

 出口のところで、会館を出る人それぞれにおじさん達が礼をしている。ゆらはその流れには乗らず、まだ会場内で立ち止まったままだった。

「いたか?」

 お父さんが訊く。

「ううん。いらしてないみたい。」

 お母さんは首を横に振った。もう殆どの人は外に出てしまい、この場に目当ての人物がいればすぐ分かるくらいになっている。

「森住さん、今日は来なかったんだね……。」

 落胆したゆらの頭に、お母さんが掌を乗せた。二、三度髪を撫でてから、それは肩に下りてきた。

「もうちょっとお話したかったよね。でも彼野さんのご近所に住んでる方みたいだし、もうこれっきり会えないってことはないと思うわよ。」
「そうだね。いつかまた会えるかも。」

 昨日の会話から、彼女がどの辺りを散歩しているか想像はしていたので、今度自分もその辺を歩いてみようとゆらは思った。

「じゃあ、バスが出ちゃうから行こうか。」

 お父さんに促され、三人は出口を出る。おじさん達もひなちゃんも待っていてくれたが、今は移動をしなければならないため、簡単に挨拶だけをして別れた。
 当葉斎場はその名の通り、当葉山(あたばやま)という山の麓にある。早津に隣接する希馬町(きまちょう)へ通じる道路から逸れ、斎場の駐車場に入ってバスは停まった。霊柩車や葬儀社の車も同時に着いたようだ。参列者やスタッフが全員揃ったところで一カ所に誘導される。他にも同時にここを利用する団体が何組かいるので、邪魔にならないようにしているのだろう。集団が綺麗にまとまった状態のまま、荼毘を行う係の人がいる場所まで案内された。
 説明によると、荼毘が終わり、収骨の準備が出来るまで二時間弱あるらしい。割り当てられた休憩室で食事も出るが、食べ終えた後はアナウンスが聞こえる範囲でなら、自由にしていて構わないとの事だった。
 火葬炉に収納されていく棺を見送り、黙祷を捧げてから、休憩室へと通してもらう。そこはそれなりに広く、先に斎場へ来ていたスタッフがお弁当と飲み物を並べている最中だった。ゆらは外の景色が見える席へ行き、お母さんを手招いて座る。おばさんも一緒だ。親戚とはもう話せるだけ話したから、ということですぐ近知家の方に来てくれた。壁面の半分以上を占める大きな窓から、昼の光が良く差し込んでいて眩しい。

「お母さん、隣に座って。」
「うん。で、お父さんは?」
「あれ?」

 後ろを見ると、お父さんはおじさんと二人、並んでこちらに手を振っているところだ。どうやら父親同士で食事をするという事らしい。となれば、ひなちゃんとおばさんはゆら達と一緒に食べるのだろう。

「近知さん、お疲れ様。向かいに座ればいいかしら。ひなもゆらちゃんの向かいでいいんじゃない?」

 おばさんに言われて、ひなちゃんもゆらの反対側に着席した。座った後で一度背中を浮かせ、衣服を直してから姿勢を正す。大人びた仕草だった。

「ゆら、お守りありがとう。おかげで緊張しないで喋れたよ。」
「お守りって、どんなの?」

 お母さんが会話に入ってきた。消しゴムを取り出したひなちゃんにいきさつを説明されると、なるほどねと頷く。

「ゆら、良く思い付いたじゃない。昨夜ごそごそしてたのって、これ?」
「うん。まだ持ってて良かったよ。」

 おばさんは人差し指を顎に当て、中空を見ながら何かを思い出す素振りをしていた。

「私が子供の頃にもそういうおまじないがあったわねぇ。ええとね、同じハンカチを二枚用意して、片方には好きな男の子の名前を刺繍しておくの。で、名前のないもう片方を学校へ持っていって、目当ての子に使って貰えれば両想いになれるのよ。」
「その、使ってもらうっていうのがちょっと難しいのね?」
「そうそう。だからこそ皆信じたんだけど。」
「彼野さんも、それやったの?」
「ううん、私はそこまでしたいと思う相手なんていなかったわ。結構目立たない子だったし。」

 この発言を聞いて、ゆらは今のひなちゃんから、少女時代のおばさんを想像してみた。顔つきはひなちゃんより少しふっくらしているかも、そして髪型はおさげだろうか。当時の流行が分からないので取りあえず昔風な女の子のイメージを当てはめてみる。服装は古めの映画で見た女優さんのものを合わせてみて、といきたかったが子供には似合わない。などと心象世界で悪戦苦闘していると、お母さんに頬をつつかれた。

「この子ったら、何を一人で考えてるんだか。」
「うぐ。ちょっとね……。」

 親娘のやり取りを、おばさんは可笑しそうにみている。

「じゃあ、お弁当を食べちゃいましょう?」

 ひなちゃんは突っ込む事もなく、あっさりと会話を先に進めた。本人は無意識で、何の悪気もないらしい。
 お弁当は器が大きく4つの区画に分かれており、小さな梅干しの乗った白飯、竹の子と人参と里芋の煮物、その両隣にバランを挟んで牛焼肉、卵焼き。残りの区画には焼き鮭と蓮根の天ぷら、そしてポテトサラダに大根の桜漬、更に詰め込むような感じで丸いコロッケが入っていた。大人向けのいわゆる幕の内弁当だが、ゆらの苦手な物はない。

「ひなちゃん、食べられない物ある?」
「ううん。大丈夫。」
「そっか。いただきまーす。」

 缶入りのお茶を開け、お弁当をつつきながらお母さん達の方を見る。自分が思っていたよりも、二人は親しそうだ。

「これ、何コロッケ?」
「クリームじゃないかしら。ホワイト。」
「彼野さん、どうして分かるの?」
「お弁当に入ってて、まん丸いのは大体そうじゃない?」
「そう言われるとそんな気もするわね。じゃあ取りあえずこれから……」

 こうして話している姿からは、実際よりも少し若い雰囲気が感じられる。大人の人でも、友達と話す時にはこういう風になるのかも知れない。

「ひなちゃん、弔辞すごく良かったわよ。詩的で、でも分かりやすかった。」
「あれは、うちのお母さんが手伝ってくれたんです。私がこう言いたいって思ってることを、きちんとした言葉に直してくれて。」
「でも、内容を考えたのはひなじゃない。私は表現するのを手伝っただけだから。」

 ひなちゃんははにかんでいる。ゆらもお母さん達にならい、褒めてあげた。

「気持ちの種っていうのが良いよね。そういうの、あたしも持ってるなって思ったもん。」
「うん、私からお祖母ちゃんへだけじゃなくて、皆に当てはまるような形で話したかったの。」

 弔辞の意図を、ゆらも理解してくれていたのが嬉しかったようで、ひなちゃんはにこやかに箸を進めた。朝ご飯が余り入らなかったとの話だが、今は食欲も戻ったようだ。自分の仕事を終えて緊張が解けたからだろう。ただ、葬儀のプログラムはもう少し残っている。

「これから、収骨をしなくちゃね。」
「近知さんはお骨を拾うの、初めて?」
「ううん、何回かはやったことがあるの。でも緊張するのよね。お骨って、触れてはいけない所に触れてるような気がして。」
「それは分かるわ。普段目にすることすらないものね。これから、こういう機会はまた来るんだろうけど、絶対慣れたり出来ないと思う。」

 お母さんはこれからが緊張の本番らしい。ゆらもひなちゃんも収骨は未経験で、それ故お母さんのような心情には至っていなかったわけだが、亡くなった人のとても深い部分に触れる、という事を考えると、確かに胸の奥がざわめいてくる。とても厳かに思える行為へ、自分が参加しても良いものだろうか。ひなちゃんと一緒なら、或いは大丈夫かも知れない。

「ねえ、ゆら。」
「え、何?」

 名前を呼ばれ、顔を上げる。明るさで、ひなちゃんの前髪が一本一本よく見えた。その下の眉が僅かに上がる。

「お弁当を食べ終わったら、二人で散歩に行かない?」
「いいけど、遠くには行けないよね?」
「ここは中庭があって、そこで座って休めるようになってるみたい。もし人が一杯だったら、ロビーでもいいし。」

 アナウンスがあるまで、ゆらもひなちゃんと一緒にいるつもりだった。でもどうせ待つのなら、広々とした場所が良い。

「うん。一緒に行こ。」

 申し出を快諾して、ゆらはお母さん達の方を見た。誘ってみようかと思ったのだが、

「それじゃあ、二人で行ってきなさい。私達はここにいるから。」

 おばさんが先に答える。お母さんの方も、後で何か飲みたくなったら使いなさいと、小銭をくれた。今は欲しくなくても、喋っているうちに喉が渇くかも知れない。ゆらはお礼を言って、それを小銭入れにしまっておいた。
 結局誘いもお伺いもせず、二人で散歩に行く事が決まったので、お弁当を食べたゆらとひなちゃんは連れ立って休憩室の外へ出た。廊下の各所に天井から案内板が下げられている。矢印で示されているのは、ロビーや購買、お手洗いなど。何度目かの分岐で、二人は中庭へ通じる通路を見付けた。少し傾斜した廊下を下ると両開きの扉があり、そこから建物外に出られるようだ。

「ひなちゃん、ほら。」

 左手でドアを押し開け、右手でひなちゃんの手を取ってゆらは外へ出た。日差しの明るさに、暖かさと風の動きが加わって体を取り巻く。髪を揺らしながら振り向くと、ひなちゃんは目を細めてこちらを見ていた。

「思ってたよりも広いねぇ。」

 手を繋いだまま、ひなちゃんはゆらの側に寄ってきて話す。中庭は二方が壁をすぐ背にしていて、もう二方は開けていたが、植え込みで囲われているため全体の形は長方形となっていた。植え込みに沿った何ヶ所かにはベンチがあり、庭の中央に立つ白木蓮(はくもくれん)の下にも設置されている。背の高い木の陰は程良く日光を遮り、居心地が良さそうだった。

「ゆら、あそこに座らない?」

 今度はひなちゃんがゆらの手を引いて歩き出した。ベンチの前まで来てから手を離し、その掌を「お先にどうぞ。」と差し出す。言われるままに腰を下ろし、ゆらはひなちゃんも隣へ座るのを待った。

「ゆら、髪伸びたよね。」

 すぐにはベンチに座らず、ひなちゃんはこちらを見て問い掛ける。

「うん。どうかな?」
「女の子っぽくなったよ。今までなかった雰囲気があって、時々こっそり見ちゃう。」

 話しながらひなちゃんは歩いてきて、後ろ手にベンチの縁を押さえてゆっくりと座った。ゆらを見知った彼女にも新鮮味が感じられるという事は、これは褒め言葉なのだろう。

「ありがと、ひなちゃん。でも別にこっそり見なくても……」
「そっと見るのがいいんじゃない。ね?」

 分かるような分からないような理屈だ。でも知らないうちに見られているなら、大きなあくびなどは今後控えた方が良いかも知れない。

「ねぇひなちゃん、あたし達が初めてちゃんと話した時のこと、覚えてる?」
「うん、その日は私が日直で、でも同じ日直の男子が早退しちゃったんだよね。」

 小学一年生の時、二人は入学してすぐ同じクラスになった。諒園小学校の場合、最初に席替えをするまでの座席は五十音順か生年月日順で配置される。そのクラスでは五十音順が採用されたため、ひなちゃんとゆらはかなり近い席に着いた。
 ただ、二人にクラスメイトとして以上の接点が生まれるのは、しばらく後になる。それがひなちゃんの言う日直の日だ。男女組みで務める日直の、片方の男子が早退してしまった。そこで先生が代役を探しに来たのだが。

「時谷(ときや)先生は私の隣の子に代わりを頼もうとしてたみたい。でも休み時間だからその子もどこかに行っちゃってて……」
「たまたまあたしがいたんだよね。で、男子じゃなくてもいいですか?って訊いたんだけど。」
「近知は男前だからいいんじゃないかって、先生がすぐ決めちゃって。」

 ひなちゃんはその現場を思い出して笑っている。当時まだ髪が短く、年齢的にも小さかったゆらは、確かに男の子と間違われる事もあった。

「褒めてくれたんだろうけど、あんまり嬉しくないよねぇ。」
「でも、あれがなかったら私達、こんなに仲良くなってないかも知れないよ?」
「そうだね。ひなちゃんのこと、大人しそうであたしとは合わないかなって、ずっと思ってたし。」
「それが意外といい感じで、この子とはもっと仲良くなりたいって、私思っちゃって。」
「一緒に帰ろうって誘ってくれたよね。」
「うん。今誘わなかったら、友達になるきっかけを逃がしちゃうなって。」
「あたしも実は同じことを考えてたんだけど、ひなちゃんの方が先に誘ってくれて、あ、同じだ!って喜んじゃった。」
「そういうところが合うのかもしれないね、私達。」

 この日は一緒に帰っただけでなく、ひなちゃんの家にお邪魔して、お茶まで戴いてしまった。ご馳走されっぱなしでは失礼だという事で、ゆらも後日彼女を自宅に招待している。お母さんも、優しそうな子だったわねと、ひなちゃんを気に入ってくれた。それから二人は親密になるのだが、三年生の時にクラス替えで別れ別れになった事がある。きっとあの時一緒に日直をしていなくても、ある程度会話をする間柄にはなっただろう。でも、その関係はクラス替えの時までしか続かなかったに違いない。そう思うと、時谷先生曰く「男前」だった自分も、なかなか捨てたものではない気がする。

「先生、どうしてるかな。」
「出身地の方の学校に転勤していったのよね。面白い人だから、人気ありそうじゃない?」

 面白いというか、どこか隙のある感じの人なので、確かに生徒受けは良さそうだ。学年が変わり、ゆら達の担任を外れてからは殆ど話していないが、多分元気でやっているのだと想像しておく。

「ところで、これからお願いしたいことがあるんだけど。」

 膝に置いていた両手のうち、右手だけを脇に下ろし、ひなちゃんはゆらの方に体を向けた。

「どうかしたの、ひなちゃん。」
「恢埒(かいらつ)って、理科の時間に習ったよね?」
「うん。心臓の前にあるっていう……」

 人間の胸部には、心臓を守るため、その前方に心底骨(しんていこつ)という骨がある。恢埒とは心底骨の古称だ。

「お骨を拾う時にね、私と一緒にそれを拾って欲しいの。」

 恢埒はお椀を半分に切ったような形をしていて、ここ以外の骨よりも組織の密度が高い。だから火葬が行われた後、ほぼ完全な状態で手にする事が出来る。魂の器のようにも見える外見から、これだけを特別な骨壺に入れて身近に保管しておく家庭もあるらしい。今回の葬儀でも、遺族が希望するなら、葬儀社の方でその手配をしてくれるはずだ。ゆらは、彼野家の人達がお祖母さんの思い出を大切に取っておきたいのだろうと思った。

「じゃあ、恢埒を別に残しておきたいんだね?」
「そう。でもただ取っておこうってことじゃなくて、それを使って、後で改めてお別れの儀式をするつもりなの。お父さん達とも話して決めてて。」

 ひなちゃんの説明だと、これで葬儀が全て終わるわけではないようだ。でもゆらの知っている限り、この先に行うべき儀式はなかった。もしかしたら、身内だけで手作りのお別れ会をするのかも知れない。ゆらに収骨を手伝ってくれるよう頼むのなら、そちらの準備にも加わって欲しいという事ではないだろうか。

「儀式って、どんなことをするの?あたしも何か手伝える?」
「イナミサナイっていう、この地方に伝わる葬儀の一種をするんだけど、ゆらにはそれに参加してもらいたいの。」

 少し、想像と違う方向に話が進んでいっている。まずイナミサナイというのがどんな儀式で、どのくらいの規模なのか全く分からない。ひなちゃんの頼みなのだから、参加はするとしても、事前に色々知っておく必要がありそうだ。

「あたしはその、イナミサナイのことを全然知らないから教えて?昔のお葬式みたいなものなのかな。」
「うん、私も実際やることになるまで知らなかったけどね。トォマガイって名前は授業で教わったでしょ?」
「先住民族だよね……。」

 去年、社会科の教科書と一緒に、10ページくらいのパンフレットを受け取った。そこには瑛河(えいか)地方(八蓮の南東沿岸部)に居住していた先住民族についての記述があり、彼らが自らをトォマガイと呼称していたと、授業でも習っている。確か「トォ」が子で「マガイ」が大地、だから大地の子という意味だったはずだ。

「トォマガイの人達にもお葬式の手順があって、イナミサナイはその一部なんだって。サナイって言葉が水を表すみたい。で、イサナイが川、ミサナイが海。それと、イナウっていうのが日本語で言う『返す』に当たるから、魂を海に還すって意味になるの。」
「魂を海に還す儀式かぁ。日本人とはちょっと違うんだね。」
「水は地球の上をずっと巡り続けてるよね?海の水が蒸発して雲になって、雲から降った雨が川を作るでしょ。その川はまた海に流れ込んで、永遠にサイクルが続いて。だから、人の魂をそこに還すことで、亡くなった人がずっと見守ってくれるんだって考え方になるみたい。」
「そうか……。前向きな感じがするね。」
「そうだね。お祖母ちゃんもそういうところが気に入って、イナミサナイをすることに決めたらしいから。」
「でも、お祖母ちゃん、トォマガイのことなんて詳しかったっけ?」
「病気になって、入院してからトォマガイの本なんかを読むようになってたわ。最初はお友達に話を聞いて、興味を持ったみたいだけど。」

 お祖母さんは入院中、ひなちゃんにもたまにトォマガイの話をしてくれたそうだ。そして亡くなる一ヶ月程前に、イナミサナイをしたいと家族に伝えたらしい。その後、おじさんが「トォマガイ文化を伝える会」という組織に問い合わせをして、儀式の手続きを依頼した。そちらが市役所や海上保安庁への連絡は受け持ってくれる。遺族のする事は、参加者の人数を把握したり、プログラムを決めたりと、一般の葬儀と変わらない。

「他に、特別準備するものはないの?」
「あるよ。式の本番では、皆トォマガイの衣装を借りるんだけど、本番までに試着をしておかないといけないの。」
「そっか。本番はいつなのかな。」
「ええと、今から月齢が一周した後、波の静かな日にするって言ってた。お父さんが。」
「じゃあ一ヶ月くらい空いてるんだ。でもその間に気持ちの整理が出来そうだね。」
「うん。お葬式は色々せわしなかったけど、今度はだいぶ落ち着いていけそう。」

 風に舞った髪を撫で、軽く整えたひなちゃんは、一呼吸置いてから尋ねた。

「そう言えば、ちゃんと聞くの忘れてたけど。」
「なに?」
「ゆら、イナミサナイに参加してくれるのよね?私、もう勝手に決まったことみたいに話しちゃってた。」

 ついうっかり、という表情で瞳を大きくするけれど、ひなちゃんの口元は微笑んでいる。返答の予想がついているからだろう。

「行くよ。必ず行くから。」

 決まりきった返事に、でもやっぱりひなちゃんは喜んでくれた。
 会話も一段落したからと、購買に行って紙パックのレモンティーを買い、二人で飲んでいるところへアナウンスが流れた。一旦休憩室に戻り、誘導に従って火葬炉の前に並ぶ。特に順番が決まっているわけではないが、大体血縁者や親交の深かった人が前方に集まっていく。そんな中、ゆらも両親に押されてその集団に加わった。

「ゆら、行っておいで。」

 お父さんは簡潔に言う。先程ひなちゃんが頼んできた内容を把握しているようだ。おじさん達からもイナミサナイについて、何か話があったのかも知れない。

「それじゃ、よろしくね、ゆら。」

 囁くひなちゃんに寄り添い、ゆらは火葬炉から遺骨が運ばれてくる様子を見守った。長い台の上に、白い布を掛けられ、少しだけ人の形を残した膨らみが目の前に来る。遺骨が露わになって、係の人が説明をしている間、ゆらはずっと一ヶ所を見つめていた。胸の辺りの丸い骨。恢埒が綺麗に残っている。お祖母さんの言葉や表情がそこへ重なり、これが魂のこもった器なのだという考えが自分の心にも湧き上がってきた。

「彼野様の場合、胸仏、恢埒もこのように大変しっかりとした状態で残っております。」

 係の人が指し示す手の平が視界に入り、ゆらは我に返った。何となく隣を見ると、ひなちゃんも丁度こちらを見たところだ。お互いにやや緊張した顔で頷き合い、もう一度正面に向かう。骨の種類や扱い方の説明が終わった後で骨箸が渡され、参列者が順に遺骨を拾ってゆく。脚部から先に、骨壺の中で立ち姿と同じ並びになるように。その後、胸仏を親族の人が回収し、喉仏はおじさんとおばさんが二人で拾った。恢埒はまた、別の骨壺にそれを保存するという事で、最後まで残されている。ここでゆら達の出番だ。
 係の人が骨壺を差し出してくれた。その中に二人でゆっくりと恢埒を収める。時間にすれば何秒かのはずだったが、実際より少し長く感じられた。最後の一組に対する周囲の視線は集中し、否応なく気圧されてしまうのだから無理もない。
 役目を終えた後で再びひなちゃんを見ると、安心した表情をしていた。ゆらも同じ気持ちではあったものの、疑問に思う事がない訳でもない。火葬場から式場へ戻るバスに乗る際、おじさんにそれを訊いてみた。

「おじさん、恢埒って大事な物ですよね?あたし、家族でもないのに収骨しちゃって良かったんですか?」
「大丈夫だよ。恢埒を拾う二人の内、片方が一親等以内であれば構わないから。」
「一親等ってどのくらいですか?」
「うちで言えば、僕と、お母さんと、ひながそうだよ。で、収骨をする人がパートナーも選ぶんだけど、当然そういった行為をするのに相応しい人が選ばれるわけだから、ゆらちゃんは何も気にしなくて大丈夫。」
「そうなんですか。今更なんですけど、気になっちゃって……。」
「はは、ゆらちゃんならうちは皆歓迎だよ。ひなからイナミサナイの話は聞いた?」
「あ、はい。」
「ゆらちゃんのお父さんとお母さんもお誘いしておいたから。一週間後までに返事をくれるかな。」
「あたしからひなちゃんを通じてでもいいですか?」
「うん、それで構わないから。」

 やっぱり、お父さん達にもお誘いがあったらしい。そう言えば昼食の時、お父さん同士とお母さん同士、そしてひなちゃんがゆらをと、別々に誘われている。きっと初めから、イナミサナイの説明をする予定だったのだろう。
 葬儀が終わり、別れ際にひなちゃんからも確認があった。

「家に帰ったら、ゆらのお父さんとお母さんと、三人で相談して決めておいてね。」
「そうだね。早く返事するようにするから。ひなちゃん、今日はお疲れさま。ゆっくり休んでね。」
「ゆらもね。今日も本当にありがとう。また明日ね。」

 おじさんとおばさんも、ゆらの両親とそれぞれ挨拶をしあってから離れていった。今の言葉通り、明日も学校でゆらとひなちゃんは顔を合わせる。だったら返事もすぐ決めた方が良いという事で、帰宅してすぐ、近知家の面々はイナミサナイについて話し合った。

「ゆらはイナミサナイに参加するんだろ?」
「うん。約束したもん。必ず行くって。」
「お母さんは?」
「ゆらが行くなら、私もついてないと駄目よね。」
「それなんだけどさ、今回はゆら一人で行かせてあげないかな。」

 てっきり一家全員で行くものだと思っていたが、お父さんは全く違う案を考えていたようだ。

「ゆらだけで?どうして?」
「こういう、大切な行事に一人で参加する事が、人として良い経験になると思うんだよ。」

 お茶をすすりながら、我ながら良いアイディアだという口調のお父さん。リビングのテーブルについた三人の、前方からは低い音量でFM放送が流されている。

「彼野さんがいるから、全くの一人じゃないだろうけど……」
「うん、その点もあって、今回は良い機会なんじゃないかって。どう?」
「この子が彼野さんに余計なご面倒をかけなければいいんだけどねぇ。」
「そこは父さんもすごく心配なんだけど、敢えて目をつぶってさ。」

 一人で行けと言うわりに、期待されていないような台詞だ。ここは反論しておくべきだろう。

「お父さん、何か一言多くない?」
「じゃあゆら、当日粗相の無いように出来るって約束するか?」
「うん、お父さん達ががっかりするようなことはしないよ。」
「よし、それじゃ任せたぞ。」

 そう言ってお父さんはゆらの頭を撫でた。何だか上手く丸め込まれているような気もする。お母さんはまだ意見を言い足りないようだった。

「どんな儀式なのか、私も自分で体験したかったんだけどな……。」
「あ、お母さんも行きたかったのか。」

 お父さんはちょっと困った顔で頭を掻いて、座っているお母さんの後ろに回った。

「今度家族で旅行する時には、お母さんが行き先とか、泊まる場所から食べる物まで全部決めていいから、ね。」
「……反対したら駄目よ?」
「大丈夫、何も言わずついてくよ。」
「それなら、今回はお父さんに譲るわ。ゆら、良い子で行ってくるのよ。」
「うん。気をつける。」

 近知家からの参加者が決まった。ゆら一人だけ、と翌日ひなちゃんに伝えたところ、その晩におばさんから電話がかかってきていた。反対するのではなく、現場への送り迎えをどうしたらいいかという話らしい。結局、行きはお母さんが送り、帰りはおじさん達の車に同乗して、一度近知家まで寄ってもらう事になった。当日は何時に儀式が終わるのか分からないためだ。

「早速面倒かけてる気がするわねぇ。」

 受話器を置いた後、お母さんが軽く溜め息をつく。何となく側で会話を聞いていたゆらを背後から抱きかかえ、そのまま顔を覗き込んできた。

「でも、ゆら一人でこういう経験をするのは確かに良いと思うし、仕方ないかな。今度彼野さんと会う時には、何か奢ってあげなくちゃね。」
「お母さん、おばさんと仲いいんだね。」
「だって、娘同士があれだけ仲良しだったら、母親もそれなりに親しくなるわよ。」

 しかし、クラスにも親友と言えそうな子達は何組かいるが、だからと言って親同士も同じようになれるとは思えない。お母さんとおばさんはやはり特別気が合ったのではないだろうか。その二人の姿から、将来の自分とひなちゃんを想像する。このぐらいの年齢になっても、互いに一番の相手でいたい。まだずっと先の事なのに、そう考えるとくすぐったい気分になった。





 数日後、ひなちゃんから試着の日時を教えてもらい、現在ゆらは彼野家の前に立っている。約束の午後2時まで30分程。早めに訪ねてきたのは、お母さんから持たされたお土産を渡しておくためだ。今日は伝える会からも一人、衣装制作に関わっている人が来る予定になっていた。だから先に自分の用事を済ませておこうと思ったのだが、彼野家へと続く道の先から、若い女性が歩いてくる。キャスター付きの大きなスーツケースを伴いながら。ごく普通の住宅街には不似合いな道具だと、つい眺めてしまっていると、彼女もゆらを見て会釈してきた。そのまま門柱のある場所まで真っ直ぐ来るのだから、只の通行人ではない。

「こんにちは。こちらが、彼野さんのお宅でいいかしら?」
「そうです。こんにちは。」

 この時間にここへ用があって訪れる人間は二人だけ、つまりこの人が、

「トォマガイ文化を伝える会から来ました、平奥寺寿美(ひらおうじすみ)と申します。」
「ヒラ王子さん……」
「今、面白い名字だと思わなかった?」

 こちらの心情をすっかり見透かしたように笑う彼女に、ゆらは慌てて返答した。

「いえ、そんなことないです。あたし、近知ゆらです。」
「あら、陽菜香さんじゃなかったのね。じゃああなたがお友達の方の子ね。」
「はい、あたしも今来たところですから。今日はよろしくお願いします、平奥寺さん。」
「寿美でいいわよ。その方が呼びやすいから。」

 ファーストネームで呼ぶ事を推奨した寿美さんは、インターホンを押しておばさんを呼び、自分の素性と用件を伝えた。ドアが開くまでの間、ゆらは少しだけ彼女の事を観察してみる。髪は今のゆらよりもやや短いくらいで、その背丈から、バスケットかバレーボールでもやっていたような印象だ。そう感じたのは、快活そうな顔立ちと、肩幅があり引き締まった体型のせいもあるだろう。勿論それが当たっているかは分からないので、ちょっと聞いてみようかな、と思ったところへおばさんが顔を出した。

「こんにちは。平奥寺さん、結構早くいらしたんですね。あ、ゆらちゃんも一緒だったの?」
「はい、今ここで会ったばかりですけど。」
「寿美って呼べって、強制してました。彼野さんもよろしければそう呼んで下さい。」

 にこやかに話す寿美さんを、おばさんは玄関まで案内していった。ゆらも後ろから付いていく。土間で一度休んでもらい、室内に上げてもいいようにスーツケースの汚れを拭き取る。

「ここまでは何で来たんですか?」

 タオルを持ち替えながらおばさんが尋ねた。

「バスで来たんですよ。バス停で降りてからすぐ、ちょっと迷っちゃいました。」
「そうねぇ。バス停からうちまで距離があるから、私が迎えに行けば良かったかしら。」
「いえ、そこまでして頂いたら申し訳ないです。」

 玄関先に腰掛けたままで手を振る寿美さん。ゆらはその前で立っていたのだが、今のうちに渡しておこうと思ってお土産を差し出した。

「おばさん、これうちのお母さんからです。」

 と言って小さい紙袋を見せる。和菓子店の名前が袋に書かれているから、中身は説明しなくてもいいだろう。

「さっきから気になっていたのよ。後で、皆でお茶にしましょう。寿美さんもね。」
「私もいいんですか?今日は他の予定もないから、お言葉に甘えちゃおうかな……。」

 冗談めかして答え、袋を受け取るおばさんに、寿美さんも調子を合わせるように返事をした。名前で呼ばれた時に表情が明るくなったから、割と人懐っこい性格なのかも知れない。

「これに衣装が入ってるんですか?」

 スーツケースを指してゆらは寿美さんを見た。

「そう。シャンクランっていう、トォマガイの民族衣装よ。」
「へぇ……どんなのだろう?」
「後で着せてあげるから、待っててね。」

 そこへおばさんが、急に二人の方を向いて言い出した。

「私、ひなを呼んでくるのを忘れてたわ。ゆらちゃん、寿美さんを居間にご案内しててくれる?」
「え、はい。」

 おばさんはタオルを持ったまま、急いで家の奥へ行ってしまった。ひなちゃんの部屋は建物の一番奥にあるため、来客に気付かない場合も多くある。だから今までずっと、お祖母さんやおばさんが引き継ぎ役のような役割を果たしてきていた。もしかしたら、彼女が大人しい性格に育ったのには、こういう環境も影響しているかも知れない。

「寿美さん、あたしが荷物持ちますから、こちらにどうぞ。」
「ううん、自分で運ぶから大丈夫よ。案内だけお願いね。」

 案内と言ったところで、別に家の中が入り組んでいるわけでもなく、ただ一緒に歩くだけになってしまう。しかし、見知らぬ人を中に招き入れる役を任される程に、ゆらはこの家へ訪れているのだと、実際にそうなってみて初めて認識する。もしひなちゃんと親しくなっていなかったら、今日寿美さんとの出会いも無かった。人生が長くなれば、出会いや付き合いが積み重なり、その中から親しい人達が生まれてくる。寿美さんとも後に続くような関係になれたらいいなと、ゆらは思う。

「寿美さん、こっちが居間です。入ってください。」
「ありがとう、ゆらちゃん。」

 自分の後ろを歩いていた寿美さんを先に通そうと位置を入れ替えている時、廊下の反対側からおばさんとひなちゃんがやってきた。おばさんに促されて、ひなちゃんが一歩前に出てくる。

「こんにちは、初めまして。彼野陽菜香と言います。寿美さんのことは、今お母さんから聞きました。」
「よろしくね、陽菜香ちゃん。」
「じゃあ皆中に入ってくれるかしら。」

 そう言っておばさんは全員を居間に通そうとしたが、寿美さんが掌を上げ、待って下さいとそれを遮った。

「まず荷物だけ置かせて頂いて、その後お祖母様にご挨拶をしておきたいんですが。」
「あら、ちょっと休まれてからでいいんですよ?ここまで荷物を持って歩いてきたんですし。」
「いえ、これだけは先に済ませておくべきですから。」

 おばさんは別に構わないのにと言っていたが、ゆらもすぐに顔を見せたいと、そう伝えた。それなら今すぐ行こうという話になり、皆でお祖母さんの部屋へと向かう。ひなちゃんの部屋より手前、家屋の角の部分がお祖母さんの使っていた部屋になる。おばさんが扉にノックして、お客様よと声を掛けてから中へ入った。
 先頭におばさんとひなちゃん、その後ろからゆらと寿美さんがついて行く。生前に何度か入れてもらったことがあるが、家具は全てそのままにされているようだ。窓際の、光が良く当たる場所に祭壇が置かれ、その前に遺骨と遺影、更にお花、砂座が飾られている。

「今はまた、お父さんと一緒になったわねぇ。」

 そう言いながら、祭壇の前におばさんが座った。小さい固形燃料を取り出し、砂座に入れて点火する。納枝を取って香砂を盛り、目を閉じて手を合わせてからゆら達の方へ向き直った。

「さあ、皆こっちへ来て。お祈りしてね。」

 先にひなちゃんがおばさんと同じようにお祈りをして、それからゆらと寿美さんが続いた。

「お祖母ちゃん、ゆらが来てくれたよ。」

 ひなちゃんは遺影に向かって話しかけた。ゆらもそれを受けて、こんにちは、また来ちゃいましたと挨拶をした。寿美さんはお祈りを終えてから、改めて深くお辞儀をし、
先程と同じく自分の名前と素性を告げる。

「初めまして、平奥寺寿美と申します。トォマガイ文化を伝える会から来ました。これからしばらくの間お世話になります。」

 振り返った寿美さんは、皆の方にも頭を下げて、よろしくお願いしますと重ねて言った。
 おばさんが燃料を見、消火してから皆廊下に戻る。

「やっぱり緊張しますね。」

 安堵した表情で、寿美さんが口を開いた。

「私、結構抜けてる方だから、失礼のないようにしなきゃって、どうしても気持ちが上ずっちゃうんですよ。」
「でも、そうは見えなかったですよ。寿美さん、しっかりしてた。今度こそ休憩してから、お仕事しましょう?」
「はい、そうさせて貰います。」

 廊下では、ゆらとおばさんが前を歩き、その後から寿美さんとひなちゃんが来る格好になった。

「良く似合ってるね。可愛い。」

 背後で寿美さんがひなちゃんに囁いている。どうやら服装を褒めているようだ。今日のひなちゃんは薄手で白色、ノーカラーのブラウスに細身のジーンズを履いていた。髪はグレーの小さなシュシュで束ねている。ゆらにとっては見慣れた服だけれど、最初はやはり寿美さんと同じ感想を持った。

「ごくシンプルな服だから、それが映えるって事は、素材がいいのよね。」

 居間に移動し、座って落ち着いた後も、寿美さんはひなちゃんを観察している。服より中身の方に興味を移したらしい。ひなちゃんは嬉しさ半分、戸惑い半分と言ったところで、反応に困っている感じだ。でも確かに寿美さんの言う通りだなと、ゆらも心中で頷きながらふと気付くと、ひなちゃんが助け船を出して、というサインを目で送ってよこしていた。おばさんは飲み物を用意しに行って席を外している。つまりサインの対象となる人物はゆらしかいない。なので、慌てて何か話題を探す。

「えっと、寿美さんは普段、どんなお仕事をしてるんですか?」
「ん?洋服屋に勤めてるわ。早津のスカイプラザの中に『リトル・ソーツ』ってお店があるんだけど、そこ。」

 スカイプラザは早津の駅にほぼ直結した複合商業施設だ。様々な種類の店舗が多数入っているため、寿美さんのお店がどこなのか、すぐには思い浮かばない。しかし洋服屋さんなのであれば、今しがたの言動も納得がいく。

「寿美さんのお店、多分行ったことないと思うんですけど、あたし達が着られるような服もありますか?」
「ゆらちゃん達は今五年生よね?うん、きっとあるよ。店長が凄く小柄な人で、小さめの品揃えも意識してるから。」

 サイズ的にもデザイン的にも、合う物はあるだろうと言う寿美さんは、筆記用具を借りて早速お店の場所を書き始めている。そこへおばさんも戻ってきた。

「寿美さん、取りあえず烏龍茶をどうぞ。後でお菓子を載く時に、ちゃんとお茶を淹れますから。」
「ありがとうございます。載きます。」

 お盆から、小さめのコップを人数分配っていく。ゆらも立ち上がって手伝った。

「それは何?」

 おばさんが寿美さんの書いた地図を覗き込んでいる。

「これは私が勤めてる服屋の場所です。陽菜香ちゃんとゆらちゃんに来てもらいたくて。」

 座りながら地図を見直して、どうやら場所を記憶しているらしいおばさんは、一人で頷いた。

「寿美さん、私もお店に行っていいかしら。」
「はい、歓迎しますよ。」
「じゃあ、娘達には内緒で今度行ってみるわね。」
「内緒って、もう言っちゃってるじゃない……」

 ひなちゃんの突っ込みを聞き流し、烏龍茶を飲むおばさんに寿美さんは笑い、それではと姿勢を正した。

「それじゃ、試着をしちゃいましょうか。場所はどちらをお借りすればいいんでしょうか?」
「そっちの戸の奥に六畳間がありますから、そこでお願いします。ひなとゆらちゃんと、どっちが先に行くか決めてね。」

 今日試着をするのはゆら達だけで、おじさんとおばさんは別の日に、他の大人の人達と一緒に作業するらしい。

「私が先に行っていい?ゆら。」
「いいよ。おばさんとここで待ってるから。」

 寿美さんがスーツケースを携え、ひなちゃんと連れ立って奥の部屋へ入っていった。残った二人は時計を見、何となく顔を見合わせて一息つく。

「そう言えば、ゆらちゃんも大きくなったわよね。昔はこんなだったのに。」

 と言っておばさんは手で高さを示してみせる。

「今は身長どのくらいになったの?」
「身体測定の時は、147センチでした。ひなちゃんの方が少し小さいですね。」
「そうねぇ。私は平均的だけど、近知さんは結構背が高いから、ゆらちゃんも伸びるかも。」
「今のところ背が欲しいとは思ってないんですけど、あった方がかっこいいかな……。」
「格好いい人になりたいの?例えばモデルさんみたいな。」
「あたし、可愛い感じじゃないですし、人から自分を見た時の、イメージを良くしたいって思ったらそういう方向しかないかなって。」

 六畳間からは時々話し声が漏れてきている。格好いい人、と言われてゆらは寿美さんの事を考えていた。だから彼女に対し、自分は親近感を持ったのかも知れないと。

「自分の見せ方とか、色々気にするようになったらすぐ大人っぽくなっていくわね、ゆらちゃんも、ひなもきっと。イナミサナイに一人で参加するのも、自分で決めたのかしら?」
「いえ、お父さんが言い出しっぺで。」
「ゆらちゃんのお父さん、きちんと考えてくれてるのね。良い事じゃない。」
「多分、気まぐれだと思いますけど……。」

 庭の方を見ると、日差しが少し陰ってきていた。雲が多くなったようだ。近くを通る車の音がたまに聞こえてくる。

「イナミサナイって、どのくらいのお家がしてるんですか?」
「年に5、60件は依頼があるって寿美さんが説明してたわ。でも一般的な葬儀の数に比べたら、やっぱり珍しいと思うわよ。」
「あたしはトォマガイのことも良く知らないんですよね。学校ではほんの少ししか教わらなかったから。」

 つまり、知りたいという欲求が自分の中で生まれているのだが、余り上手に伝えられなかった。

「そうね、小学校では触り程度にしか教わらないわね。でもこれから中学、高校の授業でもう少し詳しく習うから、今知らなくても大丈夫よ。」

 おばさんがフォローしてくれたのを聞いて、伝えられなかった部分が段々整理出来てくる。

「あたし、今知りたいんです。上手く言えなかったけど、例えば詳しく教えてくれる人とか、どの本を読んだらいいかっていうことなんですけど。」
「何年か先ではなくて、今のうちに知りたくなったのね。ゆらちゃん、トォマガイに興味が出てきたのかな。」
「そうかもしれません。」
「私でも学校で習う程度の知識なら教えられるけど、図書館で独学してみるのはどう?」
「そういうのも、どこから手を付けたらいいか分からなさそうで……。あたし、勉強出来る方じゃないですし。」
「それなら、友江先生に聞いてみたらいいんじゃないかしら。」
「友江ちゃん?トォマガイに詳しいんですか?」
「ううん。友江先生の通っていた大学に、郷土史を研究している先生がいるのよ。新聞で見た事があるんだけど、ここ、先生の大学だなと思って覚えてたの。」
「そうなんですか。今度聞いてみます、友江ちゃんに。」

 友江ちゃんが何かつてを持っているかも知れない。実際にその先生から話を聞けるかは分からないが、間接的にアドバイスを貰うくらいは出来るだろうし、希望が出て来たと言える。
 それからしばらくして、ひなちゃんが戻ってきた。

「私の番、終わったよ。寿美さんが、待ってるからねって。」
「はぁい、すぐ行くよ。」

 ゆらの方には何も準備するものがないので、そのまま立ち上がった。昼食を食べ過ぎたりしていないかとお腹の辺りを触ってみたが、問題なさそうだ。
 六畳間の引き戸をノックし、声を掛けてから中へ入ると、寿美さんが正座して待っていた。足の横にメジャーが置かれている。更に後ろには畳んだ状態の衣装。スーツケースは部屋の隅に広げてあった。

「いらっしゃい。それじゃ、始めましょうか。子供用の衣装は年齢別に細かく用意されてるから、全く合わないって事はないはずよ。」

 シャンクランは三着用意されており、それぞれ11~12歳向けのS、M、Lサイズになるらしい。寿美さんはまずメジャーをゆらの身体にあてがい、おおよその体型をチェックしている。

「陽菜香ちゃんはMで丁度良かったけど、ゆらちゃんだときつい所があるかも知れないね。Lにする?」
「Mを着てみて、きつかったらLにします。」
「分かったわ。じゃあ今着ている服を脱いでもらって、そのまま私の側にいてね。最初に肌着を着せてあげるから。」
「はい。」

 言われた通りに一枚ずつ洋服を脱いでいく。脱ぎ終えた服は寿美さんが受け取って丁寧に畳んでくれた。洋服屋に行くと、お店の人が良くこういう畳み方をしているなと思う。そして下着と靴下だけになったゆらに、寿美さんが訊いてきた。

「陽菜香ちゃんは結構恥ずかしそうにしてたけど、ゆらちゃんはそうでもないのね。」

 言われてみれば、今自分は初対面の相手の前で服を脱いでいる。抵抗を感じなかったのは、恐らく寿美さんが友江ちゃんと同年代だからだろう。

「あたしはお姉ちゃんの前で着替えたりしてたから、そのせいだと思います。」
「ゆらちゃん、お姉さんがいるんだ?似てる?」
「あ、親戚のお姉さんだから、似てはいないですけど。でもずっと面倒見てもらってて。」
「いいな。私はそういう相手がいないから、ちょっと憧れるね。」

 会話しながら寿美さんはスーツケースの方に行き、そこから肌着を取り出してきた。

「これね。チナって言うの。まず着てみて。」

 渡されたチナを取りあえず身に付けてみる。ヒップ辺りまでを覆うワンピース状の服で、脇腹にスリットがあった。その部分は紐を通せるようになっており、靴紐の要領で締め付け具合を自由に調節出来る。ただ、場所が身体の真横なので、寿美さんが脇調節の作業をしてくれた。『着せてあげる』とはこの手順の事なのだろう。
 立て膝の姿勢で、ゆらに腕を上げさせて紐を通していく寿美さん。慣れた手付きをしている。

「寿美さんは、いつから伝える会に入ってるんですか?」
「三年半前よ。うちの店長が会員だから、手伝ってるうちにね。勿論、ちゃんと興味を持った上で入ったんだけど。」

 伝える会の会員は瑛河地方全体で700人程、会費や寄付、自治体の補助金で運営されているそうだ。具体的な活動としては、今回のイナミサナイといった伝統行事の実施や、工芸品の制作と販売が行われている。トォマガイの風習では、日本人の喪服に当たる物はなく、代わりにエンニ・ツワ(葬帽)という帽子を着用する習わしだった。だから衣装自体は記念撮影用などで作っている物の流用が効く。

「出来たよ。きつさはどうかな?」
「丁度いいくらいです。」
「じゃあ、下に着る物はオーケーだね。冬場は足にもも引きみたいなのを履くんだけど、今回はないから。」
「着物だと、本当はパンツを履かないみたいですけど、シャンクランはどうなんですか?」
「パンツは履くわよ。でもデザインは男女共通で、今の下着に比べたら、履き心地や通気性も良くないし。だから用意してないわ。」

 チナを着終わったら、次は上衣を着ていく。こちらも男性・女性共にズボンを着用するそうだ。ただ、女性の場合は腰に付ける巻きスカート状のアイテムが加わる。男性にはこれがない代わりに、上着の丈が長くなっているとの事だ。
 最初にズボンを履くが、膝の部分が一度折り返された形になっていて、そこにも紐を通す事で裾の長さをある程度変えられる作りだった。現代には見られないデザインだけれど、実用的ではあるかも知れない。

「ゆらちゃん、サイズはどう?」
「きつくも緩くもないです。」
「じゃあ、これもオーケーと。」

 その上から、更に巻きスカートを身に付けた。大きめのポケットがあり、実用性はこちらも高そうに思える。また、女性用だからか、見た目も瀟洒な印象だ。

「これ、いいですね。何て言うんですか?」

 ゆらはポケットに手を突っ込みながら言った。

「これはヤンペっていうの。エプロン代わりになるから、私も自分で一つ買って持ってるわ。」
「いいなぁ。あたしも欲しいです。」
「伝える会から彼野さんに差し上げてる資料に、民芸店の場所も載ってるから、そっちにも是非来てみてね。」

 さりげなく宣伝を交えつつ、寿美さんはゆらの背後に回って上着を着せてくれた。こちらは前開きの服で、腹部にやはり靴紐方式の穴が設けられている。それと、先程の膝と同じように肘部分にも、袖丈調節用の折り返しがあった。

「ちょっと腕を動かしてみて。」
「こうですか?」

 言われた通り、Tシャツを脱ぐ時のような動作で腕を回してみる。

「きつさを感じる?」
「あ、はい。ちょっと……」

 立っているだけの状態ではまだ平気だったが、身体を動かすと肩や脇が結構苦しい。

「やっぱり。ゆらちゃんは上半身の骨格が大きいみたいだったのよ。当日は海に出る事になるから、もし酔った場合に備えて、サイズに無理のある服は着ない方がいいわ。」

 そう言って、寿美さんが上着をLサイズの物と取り替えてくれた。背丈はひなちゃんと大差ないのだから、体型も似たようなものだろうと自分では思っていたが、意外と違っているらしい。

「今度はどう?」
「楽になりました。」

 そのまま紐を留めてもらい、エンニ・ツワも被せてもらった。これでシャンクランへの着替えは終了となる。部屋の中で歩いてみたところ、動きやすさは洋服と変わらない。座る際にヤンペが崩れないよう手で直す動作などは、なかなか女性的な見栄えで良いのではと思った。

「ゆらちゃんはこのまま居間に戻って、彼野さんに衣装をお見せして。」
「実物を見せるんですね。」
「そう。写真では知ってるだろうけど、実際に見た方が雰囲気を掴めるからね。」

 脱いだ服は一旦そのままにして、ゆらはシャンクランを着た状態で居間に戻った。おばさんは立ち上がり、その姿を様々な方向から確認している。

「大体こんな感じなのね。一人でも着られるんですね。」
「ええ、でも当日は私達も手伝いに入りますよ。袖の部分なんかは一人だと難しいので。」

 ひなちゃんもゆらの側にやってきて、自分と見比べるような感じでシャンクランを見ていた。

「ゆら、帽子似合うんじゃない?全然被ってるところを見たことなかったけど。」
「そう?そうかな……。」

 ひなちゃんの言う通り、今まで体操帽のような、規則で着用する帽子しか長時間被った事がない。だから果たしてその指摘が正しいかどうか分からなかった。と、寿美さんがゆらの頭から帽子を外してひなちゃんに渡す。

「陽菜香ちゃん、もう一回被ってみて。」
「はい。」

 帽子を着けたひなちゃんに全員が注目する。

「ゆらちゃんの方がしっくりくるかもね。」
「私も被っていいかしら。」

 ひなちゃんに続き、おばさんと寿美さんも同じようにして確認したが、やはりゆらが最も帽子に対し違和感がないという結論になった。

「どうしてかしらね。顔の形が向いているとか?」
「髪型も関係あるでしょうね。」

 皆がゆらを見ながら分析を始めてしまった。まるで洋服屋のマネキンになった気分だ。

「寿美さんのお店に行った時、ゆらに帽子を選んであげたらどうですか?」

 ひなちゃんが提案する。

「そうか、そうだね。じゃあその時になったら一緒に選ぼうよ、ゆらちゃん。」
「寿美さんさえ良ければ、ぜひお願いします。」

 それからもう少しモデルを務めた後で、おばさんがお茶にしようと言ってくれた。

「私がお茶を淹れてくるわ。緑茶でいいかしら?」
「うん。」
「はい、載きます。」
「何度もすみません。」

 全員が緑茶を注文し、おばさんがその準備に行く。その間にひなちゃんがお茶菓子の支度をして、ゆらと寿美さんは着替えに戻った。
 六畳間の中でシャンクランを脱ぎ、寿美さんに畳んでもらう。現代の洋服を着直すと、ちょっとした時間旅行から帰ってきた気分になる。

「そうだ、寿美さん、学生の時に何かスポーツしてました?」
「してたわよ。でもどうして?」
「寿美さん、背も高いし格好いいから。バスケですか?それともバレー?」
「残念。水泳でした。」
「あ、水泳かぁ。」

 ゆらの予想は外れてしまったが、水泳も寿美さんに良く似合っている。なるほど、とその体型を見ながら片付けを手伝った。

「それにしても、格好いいだなんて、照れちゃうよ。」

 スーツケースを立てた寿美さんがゆらの肩を軽く叩く。口ではそう言いながらも、顔に「嬉しい」と書いてある。こういう、時折見せる無邪気さも彼女の人当たりを良くしている一因なのだろう。
 自称照れている寿美さんと居間へ行くと、既にひなちゃんが準備を終えて待っていた。そこにおばさんも台所から戻ってくる。

「さあ、お茶にしましょうか。お代わりの用意もあるから、欲しい人は言ってちょうだい。」

 おばさんが湯飲みを配っていく。おばさんと寿美さん、同様にゆらとひなちゃんがそれぞれ向かい合わせに座った。全員でお茶菓子の器を覗き込む。

「美味しそうですね。」
「仙鳩庵(せんきゅうあん)のミニどら焼きセットです。で、お母さん、スペシャルアソートって書いてあったけど……。」
「それは、一個一個全部違う味が入ってるのよ。主に贈り物用で、ばらで買うよりお得なの。」

 おばさんの解説に一同頷きながら、どんな種類があるのか確かめる。

「じゃあ、お客様の寿美さんからお先にどうぞ。次はゆらちゃんで、その次が私達ね。」
「では、ブルーベリージャムを載きます。もしこれを欲しい方がいれば交換しますよ。」

 どら焼きの袋を胸の前で掲げた寿美さんが問いかけるが、交換希望者は出ないようだ。そのまま皆の視線がゆらに移る。

「あたしはこれ。栗入り粒あんです。」
「カットじゃなくて、一個丸々入ってるのかな?」

 ゆらの方を見て寿美さんが訊く。確かそうよと、おばさんが注釈をつける。

「ひなはどれにするの?」
「私はチーズクリームにする。」
「ひな、チーズケーキ好きだもんね。じゃあ私はこれね。」

 おばさんは紫芋あんのどら焼きを手に取った。

「それでは。」
「いただきます。」

 皆で一斉に食べ始める。それぞれ期待に違わぬ味わいだったらしく、褒め言葉が飛び交う。ひとしきり堪能した後、四人とも顔を見合わせた。

「寿美さん、ジャムついてるわよ。口のところ。」
「あぁ、思ったより中身がジューシーだったもので、はみ出したんですね。」
「ひな、拭いて差し上げて。」
「うん。」

 ひなちゃんがティッシュを取る。寿美さんは自分ですると言ってそれを受け取ったが、実際にジャムがついている箇所と違うところを拭こうとしたため、結局ひなちゃんが拭いてあげていた。

「もう、娘が増えたみたいねぇ。」
「面目ないです……。」

 おばさんの冗談に頭を掻く寿美さん。笑って見ていたゆらは、彼女がピアスをつけているのに気付いた。銀製の小さい物で、一見すると涙滴の形をしている。しかしよく見ると兎の耳のような意匠が施されていて、面白いデザインだった。

「寿美さん、それ見せて下さい。」
「これ?いいよ。」

 寿美さんが右側の髪をかき上げて、顔をゆらの方に寄せてくれた。おばさん達もお茶を飲みつつ、二人のやり取りを見ている。

「このピアス可愛いですね。どこで買ったんですか?」
「これね、手作りなの。」
「寿美さんの?」
「そう、私の。」

 ひなちゃんとおばさんにも見せて欲しいと言われ、寿美さんは左の髪も上げて、皆に耳元が見えるようにした。

「良く出来てるわ。どういう風に作ってるの?」
「固形のワックスを細工して、原型を作るんです。それを専門店に持っていって、鋳造してもらえば完成ですね。」
「そういう材料や道具は、普通に売ってるんですか?」
「私は大矩(おおく)タイレで買ってるわね。早津にはないから、ちょっと遠いけど。」

 大矩タイレと言うと、全国規模のチェーン店で、主にクラフト材料や生活に密着したグッズを扱っている。早津から行くなら、八蓮の府庁所在地である八蓮市の店舗が最も近い。と言っても電車なり車で結構な時間を掛けて移動しなくてはならないから、ゆら達の行動範囲内ではなかった。

「自分で作るのって楽しそうですね。あたしもいつかやってみたいな。」

 ゆらが言うと、髪を直していた寿美さんはにっこり笑った。

「なら、今度一緒にやろうよ。イナミサナイが終わってからになるけど。」

 寿美さんは手作りアクセサリーの教室に通っていた事があり、その時取ったノートを元に基礎を教えてくれるそうだ。言ってみれば、その教室の授業を無料で受けられるようなものだろう。お得な話だし、仕事が終わった後も寿美さんと親しく出来る。ゆらはすぐに誘いを受けた。

「ひなちゃんも教わる?」
「うん、私も行きたい。お母さんは?」
「私は行かないわ。だってね……」

 何か習い事をするとして、そこに自分の母親までついて来たらどうかと訊かれた。確かにそれはちょっと嫌だと思う。なので、子供達だけで行く事に決まった。場所は寿美さんの家にて。もう一度筆記用具を借りて彼女が住所を書く。

「日程とか、細かい行き方なんかはおいおい説明するから。今日は大体この辺って事だけ覚えておいて。」

 今度は文字による住所だけで、地図は無かった。先程書いたお店の場所と合わせてゆらが紙を受け取る。残りのどら焼きを食べながら、寿美さんに育った地域や、学生時代の生活など幾つか話を聞かせて貰った。

「今でもよく運動してるんですね。」
「うん、ちょっと気を抜くとあちこち緩んでくるのよ。仕事柄、見た目も大事だから努力しないとね。」

 でも運動部だったせいか、良くお腹が空くと言う。

「じゃあもう一個食べる?」

 おばさんがどら焼きを手に取る。が、寿美さんはそれを辞退して、残りの分はおじさんの物になった。
 お茶を片付けた後、ゆらが寿美さんを送っていく事になり、二人で門柱の所まで出てきた。後ろからおばさんとひなちゃんが来て、頭を下げる。

「寿美さん、今日はご苦労様でした。またお世話になりますけど、宜しくお願いしますね。」
「大人の方達の試着については、当日近くにまた連絡します。それ以前でも不明な点などあれば、私に言って下さい。」
「ええ。それじゃ、ゆらちゃん、お願いね。」
「はい。」

 本来ゆらが帰るのは逆の方向になるけれど、バス停まで寿美さんを送っていく。来た時と同じようにスーツケースを引いて歩く彼女と並び、ゆらはその顔を見上げた。

「今日は楽しかったよ、ゆらちゃん。」
「あたしもです。寿美さんと仲良くなれて良かったです。」
「本当に?私もこれは良い出会いじゃないかと思ったのよね。だからアクセサリー作りに誘ったわけだし。」

 寿美さんは愛想が良い。だからと言って、仕事と全く関係ない趣味の集まりに人を誘うかと言えば、やはりそうではないらしい。確かに、出会った人全部にそんな事を言っていたら時間がどれだけあっても足りなくなってしまう。つまり寿美さんからも、ゆら達は私生活の幾分かを割いて付き合ってみるべき相手に見えたのだ。
 出会いが出会いを呼ぶ。それは幸せな事だと、この時のゆらはただ一面的な考えで喜んでいた。
 翌週の水曜日、友江ちゃんからゆらの家に電話があった。夕食を食べ終わって、丁度一息入れているくらいの時間帯に合わせたようで、近知家の生活リズムを良く把握していると思う。さすがに長年通い慣れているだけの事はある。
 お母さんに促され、受話器を受け取ったゆらに、彼女は用件を告げてきた。

『この間相談された話だけど、大学の先生に会ってきたから。』

 説明によると、その稲塚(いなつか)先生という人から紹介状を貰ったらしい。先生本人が直接講義をしてもいいけれど、きっと内容が難しくなるだろうからと、別の人から話を聞けるように連絡してくれたそうだ。

『トォマガイ文化資料館っていう所の館長さんなんだけど、今度の日曜日に私達と会ってくれるって。』

 時間は午前10時からで、その約束に間に合うよう、友江ちゃんが当日の朝にゆらの家まで迎えに来る。

『私は自分でご飯食べてくるから、叶恵おばさんには要らないって言っておいてね。』
「うん。ひなちゃんはどうしよう?」

 せっかくの機会だからと、ゆらはひなちゃんにも声を掛けておいたのだった。

『ゆらちゃんを拾った後で、彼野さんの家にも寄っていくわ。帰りは丁度お昼頃になるし、最後に三人で食事してこない?』
「本当?どこか連れてってくれるんだ。」
『高いお店は無理だけどね。食べたい物でも決めておいて。』
「うん。」

 友江ちゃんはそう言っていたものの、食べたい物よりもまず講義の事を考えなくてはいけない。もし何か聞きたい事はないかと言われた場合に、返答が出来なかったりしたら失礼な子だと思われてしまう。
 結局週末まで学校の図書室に行き、ひなちゃんと二人でトォマガイの歴史などを勉強する事になった。木曜と金曜の二日間、資料を借り出して家でも読む。ゆらにとって自発的に何かを学ぼうとするのは初めてで、やる気が持続するかとても自信は無かったのだが、自分の興味ある題材なら、意外と辛く感じないようだ。それが分かった点は収穫だったと思う。
 土曜日の放課後も少し残ろうかと当初予定していたものの、ひなちゃんは抜けられない用事があるそうで、ゆら一人だけになってしまった。そこで今日は家で学習する事にして真っ直ぐ帰宅する。
 まず昼食を済ませ、少し家事を手伝ってから自室に戻り、資料やノートを机の上に広げてみた。昨日書き留めた所を見直しながら、明日について色々考える。こうやって記録をなぞる作業を続けるうちに、自分の求める物がより明確に見えてきていた。人の魂を永遠に循環させる為に行われる、イナミサナイという儀式。それを生み出した彼らの民族性、お国柄がゆらの最も知りたい部分となる。何年に誰が何をした、といった説明だけでは伝わらない、感覚的な事柄だ。だから初めは、いきなり偉い立場の人に教えを請うのが妥当かどうか、正直無謀な気もしていたけれど、今はそうして良かったと思っている。
 もう一つ、ゆらはひなちゃんにも感謝しなくてはいけない。彼女も学校の勉強から外れて調べ物をした経験はなく、きっと大変だったろうに、ゆらが資料に書かれた情報を消化しやすいよう色々手伝ってくれた。
 二人が借りたのは『図説・小6までの日本史I(関東版)』という参考書で、本来は中学受験をする生徒用に蔵書されているものだった。諒園小の授業では触れられない範囲まで歴史を扱い、尚且つ時間的に難しすぎない物を、と図書室の先生にリクエストし、出された候補から選んだ。中身は題名の通りに人間及び勢力同士の関係を表す図、章ごとの内容をまとめた年表、そして人物や建造物などには挿絵と、目で見て分かりやすい工夫がなされていた。
 トォマガイについては「地域史」の項目に記述されている。まず切りの良いところまで文章を読んでしまって、全体の流れを把握してからあらすじのように要点を抜き出していく。それを章末の年表と照らし合わせてみて、分かりづらい箇所があれば作り直す。このあらすじ作りの作業を考案して手伝ってくれたのがひなちゃんだ。記述の全てを頭に入れるのは無理だし、ただ年表を見ただけでは記憶に残らない。だから自分自身で情報を濾過する過程があればいい、という理屈になる。
 ひなちゃんの協力を受けつつ、徐々に自分だけの歴史ノートが出来上がっていくのは辛くとも悪くない気分だった。これがさして興味のない題材だったらきっとここまで至らなかっただろう。また、もしその時ひなちゃんが側にいなかったら、と考えるとやはり同じ気がする。自分に割と根気が備わっている事を知る段階まで、彼女がいてくれたから続けられた。そうでなければ最初に諦めていたかも知れない。
 午後から夕方に差し掛かる時間帯、ゆらは一息入れる為にリビングへ出て行った。お母さんは座ってテーブルで雑誌を読んでいる。今日は午前中に夕食の買い物も済ませたそうなので、支度を始めるまでは休憩時間だ。

「お母さん、何か飲む?」
「うん、お水ちょうだい。」

 ゆらはキッチンに行って、冷蔵庫から水を出してきた。煮沸水を冷やしただけの物だ。小さいコップに二人分を注いで持っていく。

「何見てるの?」
「今度、彼野さんと行くお店を決めてるの。何を食べたいか訊いたら、和食がいいって言ってたから。」

 お母さんが読んでいたのは、書店などで無料配布している地域情報誌のようだ。この辺りの飲食店を紹介したページが広げられている。

「ひなちゃん、今どうしてるかな。」
「ひなちゃん?」
「今日は用があるって先に帰ったの。多分イナミサナイの準備だと思うけど……。」
「そう。本番まで二週間くらいだっけ。お手伝い出来る事があればやるのよ、ゆら。」
「うん。」

 今日も、自分に手伝える事がないか訊いておけば良かったと少し後悔する。明日会った時にでもまた言おうと思う。
 水を飲み干して、コップを片付けようとしていたらチャイムが鳴った。お父さんが帰宅する時間には早いので、誰か来客らしい。

「あたし、出ようか。」
「お母さんが出るから、コップを洗っておいて。」
「はぁい。」

 二つのコップを預かり、キッチンへ洗いに行く。それを終えてからまた自室に戻ろうとしていると、お母さんがゆらを呼びに来た。

「ゆら、ひなちゃんが来てくれたわよ。」

 そう言いながら、何故だかちょっと驚いた顔をしている。丁度彼女の話をしていたところに本人が現れたからだろうか。とにかくゆらが応対しないわけにはいかないので、玄関へ行ってみた。

「ゆら、こんにちは。」
「いらっしゃい、ひなちゃん。」

 ひなちゃんは昼に別れた時と同じ服装をしていた。ただ一つだけ、大きなショルダーバッグを提げている。まるで小旅行にでも出発するような、と考えてゆらも驚いた顔になった。まさかと思いながら、一応確認してみる。

「ひなちゃん、その荷物は……?」
「うん、洗面道具とか、替えの洋服とか。」

 そのまさかになるかも知れない。

「あの、もしかして、家を出て来ちゃったの?」
「行き先はちゃんと言ってきたから大丈夫。でも一晩でいいから、家族と離れて考えてみたかったの。」

 黙って家出してしまったわけではないようで、嫌な予感は外れてくれた。考えるというのが何を指しているのか分からないが、まず近知家で彼女を受け入れる用意をしなくてはいけない。後ろにいたお母さんに声を掛ける。

「お母さん、ひなちゃんを泊めてあげてもいい?」
「いいわよ。今私の方から彼野さんに電話しておくから、ゆらはひなちゃんを休ませてあげて。」
「うん。ひなちゃん、上がって。荷物はあたしが持つよ。」

 バッグを受け取り、ひなちゃんが玄関先に座って靴を脱いでいる間、シューズラックからスリッパを出しておいた。

「これを履いてね。取りあえずあたしの部屋に行こ?」
「うん。ありがとう。」

 二人で前後に並んで部屋まで行く。座布団を出してひなちゃんに座ってもらってから、バッグをその側に下ろした。

「寝る場所はあたしの部屋でいい?」
「うん、ここがいいの。」
「そっか。じゃあお客さん用の布団を持ってくるから、ちょっと待ってて。」

 ここにベッドはなく、ゆらも布団で寝ているので、二人分を並べて敷けるように出しっぱなしの雑誌などを片付ける。

「そうだ、洗面道具だけ貸して。ついでに洗面所に置いてきちゃうから。」

 ひなちゃんの荷物から洗面道具を受け取った。更についでと、着替えのしまい場所を用意してしまう。

「あたしのクローゼットに着替えを入れる所があるんだけど、一緒に入れていいならそこに入れといて。鞄に入れたままじゃ皺になっちゃうでしょ?」

 クローゼットを開け、いつもお風呂上がり用と翌日用の着替えを入れている収納ボックスを示しておいた。それから部屋を出て、洗面所に向かう途中でお母さんに呼び止められた。

「ゆら、彼野さんが、ひなちゃんをよろしくって。」
「どうして家を出たのかは言ってなかった?」
「理由は本人に説明してもらった方がいいって言ってたわ。その後で改めて彼野さんからも話があるみたい。」

 まずはひなちゃん自身に話してもらうしかないようだ。ゆらは両親が寝る時に使う部屋まで行き、そこにしまわれている来客用の布団を出してきた。敷き布団に掛け布団、それからシーツや枕と、都合三往復かかる。その間、ひなちゃんは着替えなどを出し終えたようで、何をするでもなく座っていた。
 寝具一式を運び込み、敷く予定の場所に積んでからゆらも座布団を用意して、布団に寄りかかるように座り込んだ。

「ひなちゃんもこっちに来て、寄りかかって。その方が楽だよ。」
「うん。」

 ひなちゃんは座布団を持って立ち上がり、ゆらの側まで来てもう一度座った。すぐ近くで見ると心なしか、顔色が良くない気がする。

「ひなちゃん、最後にうちに泊まったのっていつだっけ。」
「まだ二年生の時だったと思う。」
「そうだよね。今日はどうしたの?考えたいって言ってたけど……。」
「うん……。」

 ゆらから顔を逸らし、膝を抱えたひなちゃんは少しの間黙ってしまった。

「私、引っ越すことになったの。」
「え?」

 告げられた言葉に対して、何の返答も出てこなかった。また少し間が空いて、ゆらは反射的に浮かんだ疑問だけをようやく口に出来た。

「いつ……?」
「私が小学校を卒業したら。」

 という事は、まだしばらく時間があるらしい。それでも、いずれ彼女が居なくなってしまうのには変わりない。

「それは、急に決まったの?」
「私が聞かされたのは今日だけど、お父さんには前から話があったみたい。」

 おじさんの勤める会社は関西地方の珠采府(しゅざいふ)に本社があり、そちらで今より上の役職に就いて欲しいとの要請を受けていたそうだ。今回お祖母さんが亡くなった事で、おじさん達が地元に留まる事由が薄れた為、会社の方でその人事が本決まりになった。

「本当は来年の春に転勤する予定だったんだけど、お父さん、私が進学するまではって、ずいぶん粘ってくれたみたい。」

 だから責めたりは出来ないとひなちゃんは言う。

「例えそうでなくても、私がわがままを言って、お父さん達を困らせたくないし。うちにとってはいい話だから。ただ、そう簡単に気持ちを割り切れるものでもなくて……。」
「だからうちに来たんだね。」
「ゆらの側にいれば、ちょっとは落ち着けると思って。」
「落ち着いた?」
「うん。それで、明日のことなんだけどね。」

 それから夕食の支度が終わるまでの間、明日の予定について話し合った。ひなちゃんはこういう事情があるので、申し訳ないけれど資料館の訪問は欠席し、明日の朝、友江ちゃんが迎えに来た時に自分でそう伝える。その後ゆらのお父さんかお母さんに頼んで、彼野家まで送ってもらおうとなった。

「あたしは出発しちゃうけど、布団とかはそのまま置いといていいから。」
「いいの?」
「ひなちゃんにそんな事させられないでしょ。今ならなおさらね。洗濯物は、月曜にでもひなちゃん家に持って行くよ。」
「ありがとう、ゆら。でも、押しかけておいて何もしないのは気が引けるし、今から夕飯の支度、手伝ってもいい?」
「ご飯の?ひなちゃんがそうしたいなら構わないけど……。」
「何かして、気を紛らせていたいっていうのもあるし。おばさんに頼んでみて?」
「うん、じゃあ頼んでみるよ。一緒に台所まで行こ。」

 キッチンにて、既に支度を始めていたお母さんはこの申し出を快く受け入れてくれた。但し、客人のひなちゃんが手伝うのなら、ゆらも何かしなければ駄目だと言う。

「そうだよね。」
「どのみち、そろそろゆらにも支度を手伝ってもらおうと思ってたから。丁度いいじゃない。」
「ひなちゃん、あたしきっと役に立たないけど、いいかな?」
「大丈夫。一緒にしよ?」

 エプロンを掛け、髪をまとめて三角巾を被る。お母さんが一人分の作業をして、ゆら達は二人で一人分という感じだった。ジャガイモや人参を切ったり、下味用の調味料を作ってと、次の工程に追われながら手を動かしていると、無心になれた。側のひなちゃんも同じだろう。悩み事を深く考えすぎてしまう自分の性格を、分かっているのだと思う。
 途中、帰宅したお父さんがやってきて、目を丸くしていた。

「ゆら、ご飯の支度を手伝ってるのか。それに陽菜香ちゃんまで。」
「お父さん、期待しててね。」

 お母さんは自信ありそうだ。ゆらの貢献度は高くないが、それでもちょっと誇らしい気分になった。
 しばらくしてから、完成した夕食がテーブルに並ぶ。鶏肉の唐揚げに、少し緑豆も入ったポテトサラダ、玉葱と角切りベーコンに春雨のコンソメスープ、そしてゴボウと舞茸、人参の炊き込みご飯。リビングで新聞を読んで待っていたお父さんも感心していた。

「陽菜香ちゃん、ご苦労様。ゆらも頑張ったじゃないか。」
「ひなちゃんのおかげだよ。丁寧に教えてくれたから。」
「ううん、そんな事ないよ。」

 全員が着席し、食事が始まってからお父さんが口を開いた。

「洗面道具が増えてたみたいだけど、陽菜香ちゃん、泊まっていくのかな?」
「はい。色々あって、一晩お世話になります。」

 そこで改めて、ひなちゃんから外泊の理由について説明があった。それを聞いて、お父さんもお母さんも残念そうな顔をする。

「そうか、彼野さんが転勤するのか。せっかく知り合えたばっかりなのに。」
「ゆら、大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないけど、あたしが落ち込んでる場合じゃないもん。」

 ひなちゃんを元気付けるのが自分の役目だ。隣を見ると、彼女も少しだけ笑い返してくれた。

「そうね。ひなちゃんに優しくしてあげなさい。でも、早津のお家はどうするの?歴史があって、良い場所よね。」
「はい、うちのお父さん達は、いつか早津に帰ってくるつもりみたいです。」

 早津の家は維持しておき、おじさんが将来会社を退職したら戻ってきて生活する予定になっているそうだ。だから転居先には借家を探すらしい。

「お父さんは、近知さんにうちとの付き合いを続けて欲しいって言ってました。私が帰ってから、きちんと話があると思いますけど。」
「そうなんだ。しかし、彼野さんが退職するまでって、随分先だよな。」
「それだけ長い間、連絡を取り合いたいんだから、信頼してくれてるのよ。」
「うん。定期的に、早津の様子を手紙で送ってあげようかな。写真を添えてもいいね。」

 自然の多い所に行って、同じ場所で週おきに写真を撮り続け、四季の変化が感じられるようなアルバムを作ったらどうだろうとか、お父さんは早くもアイディアを出している。

「ひなちゃん、早津に帰省する事はあるの?」

 お母さんがひなちゃんに尋ねた。

「お正月と、出来ればお盆にも来れたらいいと思ってます。」
「じゃあ、ゆらとも全く会えなくなるわけじゃないのね。」

 年に一回か二回だけ。それでも会えないよりずっと良い。

「父さんは、また陽菜香ちゃんのご飯が食べたいな。」

 お父さんは唐揚げが乗っていたリーフレタスを取り、軽く塩をふって食べている。

「お父さん、うちの方がご馳走してあげなきゃ駄目でしょ。」
「あ、そうか。じゃあゆらが料理の腕を磨いて、皆に振る舞うのがいいかな。」
「一人じゃ無理だよ。お母さんと二人なら何とかなるかも。」
「しばらくは手伝ってあげてもいいわよ?」
「しばらくの間だけ?その先がすごく不安だけど……。」
「ゆら、私が一緒にしてあげるから、平気だよ。」
「あらひなちゃん、甘やかしたら良くないわよ。」

 困って縋りつくゆらにお父さん達は笑い、ひなちゃんもつられて笑顔になる。大分元気が戻ってきたようだ。

「じゃあ、ご飯が終わったら、陽菜香ちゃんはお風呂に行ってきなさい。片付けるのは僕らがしておくから。」
「いいんですか?私が先で。」
「遠慮はなしよ。それと、明日は朝に涼ちゃんが迎えに来るでしょ?ゆらも早めに寝られるようにしておきなさい。」
「うん。あ、ひなちゃん、パジャマは持ってきてるの?」
「ううん、そんなには持てないから。」

 食事の後、ゆらはひなちゃんにパジャマを選んであげる事にした。自分用に持っているのが4着あり、そのうち1つはゆら自身が着るので残り3着。その中から、最も女の子らしいと思われるデザインの物を取り出す。綿とシルクの混紡で肌触りも良いだろう。
 一度パジャマを広げ、ひなちゃんの身体に合わせてみる。体格からいって、小さくて着られない事はないはずだ。

「ちょっと裾が長いかな。引きずるほどでもないけど。」
「着る時に折ってみる。ねえゆら。」

 パジャマの上着を畳みながらひなちゃんがこちらを見た。

「どうしたの?」

 同じくズボンを畳みながらゆらも応える。先程着替えを入れたボックスにパジャマを入れてから、ひなちゃんは自分の鞄がある所へ行き、中からボトルを出してきた。掌に丁度収まるくらいの大きさがある。

「これ、使ってみて?私のヘアパック。」
「ひなちゃん、こういうの使ってるんだ。」
「去年からだけどね。私の髪は長いからって、お母さんが選んでくれたの。」

 蓋の部分に「LIGHTHOUSE」と印刷されている。ブランド名らしい。パッケージは全て英語で、日本語の表示がシールで貼られていた。ゆらもコンディショナーは使うけれど、スーパーなどで普通に買える物だから、それに比べたら随分効果がありそうだ。

「ありがと。使わせてもらうよ。」
「じゃあ、私がお風呂を出る時、洗面所に置いておくね。」
「お湯がたまったら呼ぶから。あ、ここに取っ手の付いたカゴがあるでしょ?パジャマとかはこれに入れて運んでね。」

 ゆらは夕食の片付けに戻り、ひなちゃんは少し後にお風呂場へ行った。上がってきたのは30分ぐらい後だったが、その姿を見て休んでいたお母さんが声を掛ける。

「ひなちゃん、頼みたい事があるんだけどいい?」
「何ですか?」

 ゆらのパジャマを着たひなちゃんは、まだ髪が生乾きの状態だった。お母さんはその側に歩み寄りながら顔を近付けた。

「髪をブローさせてくれないかな。駄目?」
「あ、髪ですか?構わないですよ。」
「本当?一度してみたかったのよね。ゆら、ドライヤーは?」
「部屋にあるよ。持ってこようか。」
「お願い。」

 お母さんは喜んでいる。ただ髪に触れるだけなら、いつでもさせて貰えるだろうけれど、お風呂上がりの手入れをする機会はそうそうない。だからその気持ちも分かる。
 自分の髪もひなちゃんのように綺麗だったら、お母さんも構いがいがあったかなと、入浴中に考えてみた。シャンプー後にライトハウスのヘアパックを手に取る。少し指先ですくってみると、かなりの密度だ。髪に対して、文字通り擦り込むような感じで浸透させていく。いかにも効果がありそうで、これを毎晩繰り返せば確実に手触りが変わってきそうだった。ただ、ひなちゃんの場合はおばさんが自ら購入してくれたわけだが、ゆらはそうもいかない。安価で手に入りやすい国内製品から、恐らく高価で買いにくい海外製品への乗り換えを、お母さんに納得してもらうのは難しそうだ。
 結局、いつか自分でこういう物を買えるようになったら使おう、という結論に落ち着いたものの、ひなちゃんと何かお揃いのアイテムを使うという考え自体は心に留めておいた。二人の距離が離れた後は、今まで些末に感じていた事でも連帯感を保つ助けになってくれるかも知れないからだ。
 お風呂を出、寝る用意も済ませて部屋に戻ると、ひなちゃんが既に布団を敷いて待っていた。

「布団、敷いてくれたんだ。ごめんね、お客さんなのに色々手伝ってもらっちゃって。」
「いいの。ご飯もそうだけど、私が出来ることはしないと。無理に泊めてもらってるんだし。」

 ゆらのパジャマを着ているひなちゃんを見るのは不思議な気分だった。見慣れた服である既視感と、それを別人が身に付けたところを眺める新鮮さ。どちらも同じくらいの割合だ。つい黙って見続けていると、ひなちゃんははにかんで、更にちょっと眉をしかめた。

「あまり見ないで。」
「ごめん。でも似合ってるよ。」

 二人でそれぞれが寝る布団の上に座り、向かい合う。

「もう寝る?」

 ひなちゃんが訊いてくる。

「うん、明日は早く起きないといけないから。」
「じゃあ、もう少しだけ私に付き合ってくれる?」
「ん?どうかしたの?」

 引越についてまだ話し足りない事があるのかも知れない。それなら彼女が心ゆくまで聞き手になってあげようと、ゆらは身を近付けた。

「私ね、一人で考えたいなんて言ったけど、あれは嘘。本当はどうしても、ゆらに会いたくなっただけ。」

 静かに話すひなちゃんは、寂しそうな表情をしている。頬が少し赤い。

「私が引っ越した後でも、ゆらは友達でいてくれるよね?」
「うん。もちろんだよ。」
「でも、きっと私は一番じゃなくなっていくと思う。中学に入ったら新しい友達も出来て、私なんか滅多に会えないから、やっぱり近くにいる人の方が大事になっちゃうでしょ?」
「そんなことないよ。ひなちゃんとは付き合い長いし、もし他に親しい友達が出来たって、同じくらい大事だよ。」
「他の人と同じじゃ駄目なの。」
「え……」

 ひなちゃんが僅かに語気を強めた。真剣な顔で、次の言葉を探しているようだ。

「私にとって、ゆらは特別な人だから。だから、ゆらにも私のことを誰よりも考えていて欲しいって思うの。」

 他人同士で、友人より優先されるべき関係と言えば、答えは一つしかない。

「ゆらのことが好き。困るかもしれないけど、もう言わなくちゃ我慢できなくなって。」

 だから突然近知家を訪れたのだと、そう言いたいらしい。涙は流れ出していないが、ひなちゃんの瞳は潤んでいた。ゆらがティッシュを取って渡してあげる。

「ゆらも、私のことを好きでいてくれてると思うんだけど、それが友達としてなのか、それ以上なのか、答えを決めてから聞かせてくれないかな。」
「うん……。」
「それと、一つだけわがままを言わせてくれる?」
「なに?」
「ゆらが私を彼女にできないとしても、ずっと友達でいて欲しいの。嫌?」
「そんな、嫌じゃないよ、全然。あたしの方こそ、ひなちゃんと友達でいたい……。」
「ありがとう。それじゃ、寝坊したら友江先生に怒られるし、寝よ?」
「そうだね。おやすみ、ひなちゃん。」
「うん、ゆらもおやすみ。」

 明かりを消して布団に入ってから、二人が出会った頃の出来事が何度も頭に浮かんできた。学校行事や、一緒に遊んだ時の記憶。その小さいひなちゃんに、今告白してくれたひなちゃんの姿が全て重なっていく。暗がりの中で彼女の方を見るが、起きているかは分からない。もし寝入りを起こしてしまったら悪いので、声は掛けられなかった。そのまま、思考を開始する地点にすら辿り着かずにゆらは眠っていった。
 翌朝目が覚めてから、上半身だけ起こした状態で目覚まし時計を確認すると、設定した時刻までほんの少し間があった。隣のひなちゃんは眠っている。微かに開いたその唇を見ながら、「好き」という言葉を頭の中で反芻してみた。引越の話を聞かされた時、彼女はどんな気持ちになっただろうか。そう思うと居たたまれない。そしてゆらの胸の内にも湧き上がってくる感情がある。
 でも、それがはっきり形になる前に目覚ましが鳴り出した。その音でひなちゃんもゆっくりと起き上がる。

「ゆら、おはよう。先に起きてたの?」
「うん。おはよう。」
「私の寝顔、ずっと見てたの?」
「うんと、ちょっとだけだよ。あたしが起きたのもついさっきだから。」
「もう……」

 ちょっと責める感じで笑い、ひなちゃんは布団を抜け出して畳み始めた。ゆらもそれに倣う。

「先に着替えちゃう?それとも洗面所に行く?」
「洗顔とかを先にしたいな。」
「じゃあ、ひなちゃんが洗面所に行ってる間、あたしが着替えておくね。」

 互いに交代で朝の支度をしようと決め、ゆらが自分の着替えを取り出していたところへお母さんがやってきた。

「二人とも起きてる?もうすぐ朝ご飯だからね。」
「あれ、いつもより早いような……。」

 多分、ひなちゃんに気を遣わせないよう、子供達が起きる前に準備を済ませたのだろう。

「お母さん、急いだ方がいいの?」
「そうね、ひなちゃんはゆっくりさせてあげて、ゆらが急げばいいのよ。」
「ええっ。」

 抗議の顔をするゆらにひなちゃんは笑いながら提案してくれた。

「じゃあ、髪はご飯を食べてからゆらに梳かしてもらいます。私もゆらの髪をしてあげますから。」
「あ、そうだね。ご飯が少し早いから、友江ちゃんが来るまで時間できるし。」

 という訳で、二人とも髪だけ寝起きの状態で食事を終え、まずゆらがひなちゃんの髪を梳かしてあげた。

「涼子ちゃんが迎えに来た後、陽菜香ちゃんは自宅に帰るんだね?」

 食器を洗って、リビングにやってきたお父さんが訊く。まくった袖をとめるのに使っていたアームバンドを外し、「父」と書かれたお菓子の缶に入れている。

「はい、先生にわけを説明したら、私も帰ります。」
「じゃあ、僕が送っていくよ。彼野さんは今日、家にいる?」
「きっと家で待ってます。私が午前中には戻るって言ったので。」

 お父さんはおじさんと、引越後の相談などをしたいようだ。気が早いかも知れないけれど、直接会う機会は頻繁にないだろうからと言っている。
 髪を梳かし終わり、ゆらと場所を代えたひなちゃんがブラシを手に取った。

「ゆらも髪は柔らかい方だよね。」

 ひなちゃんの手が触れる度、頭皮にくすぐったさを感じる。丁度気持ちが良いくらいの感覚だ。

「柔らかさだけで言ったら、まあ。でも真っ直ぐじゃないし、生え方も揃ってないっていうか。」
「揃ってない?」
「うん。頭の左右で生えてる向きが違うんだよね。」

 髪を伸ばし始めてから、それがより分かるようになった。

「遺伝かな。お父さんとお母さん、どっちだろ。」

 両親の方を見てみるが、お父さんは髪が短くて判断が付かない。

「お母さんじゃないかなぁ。」

 お父さんが言う。結婚前からずっと左右非対称の髪型をしているのが根拠らしい。

「確かに私もそういう髪ね。顔立ちも、ゆらは自分の方に似てるって良く思うし。大人になったらまた違ってくるのかもしれないけど。」

 どうかしら、とひなちゃんに意見を求めるお母さん。ゆらの髪を整えながら、ひなちゃんも同意している。

「陽菜香ちゃんはご両親のどっちに似てるかな?」
「私はお祖母ちゃんに似てるって言われます。見た目よりも、性格が近いみたいですけど。」
「あたしは、おじさんにも似てると思うな。」

 その他、無意識に出てくる仕草など、家族で似ている部分について話していると、インターホンが鳴った。

「涼ちゃんが来たわね。私が出てくるから。」

 お母さんが立ち上がり、しばらくして友江ちゃんが連れられてきた。この場にひなちゃんがいる事に早速驚いた様子だ。そこで理由の説明があり、今日の訪問に同行出来ないのをひなちゃんはしきりに謝罪していた。

「気にしてたわね、彼野さん。でもそういう事情だったら仕方ないよね。」

 行きの車の中で友江ちゃんはすまなそうな顔をする。出がけにもその表情で、ひなちゃんの肩を抱いてあげていた。

「ずっと仲良しだったのに、残念だね。」
「でも二度と会えないわけじゃないから、悪い方にばっかり考えないようにしてるよ。」
「そうだね。私も力になりたい。」
「来年は担任の先生、変わっちゃうのかな。」
「多分ね。諒園小だと、同じ先生が続けて担任をする事って少ないから。」
「それじゃ、あんまり話せなくなるね。」
「放課後でも、私の所に来てくれれば少しは話せるよ。」

 車は小学校の近辺を抜け、更に早津市南東部の宏郷(ひろごう)地区に入っていく。ここは港を中心に漁業や水産関係の会社が集まり、中規模の商業区を形成している。その中で休憩場所として良く利用されているのが早津しおのか公園だ。そこに隣接する形でトォマガイ文化資料館は建てられている。
 資料館の駐車場を目指している間、車窓から公園の外周が見えていた。潮の香というわりに直接海が見える場所ではなく、むしろ植えられた樹木から緑の印象が強い。海辺の森といった趣だ。でもそれがいいのかなと思う。
 駐車スペースに車が停まり、友江ちゃんに連れられてゆらは資料館の入り口に向かった。開館直前の時間なので、入り口に並んで待っている人達もいる。年配の男性や、観光目的と見られる中年夫婦などが所在なげに扉を見ていた。日曜日だから家族連れがいても良さそうだが、そういう組み合わせの来館者は見当たらない。従ってゆらだけ少し団体の中で浮いた感じがする。それが気になって友江ちゃんの腕にくっついていると、手を繋いでくれた。
 開館まであと3、4分というところで中から扉が開けられ、人影が表に出てくる。スーツを着たその男性は、会釈をしながら皆を中へと招き入れた。

「ようこそ、おいで下さいました。皆さん順番に中へどうぞ。」

 どうやらこの人が館長らしい。60代くらいに見えるが体型はスマートで、縁のない眼鏡が顔立ちに合っている。頭頂部にもう少しでも髪が残っていれば、10歳若く見えただろう。残った部分は全て五厘ほどに刈り上げている。
 入館する列の最後尾にゆら達を見付けた館長は、歩きながらお辞儀をして近付いてきた。ゆらの感覚で見ると、結構厳しそうな人という印象だ。

「おはようございます。稲塚先生にご紹介頂いた方達ですね。」
「おはようございます。私は友江涼子と言います。それとこの子が……」
「初めまして。近知ゆらです。よろしくお願いします。」
「私はここの館長をしております、河洗藤二郎(かあらいとうじろう)と申します。事前のお話ですと、もう一人いらっしゃると伺っていましたが。」

 友江ちゃんから人数が減った理由について説明されると、館長は少し表情を和らげた。

「ご家庭の事情というのも大変ではあるでしょうが、病気とか、体調を崩されたのでなければ良かったです。」

 それまで難しい顔をしていたのは、ひなちゃんが身体を壊して来れなくなったのではと心配していたかららしい。厳しそうなのは変わらないが、怖い人ではないようだ。

「それでは、まず館内の展示物を見ながら、トォマガイの歴史をご説明していきます。」

 館長は友江ちゃんにチケットを渡した。本来は入場口で購入しなければならない物だ。

「良いんですか?頂いてしまって。」
「ええ、私からのサービスです。と言いたいんですが、本当は稲塚先生からのプレゼントです。」

 ゆらは入場料の要らない年齢なので、何も持たなくていいらしい。入場口で受付をしている女性の所で、館長は立ち止まって声を掛けた。

「私はしばらく、こちらのお客様のご案内をしますので。事務所にいる人にもそう伝えて下さい。」
「分かりました。連絡しておきます。」

 その受付係の人は友江ちゃんとゆらに向かい、ゆっくりしていって下さいね、と笑いかけた。素でいると無表情そうだが、それを崩すと可愛い感じになる人だった。
 入場を済ませると、そこからすぐ展示スペースが始まっている。資料館の内壁に沿うような形で年表やそれにちなんだ道具が飾られ、館内を時計回りに一周すればトォマガイの歴史を把握出来る造りだ。年表コーナーを回った先には出口へ繋がった物販ブースがあり、そこでお土産も購入出来る。そしてフロアの中央には「品」の字のような感じで装飾品や衣装を展示したり、住居の内装を再現したコーナーが設置されていた。ここにはどの位置からも移動でき、館内のショートカットとしても機能している。

「今『日本人』と呼ばれている民族の祖先は、氷河期にユーラシア大陸の方から移動してきた人達です。その後日本が島になって、独自の発展が始まるわけですが……」

 館長の説明が続く。友江ちゃんとゆらはメモを取っている。本州南部及び鋓梛地方(てんなちほう=現実の日本では九州に当たる地域の名)では海路による大陸との交流が続き、早いペースで国家の整備が進んだ。それに対して関東圏より北東の地域では、現代に繋がる日本人とは明らかに異なる文化を持った民族が散在し、それぞれ小・中規模の集団を形成していた。トォマガイもその一つになる。

「トォマガイの生活は漁と畑作が中心で、稲作の割合は低かったようですね。」

 展示された道具の種類は様々だが、どれも一様に似た模様が彫り込まれていた。

「これには何か意味があるんですか?」

 ゆらが尋ねる。

「この模様はトーナヅトと言われる物で、天災などの不幸から身を守る効力があると信じられていたんですよ。」
「トォマガイに決まった宗教はなかったんですよね。」
「ええ、近知さんは予習をされてきたんですか?」
「はい、ちょっとだけ……。」

 キリスト教や仏教のような組織化された宗教は無かったが、自然信仰はあったらしい。

「彼らは、人だけでなく、動物も植物も、その他もっと小さな生き物でも、命ある者の魂は全て等価であると考えていました。それを示す習慣として、動物などの遺骨を保管しておく場所があったんですよ。マトラサシと呼ばれていたんですが。」
「保管したあと、どうしていたんですか?」
「イナミサナイを行うんです。トォマガイ式の葬儀ですね。それについてはご存じですか?」
「はい。」
「良く勉強されていますね。人間と違って、纏めて複数の遺骨を扱う形ではあったんですが、人と同じやり方でそれ以外の生き物も弔っていたんです。」
「イナミサナイは、魂を永遠のものにする儀式ですよね。つまり、亡くなった生き物の魂も、今生きている者と同等に考えられていたんですか?」

 今度は友江ちゃんが質問した。

「その通りです。魂は水を介して世界を巡り、いつか新しい身体に宿るのだとされていました。輪廻転生のような思想ですね。こういった、全てを対等に扱う精神が何を象徴しているのか、分かりますか?」

 館長はゆらに問い掛けた。

「うーん……」
「ちょっと難しかったですか。トォマガイは、調和を重んじる民族だったんですよ。平和的で穏やかな人達という事ですね。」

 だから明確な身分の差もなく、民族全体で行動する時は村落毎の代表者を決めて会議をしていたそうだ。少数民族だからそう出来たのかも知れない。

「6世紀の前半になると、近葉地方(きんようちほう=兵庫県西部に該当)に朝廷が発足して、西日本に初めて大規模な統一政権が誕生しました。朝廷は東日本への進出も行ったので、そこで日本人と先住民族達の交流が生まれます。」

 しかし、東日本での活動の足掛かりを得るにつれ、朝廷の態度は高圧的な色を強めていく。

「近葉朝廷は国土の統一を目指していましたから、当然ではあるんですが、余り気持ちの良い話ではないですね。」

 種々の軋轢や衝突を生みながら朝廷は東北地方まで勢力を伸ばし、本州の統一を果たす。先住民族の生活は地理的にも経済的にも圧迫されたが、日本人もまた活動基盤の安定化が必要だった為、表向きは凪の時代が訪れた。

「しばらくは何も起きなかったけど、武士が現れてからまた状況が変わったんですよね。」
「ええ。9世紀には朝廷に内紛が起き、東日本の支配はひとまず棚上げにされていました。その時の政治的な混乱に乗じて発言力を得た武家達は、11世紀頃には実質、朝廷を掌握するようになります。」

 公家に代わって政治を行うようになった武士は、先住民族達を駆逐する為の政策を打ち出した。

「文化統倣律(ぶんかとうほうのりつ)ですね。」
「そう、独自の文化を捨てて、着る物や生活習慣から、使う言葉に至るまで、日本のものを受け入れよという命令です。従わない人達には厳しい経済制裁や、交通上の妨害行為が加えられ、たまりかねて暴動を起こせば軍隊が来て虐殺される。それは一方的な弾圧でした。」
「あたしが読んだ参考書だと、統倣律によって先住民は次第に数を減らし、姿を消していったとしか書かれていませんでしたけど……」
「教科書や参考書では、そうやって曖昧かつ省略された表現しか使われていませんよ。大手を振って言える事ではありませんからね。」

 先住民は自然に居なくなったような印象しか、ゆらの中には無かった。しかし本当のところは事情が違うらしい。学校で教わる事だけが、歴史の側面を全て表しているわけではないようだ。後で友江ちゃんにその事を訊いてみようと思う。

「先住民族はほぼ全てが朝廷に服従したり、滅ぼされていきました。トォマガイも結局は日本文化を受け入れたんですが、一部の人達が他と違う選択を取っています。それは参考書に書かれていましたか?」
「はい。ジゥメ・ハナン・ウシュ(旅立ちの船)ですよね。」
「そうです。こちらにその図が残されています。」

 館長は壁面のショーウインドウに向かい、飾られた船の絵を指し示した。

「いわゆる箱舟のような物でしょうけど、どのくらいの大きさだったんですか?」

 友江ちゃんの問いに館長は首を振り、正確には分からないのだと言う。

「でも、最大40人程を収容出来たとする説が有力ですね。帆もありますし、人が漕ぐ事も出来ます。その他、積み荷の量などを考慮して、少なくとも長さは30m、幅は6m、それに水面より上の高さが5mくらいはあったでしょう。あくまで私の想像ですが。」

 ゆらもジゥメ・ハナン・ウシュの図を見ながら、その大きさや、航海の様子を思い描いてみた。

「この船で、海に出て行った人達がいたんですね……。」
「ええ。トォマガイの血統と文化を純粋に残していける新天地を目指して。」
「彼らに望みを繋いでいたからこそ、陸地に残った人も甘んじて朝廷の命令を受け入れたんですね。」
「そうです。」

 友江ちゃんは興味深そうにウインドウの中を見つめている。

「最終的には、200人以上が旅立ったようです。」
「でも、何隻も船を造ったら、何をしようとしているか気付かれてしまいませんか。」

 ゆらが訊く。館長は再びショーウインドウを示し、

「まず、この肖像画を見て下さい。彼は早条直綱(そうじょうなおつな)といって、この地方の蛮地題(ばんちだい)を受け持っていた人物です。」

 蛮地題とは、統倣律の遵守を進め、先住民を監視する為に朝廷が設けた役職の事だ。

「直綱はトォマガイの内通者だったんですよ。」
「朝廷側の人が、ですか?」
「つまり、日本人も全ての人が統倣律に心から賛同していた訳ではないという事です。」

 彼は瑛河地方の蛮地題として赴任してくるのだが、近葉朝廷の弾圧行為に対し疑問を抱き始めたそうだ。

「何か害があるとも思えない相手に、何故そうまでしなくてはならないのかと記しています。」

 館長が指しているのは、日記の写しらしい。その下にも文書が展示されている。

「こっちの物は何ですか?」
「これは、直綱が最後に遺した手紙ですね。」

 直綱はトォマガイに協力し、彼らが船を建造している事実を隠し続けた。おかげで全ての船を出航させるまでには至ったものの、やはり内通が明るみに出てしまったようだ。

「朝廷は彼の行動に疑問を持ち、買収した部下に密偵をさせたんですよ。それによって、直綱は処刑される事になりました。」

 手紙は家族に宛てた物だった。

「数が多いという理由だけで、その民族の文化が最良である証にはならないし、ましてや少数派の者を弾圧する権利などないと述べていますね。」

 それと、彼は自分の末路をある程度予期していたと思われる。

「この手紙を書くよりずっと前に、妻子が寺院で出家をし、再出発出来るように取り計らっています。初めから命を捨てる覚悟だったのかも知れません。」
「命懸けで誇りを守ろうとしたんですね。トォマガイ側だけでなく、きっと日本民族の誇りも。」

 手紙を見ながら友江ちゃんがそう言った。

「是非そうであって欲しいですね。」
「それで、海に出た人達はどうなったんですか?」

 民族性を守る希望となった船が、どこに辿り着いたのか。ゆらは知りたかった。

「残念ながら、どこの国にも彼らが上陸したような記録は残っていません。トォマガイは大型の船舶を造った経験がないので、ジゥメ・ハナン・ウシュは耐久性に問題のあった可能性が高いです。それに、彼らは世界地図というものも把握していませんでした。ですから、きっと途中で全滅してしまったのでしょう。」
「そんな……」

 それで終わりなんて、と言いかけて言葉に詰まる。ゆらが悲しそうな顔をしたからか、館長は背を屈めて視線の高さを合わせてくれた。

「船は沈んで、直綱は処刑され、彼らの行動は結果的に全て失敗だった訳ですが、では最初から何もすべきではなかったという事でしょうか。」
「それは違うと、思います。」
「そうですね。調和を重んじるトォマガイは、争わずに自分達の文化を残していける道を探しました。直綱もそこに同調したんです。平和的であろうとするのが、愚かな行為の筈はありません。」
「あたし、知りたかったんです。どうしてイナミサナイのような儀式をするんだろうとか、トォマガイってどんな人達だったのかなって。」
「では、よく分かって貰えたと思いますが。」
「はい、とても。」

 館長は背を伸ばし、少し口元を緩めた。

「もしかしたら、全てが失敗では無かったのかも知れません。」
「どういうことですか?」
「近知さんのように共感してくれる人がいるならば、彼らは決して何も残せなかった訳ではないんじゃないかと、今思いました。」

 何もしていないのに褒められてしまった気がして、ちょっと照れ臭い。

「良ければ、またここに来て貰えますか?」
「あたしなんか、いいんですか?」
「勿論。かつてこの地方に、こんな人達がいたんだという事を、たまにでも思い出して欲しいんですよ。」

 トォマガイの歴史を最後まで見終えた為、年表コーナーはここで終了になる。三人は中央展示コーナーに移動した。

「こちらには、ニーザァシというトォマガイ式の住居を再現した物が置かれています。それと、歴史には直接関係のない日用品や装飾品も展示してあります。」

 館長の説明が無くとも、ニーザァシは大きいのですぐ分かる。住居の外観を表す小さめの模型がまず置かれ、その後ろに実寸で内装を施したモデルハウスが建てられていた。土台や外壁には石材が使われ、床と内壁は木材のようだ。日本家屋のような細長い物ではなく、もう少し幅のある板が組み合わせられている。天井は設置されていないので模型でしか確認出来ないが、こちらも木材が使われているらしい。

「どこか西洋的な雰囲気ですね。椅子やテーブルがあるからかも。」

 友江ちゃんが言う。デザインがどうという以前に、椅子などのある事自体が日本風でないイメージを喚起させる。

「どの家もこんな感じだったんですか?」

 ゆらは『直接展示物に触れる事はご遠慮下さい』と札の下がった柵に手を載せていた。館長がその隣までやってくる。

「身分差が無かったので、家はどこもこういう感じだったようですよ。世帯の人数によって、二階建て住宅なんかはあったようですが。」
「住み心地はどうだったんでしょう。」
「気密性が高いので、冬は快適だったでしょうね。逆に、夏場は暑かったと思います。」
「夏服はなかったんですか?」
「じゃあ、シャンクランの展示してある所に行きましょう。」

 館長に案内されて、ゆらと友江ちゃんが後に続く。現在地から見ると、振り返って真っ直ぐ後方にあるのが衣装コーナーだ。そこには立ち姿のマネキンに着せられて、シャンクランが飾られていた。男女一体ずつ、棒立ちではなく少しポーズが付いている。

「これが春と秋用のデザインで、別に飾ってあるのが夏服や冬服になりますね。」

 全身モデルの隣に頭部と膝下を省略したマネキンも用意されており、そちらに夏期と冬期向けの衣装が着せられていた。

「これが夏用のシャンクランなんですね。袖が短いですけど……。」

 短いけれど半袖というまでには至らず、六分袖くらいの長さだ。足の方も同じく、膝小僧が隠れている。布質は春秋用と同じなので、

「あんまり涼しそうじゃないような気がします。」
「今の人はもっと肌を見せますから、その感覚で見ると暑そうかも知れませんね。」
「当時の気候はどうだったんですか?」

 友江ちゃんも質問する。館長は眼鏡を直しながら答えた。

「今よりも平均気温は低かったようですよ。それに人口や建物の密度を考えれば、気分的な過ごしやすさも今より良かったんじゃないでしょうか。」

 例えば同じ温度・湿度でも、人ばかりの所と広々とした所では気持ちが変わる。なるほどと思う。

「じゃあ、冬は寒かったんでしょうか。」
「私も、当時の人ではないので想像するしかないんですが、恐らく。でも、過去の時代を想像する行為もなかなか楽しいものですよ。格好良い言い方をすれば、想いを馳せるという事になりますね。」
「そうですね。どんなものを食べてたとか。」
「ゆらちゃん、どうして食べる方に頭が行くかな……。」

 ついいつもの調子が出てしまったが、館長は笑って聞いてくれた。

「私は良い考えだと思いますよ。今度、トォマガイ風のレシピを研究して、展示出来るか検討しましょう。」

 ゆらの思い付きが採用されてしまいそうだ。止めてもらおうかと思ったが、館長が乗り気なので何も言い出せなかった。

「優秀なアイディアを頂いたところで、次は日用品や装飾品を飾ってあるコーナーに行きましょう。」

 そう言って館長は先に歩き出した。ゆらと友江ちゃんは並んでその後ろに付いていく。三人が足を止めた先のウインドウには、一角に食器や小型の調度品、別の一角に帽子や耳飾り等の装飾品が陳列されていた。
 まず食器を見てみる。一般的なデザインのコップやスプーンに交ざって、見慣れない形の品が置かれていた。フォークに似ているが、歯の部分が柄に対して90度曲がっており、櫛のような形状になっている。

「これ、変わった形ですね。」

 ゆらが指差すと、館長が側に来て説明してくれた。

「これはパンユと言って、フォーク兼ナイフの役目をする食器です。フォーク部分の背中側を見て下さい。」
「あ、薄くなってます。」
「こちら側がナイフになっているんですよ。トォマガイの食卓には箸が無かったから、これとこの、ウファンというスプーンを使って料理を食べていました。」
「これでご飯を……。」

 余り使いやすい形状には見えなかったけれど、日本の箸だって、外国の人から見たら不思議な食器だろう。だからパンユも、慣れてしまえば便利なのかも知れない。

「でも、こういう道具にもやっぱり模様がありますね。これもトーナヅトですか?」
「主に室内で用いる道具に彫られているのはまた別種の模様で、ナナリアルエと言います。安寧を招く物という意味ですが、要するに家内安全のおまじないですね。」
「そうなんですか。あっちにはアクセサリーが色々ありますけど、それにもおまじないが彫られてるんでしょうか。」
「身体用の装飾品は、身に付ける事自体に意味があるとされていました。ちょっと例を見てみましょうか。」

 館長は少し移動して装飾品のコーナーに行き、近くにあった腕輪を示してみせた。

「これはカンナサンと言って、天気に崩れて欲しくない時、身に付けていた物です。」
「何だか、人の名前みたいですね。」

 ゆらが口に出しかけた台詞を友江ちゃんが先に言った。二人とも同じ事を考えたらしい。晴れが好きなかんなさん。

「ちょっと可愛い感じかも。」
「日本語とは意味もイントネーションも違いますが、何となく似合っていますよね。」

 その隣を見ると、ペンダントが飾られている。ヘッド部分は銀や銅といった金属製もあれば、翡翠や瑪瑙のような石類を用いた物もあった。ただ、どれも共通のデザインが施されているように見える。

「これは何て言うんですか?」

 ゆらが訊き、友江ちゃんも一緒に館長を見た。

「これは、クェニ・グラウと言います。日本語にすると、『心を繋ぐ』という意味ですね。」
「意匠に使われているのは、トォマガイの文字でしょうか。」

 友江ちゃんの指摘に館長は頷き、ゆらも納得がいった。

「これ、文字なんですね。」
「そう、トォマガイの人達は、自分の好きな言葉を象ってこれを作ったんです。同じ物を二個用意して、片方を自分が持ち、もう片方は旅に出たり、漁に行く人に渡していました。」
「離れていても、心が繋がるという効能ですか?」
「ええ。他に、愛情表現の手段としても使われていますよ。現代でも、恋人にアクセサリーをプレゼントする習慣がありますよね。それと同じ事です。」
「へぇ……そういうところは、昔も今も変わらないんですね。」

 心を繋ぐ首飾り。ジゥメ・ハナン・ウシュに乗り込んだ人達も皆持っていたそうだ。陸地に残していく人々から受け取って、きっと航海中ずっと。それはもう遠い過去の出来事で、結局は目的も叶わなかったけれど、今こうして想いを汲み取る事は出来る。だから館長の言った通り、彼らの残してくれたものは存在しているのだ。ゆらが忘れさえしなければ、これからもずっと。

「ゆらちゃん、どうかした?」
「ちょっと、考え事。想いを馳せてました。」
「早速ですね。でも授業中などはしない方がいいですよ。先生に怒られます。」

 友江ちゃんではなく、館長に釘を刺された。思わず苦笑いしてしまう。

「これで、館内を一通りご案内しました。後は物販コーナーに行きましょうか。」

 物販コーナーを抜ければすぐ出口だ。今日のツアーも終了なのだろう。

「河洗さん、今日はありがとうございました。」
「本当に、わざわざ時間を割いて頂いて……」
「いえ、私も楽しかったですから。若い世代の方に興味を持って貰えるのは嬉しいです。」

 館長は先を行きながら、視線をちょっとこちらに向けた。

「お土産には、先程見たような日用品もありますし、良ければ記念に私から何か差し上げますが。今日来られなかった彼野さんの分も、どうでしょう。」
「ありがとうございます。でも、お気持ちだけで構いませんから。」

 友江ちゃんが申し出を辞退した。さすがに三人分もお土産を貰って帰るわけにはいかない。

「あたしがまたここに来た時、どうすれば河洗さんに会えますか?」
「前もって資料館に連絡をしてくれれば、時間を空けておきますよ。今日は都合上、立ち話になってしまいましたが、今度は座ってお話ししましょう。」
「じゃあ、その時はよろしくお願いします。」
「ええ、お待ちしています。」

 館長と別れ、駐車場へと戻る。ロビーを抜ける際には、結構来館者が増えているのを見た。到着した時よりも日が高い。

「友江ちゃん、今何時?」
「11時20分くらいだね。ご飯には早いかな。ゆらちゃんはどうしたい?」
「早いけど、ご飯に行こ。あんまり友江ちゃんを付き合わせるのも悪いし。」
「そう?何が食べたいかな。」
「あっさりしたものがいい。」

 この時間だと、まだ余りお腹も空いていない。だから軽食でいいという事になった。
 車は宏郷地区の中心部に向かい、飲食店が集まる一角の駐車場に停まった。ここは付近のお店に共通して利用出来るようになっており、食事代の会計時に貰えるチケットを見せれば、駐車料金は無料もしくは割引になる。
 友江ちゃんの案内で着いた所は、喫茶店のようだ。「SLEIGHBELLS」という看板が掲げられている。

「ここに入るの?」
「うん、何回か来た事があるんだけど、美味しかったから。」

 そう言えば今まで、ファミリーレストランなど家族向けの店舗には入った事があるが、こういう小さくて洒落たお店は初めての気がする。そんな理由で何となく緊張しながら中に入った。

「いらっしゃいませ。」

 迎えてくれたのは店主の男性と、奥さんらしき女性。この二人がスレイベルズを営んでいるらしい。勧められたテーブルにつき、周囲を見渡す。調度品は家庭的な雰囲気で統一され、親しみやすさを生み出していた。
 メニューの中からゆら達が選んだのは、まずメインにシナモンフレンチトースト、トッピングが選べるそうなのでゆらはメープルシロップを、友江ちゃんはバニラアイスを頼んだ。飲み物はミントティーに決め、最後にミックスサンドを一皿追加する。これを二人でつまめば量的に丁度良い。

「河洗さんの話、難しかったけど面白かったね。」
「うん。私も知らなかった事があったし。」

 最初に運ばれてきたミントティーに口をつけながら、資料館での講義を振り返る。

「学校の授業を受けてるだけじゃ、わからないこともあるんだね。」
「統倣律の話?」
「うん。」
「そうね。私も授業の内容を見直そうかな。ゆらちゃんがトォマガイに興味を持ったみたいに、教科書から外れたところにも生徒の目が向くように。」
「あたし、遊ぶこと以外で初めて何かに興味が出たかも。」
「そういう、自分の中に芽生えた関心は大事に取っておいた方がいいよ。」
「そうなの?」
「ゆらちゃんがこれから成人するまで、いくつか興味の持てる事に出会うと思う。その内のどれかが将来の進路になるだろうから、おざなりにしないで、ちゃんと向き合っておいた方が良いわ。」
「そっか……。」

 大人になった自分が何をしているか、今はまだ想像もつかない。でも、好きな仕事で生活していけた方が良いに決まっている。その為には関心事を取捨し、整理しておかなくてはならないだろう。また、それをいつ始めたとしても、早過ぎはしない。
 そこへ、店のご主人が出来上がった料理を持って来た。

「お待たせしました。温かいうちに召し上がって下さい。お茶のお代わりも、言って下されば運んできますので。」
「ありがとうございます。」

 バターとシナモンシュガーの程良く甘い香りが鼻をくすぐる。二人で手を合わせてから、ナイフでトーストを少し切り分け、トッピングを乗せた。同じタイミングで口に入れるようお互いを見ながら、最初の一口を食べる。

「んー……おいしい。」
「そうでしょ?」

 笑顔の友江ちゃん。更に次の一口分を切っている。

「ゆらちゃん、トッピングを交換しようよ。メープルシロップも食べてみたいから。」
「うん、いいよ。」

 再び切ったトーストを、今度は相手の皿に乗せて取り替えっこする。食べてみると、最初とはまた違った味わいが口に広がった。

「こっちもおいしい。」
「私も。あ、お茶頼もう。」

 友江ちゃんがお代わりを頼むと、今度は奥さんが来て、お茶を取り替えていってくれた。

「友江ちゃん、あたしの為に色々ありがとう。日曜日だったのに、わざわざ……。」
「良いのよ、気にしなくて。」
「でも、あたしだけ特別扱いしてもらっちゃったみたいで。」
「ううん、もし今回頼み事をしてきたのがゆらちゃんじゃなくても、私は同じ事をしていたわよ。だから特別じゃない。」

 それでも、ともう一度お礼を言って、ゆらは食事を続けた。
 近知家に戻り、友江ちゃんが帰宅してから自室に行く。寝具を全て片付けて机に向かった。資料館で書いたメモを元に、ひなちゃんに渡す為のノートを作らなくてはならない。予習の際にはほぼ付きっきりで助けて貰ったのだから、そのお返しをするべきだ。
 館長の話を思い出しながら鉛筆を走らせていると、お父さんが顔を出した。

「ただいま。資料館はどうだった?」
「知りたいことはわかったし、勉強になったよ。」
「そうか。彼野さんがゆらに宜しくって。」

 ゆらの存在が、ひなちゃんにとっては時に家族よりも重要なのだと、おじさんは理解したそうだ。

「父さんも、親友ってそういうものだと思うな。両親は両親で勿論大事なんだけど、それとは別に、誰にも代われない役割を果たすのが親友なんだよ。」
「そうだね。責任重大かな。」
「陽菜香ちゃんのこと、大事にしてあげないとな。」
「うん。」

 お父さんは親友と表現したけれど、今ひなちゃんはその関係を越えようとしている。結論はゆらの答え次第だ。
 その夜、お風呂を出てから部屋に布団を敷いた。隣に空いた空間を見ながらひなちゃんの姿を思い出す。泣いてしまいそうな瞳で、ゆらが好きだと言ってくれた。そして今朝方の無垢な寝顔。あの時抱いた気持ちが、自分への返答になるのだろう。
 彼女の髪を撫でたい。頬に触れたい。もっと近くで、息遣いまで感じたい。ゆらもまた、友情の範疇には入らない感情でひなちゃんのことを想っている。
 今までも手を繋いだり、髪を梳かしたりする時に、他の人に対しては感じないような気持ちになる事があった。ただ、それはこの綺麗な少女の一番の友達が自分であるという、優越感や独占欲の類なのだと思っていた。が、そうでは無かったようだ。
 いつからお互いが特別な人になったのか、考えてみる。ゆらの場合は自分でも恋情に気付いていなかったわけだからはっきりとは言えない。けれど、きっと一昨年のクラス替えが起点になっているのだと思う。休み時間等に話す機会が減ったので、二人は良く一緒に帰るようになった。ただ帰るだけでなく、それまでより頻繁に手も繋いでいる。先に求めてくるのは大体ひなちゃんだったから、都合良く捉えるなら、この頃には好意を持ってくれていたのだろう。ゆらの方も、クラスが分かれた友達と余り話さなくなってしまっても、ひなちゃんへだけは向かう気持ちが違っていた。彼女を手放したくない、よそよそしくされたら嫌だ。今振り返れば、これも独占欲ではなく、ひなちゃんが好きだという気持ちの表れだったに違いない。

「ふう……」

 布団の上に寝転がり、枕に突っ伏す。そんな調子で自覚のないゆらとは反対に、ひなちゃんは自分の気持ちを知っていた。そう言えるのは、去年のバレンタインデーの出来事があったから。
 その日、ひなちゃんがゆらにチョコレートをくれた。特に説明はされなかったが、ラッピングからして手作りの雰囲気が漂っている。訊けば何回か練習して作ってくれたらしい。しかし前の年まではプレゼントのやり取りも無かったから、ゆらは何も用意していない。まずその事を謝り、良くお礼を言ってチョコレートを持ち帰った。
 帰宅して包みを開けてみると、中にはマーガレットの花を模したチョコが入っている。中央部分がブラウン、花びらはホワイトで、それぞれが独立して一口サイズに分かれていた。可愛くて食べやすい、その工夫に感心しながら添えられたメッセージカードを読む。

「The affair that is with you makes me happy.(あなたと一緒にいる事が、私を幸せにしてくれます。)」

 訳は後でお母さんに辞書を借りたのだが、ゆらはその内容について深く考えなかった。五年生になれば再度のクラス替えがある。でも、また同じクラスになれる保証は無い。だからもし二人がこのまま離れていても、変わらず親友でいて欲しいという意味なのだろうと、当時は思ってしまった。その後ホワイトデーにゆらは、「Me too!(私もだよ!)」と返信を添えてひなちゃんにクッキーを渡している。ただ、チョコをくれたひなちゃんの気持ちと、自分の気持ちがどこか釣り合っていないような違和感はあった。どうして彼女がチョコを作る気になったのか、思い切って尋ねた方が良いかも知れない。そう悩んでいた矢先にお祖母さんの入院が決まり、バレンタインの話はそれきり二人の間で交わされなくなった。また、そういった彼野家の事情を踏まえて、今年はゆらもひなちゃんも、一緒にチョコレートを買いに行って済ませている。
 あの時ゆらも、もっと具体的なメッセージを書いておくべきだったのだ。少なくともひなちゃんを不安にさせない程度には。

「あたし、全然だめだ……。」

 寝返りを打って天井を見つめる。自分の鈍さが虚しい。それでも愛想を尽かさずにいてくれた、ひなちゃんの優しさが却って胸を締め付ける。最早周回遅れと言えるこの状況を、ゆらが単に告白しただけでは挽回出来ないだろう。
 自分の気持ちが揺るぎないものであり、例え離れていてもひなちゃんが一番大事だと示す為に、お揃いの贈り物をしようと思う。
 離れていても、心が繋がるように。すぐにクェニ・グラウの事が思い浮かんだ。ゆらの想いを込めた言葉を、形として身に付けて貰う。それも手作りでこの世に一つしか無い物なら、尚良い。ゆらは寿美さんに連絡を取ろうと考えていた。予定しているアクセサリー作りを早めに教わって、自作のクェニ・グラウをひなちゃんに渡すつもりだ。但し、それにはまず両親の了解を得なくてはいけない。寿美さんが近知家に来るのなら、初対面の人が自宅を訪れる事になる。もしくはゆらが寿美さんの家へ通うとしても、夕方から夜間に外出が必要になる。どちらにせよ事前に説明をしておかないと怒られてしまう。布団から身体を起こしたゆらは部屋を出た。

「お父さん、お母さん、ちょっとお願いがあるんだけど……。」

 リビングで爪を切っていたお父さんに、お茶を持ってきたところのお母さんも何事かとゆらを見ている。まずは座ってから、自分の考えを説明した。ひなちゃんに手作りのペンダントをプレゼントしたい事。その為に平奥寺寿美という人に教えを請いたい事。恋愛感情の告白については内緒にしておいた。

「プレゼントを作る事自体は良いと思うよ。問題は平奥寺さんが引き受けてくれるかどうかだな。」
「多分、引き受けてもらえると思うんだけど。」
「うん、明日にでも本人にそれを確認しなさい。受けてくれるんだったら、ペンダント作りを習う曜日とか、時間なんかもきちんと相談しなくちゃいけないから。」
「そうね。普段の仕事もあって、伝える会にも所属している人なら、忙しいでしょうし。」
「だから、確認を取って面談をしないと。それはお母さんに頼んでもいいかな。」
「いいわよ。それとゆら。」
「何?」
「もし平奥寺さんがこの話を断ったら、プレゼントを諦める?」
「ううん、そういうわけにはいかないよ。」

 この機会を逃したら、後は無いと思った方が良い。

「ゆらの決心が固いなら、お母さん達も協力するから。上手くいかない事があっても、簡単に投げ出したら駄目よ。」
「うん。ありがと。」

 両親は積極的に応援してくれるらしい。思えば、ゆら達が仲良くなったからお母さんとおばさんも知り合えたわけだし、お父さん同士も同様だ。ゆらとひなちゃんの関係が良い方向に作用して、より大きな繋がりをもたらしたと言える。その良い作用を維持したいという気持ちがあるから、お父さん達もゆらに協力するのだろう。
 今までは子供だけの間柄や都合で自分の行動を決めてきたけれど、それも少しずつ変わっている気がした。ゆらも成長すれば、より広い人間関係や、今回で言うなら近知家と彼野家の親同士といった、身の回りの大人を意識するようになっていく。そうしていつか自分もその大人の一人になる。
 でも、ゆらはまだ大人ぶるには早かった。寿美さんへの依頼を、クラスメイトに頼み事でもするような感覚で捉えていたからだ。お父さんが面談の話をした時、これは基本的に無理なお願いなのだと理解出来た。お母さんも言っていたが、普段は洋服屋で働き、イナミサナイの準備も手伝っている彼女にもう一つ仕事を頼む事になるのだから。
 仲良くなってくれたとは言え、寿美さんは社会人であって、小学生の友達とは違う。果たしてアクセサリー作りの約束を前倒しにして貰えるかどうか、最初ほど自信が持てない。
 翌日、連絡が取りやすいようにと寿美さんから教えられた時間帯に電話をかけた。緊張したが、ゆらのしたい事は何とか説明出来たと思う。

『陽菜香ちゃん、遠くへ引っ越しちゃうんだ?』
「はい。それで、あたしの気持ちを込めた贈り物をしようと思ったんです。」
『クェニ・グラウの事まで勉強したのは凄いね。ゆらちゃんが本気で取り組むなら、私も手伝ってあげるよ。』
「いいんですか?寿美さん、忙しいんじゃ……」
『うん。だから一つ条件を出すわ。それが守れるなら手伝うわよ。』
「どんな条件ですか?」
『陽菜香ちゃんとずっと仲良しでいる事。今話してくれた気持ちを忘れないでね。どう、出来る?』
「約束します。あたしにとって、ひなちゃんは一番大事な人ですから。」
『分かったわ。それじゃ、明日ゆらちゃんのお家に伺うから、お母さんとお話させて?』

 そう言われて、ゆらは席を外している両親のところへ行った。電話を代わった後、お母さんは寿美さんとスケジュール等を話し合っていたようだ。その時点で大まかな日程は決めてしまい、細かい打ち合わせを明日するらしい。
 明日学校に行ったら、まずひなちゃんに、自分がいつ返事をするのか伝えようと思う。本当は今日の放課後に彼野家へ行くつもりだったのが、予定が変わってしまったのだ。昨日ひなちゃんが残していった洗濯物を届け、その時に話そうとしていたはずが、おばさんが昼間近知家を訪れて先に持って帰っていた。お母さんによれば、ひなちゃんを泊めてあげたお礼を言いに来てくれたそうだ。おばさんに全く非はないから文句も言えないが、本来狙っていたタイミングがずれてしまい、ちょっと決まりが悪い。
 翌朝、どうやらひなちゃんも同じような考えだったらしく、ゆらから話したい事があるのを、雰囲気だけで察してくれた。

「本当は昨日話さなくちゃいけなかったんだけど、ごめん、ひなちゃん。」
「ううん。場所、変えようか。」

 二人は教室から廊下に出て、階段に近い窓際へ行った。この辺りには何の設備もなく、立ち止まる生徒は居ないので話しやすい。窓からまだ少し涼しい朝の空気が入り込んできていた。

「でね、土曜日の返事なんだけど、もう少し時間をくれるかな。」
「いいよ。ゆっくり考えて、ゆら。」
「イナミサナイが終わった時に、二人だけで話したいんだ。それまで待ってて?絶対、返事はちゃんとするから。」

 既にゆらの心は決まっている。が、今は口にするべきでない。彼女が好きという気持ちを余すところなく、最善の形で伝える為に準備が必要だ。だからそれまで待たせてしまうのを許して欲しい。ゆらは自然と表情を引き締めていた。

「待ってるよ。私のことは気にしなくていいから、ゆらの正直な気持ちを答えて?」

 時間が欲しいと言ったゆらの言葉を、ひなちゃんは返事を考える時間が必要なのだと思っている。違うんだよ、本当はあたしもねと心の中で謝りながら、ゆらはしばらくひなちゃんと肩を寄り添わせていた。
 きっと今日帰宅した後は、クェニ・グラウを完成させるまでもうゆっくり出来る時間はないと思う。夕刻過ぎ、迎えに出たお母さんと連れ立って現れた寿美さんは、大きなアタッシュケースを提げていた。これからレッスンが始まる。

「寿美さん、荷物をお預かりしますから、先に手なんかを洗ってきて下さい。」

 人数分のスリッパを出しながら、お母さんが促した。

「はい。それじゃ、これはゆらちゃんに預けます。ゆらちゃん、私が言う物をまず用意しておいてくれるかな?それが終わったら、道具を見てて良いよ。先の尖った物もあるから気を付けてね。」
「わかりました。」

 寿美さんがお母さんと話している間、自室で下準備を済ませる。テーブルを出してきて、その上に新聞紙を敷く。アタッシュケースの中からA4判のカッティングマットを出し、自分が両手を置くであろう部分へ載せた。これが作業スペースとなる。次にキッチンからお菓子の空箱を持ってきて、手の届きやすい位置に置いた。作業が進むとワックスの削りかすが溜まるので、こういうくず入れを使って机上を綺麗に保つそうだ。
 後は寿美さんの持参した道具を見ようと思ったが、その中でまずスケッチブックが目についた。手に取って開いてみると、ペンダントヘッドのデザインらしき絵が描かれている。隅の方に元々の文字と、それを少し抽象化したスケッチが中央に。これを作っていくのだなと眺めていたら、お母さんと寿美さんがやって来た。

「ゆら、私達の話は終わったから。それじゃ寿美さん、ゆらの事宜しくお願いします。」
「分かりました。私も頑張ります。」

 お母さんはまたリビングの方へ戻っていった。寿美さんはドアを閉め、ゆらの隣に来て腰を下ろす。

「それ、やっぱり見ちゃったね。」

 彼女はスケッチブックを指差している。本当はレッスンを始めてから開いて見せる予定だったらしい。

「ごめんなさい、気になっちゃって……。」
「良いのよ。それが昨日電話で聞いておいた言葉ね。ゆらちゃんがモチーフにしたいって言う。」
「何て読めばいいんですか?」
「ナーヤー。トォマガイの言葉で『永遠』って意味よ。」
「ナーヤー……」

 シルエットが何となく、『え』の字に似ている。永遠の『え』だから憶えやすいなと思った。

「でも、デザインはこれで完成じゃないわ。ゆらちゃんの意見を聞きながら、今日決めていくの。その後すぐ作業に取り掛かるから。」
「時間、少ないんですか?」
「原型を鋳造するのに早くても一週間は要るから、今週末までに完成させないと駄目だね。で、鋳造待ちの間にラッピングを考えようと思ってる。」

 週末までの日数のうち、寿美さんが直接監督出来るのは三回だと言う。勤務時間の都合から致し方ないそうだ。但し、最終日にあたる日曜は一日付きっきりで作業を見てくれる。

「スケッチブックに細かい指示を書いておくから、私がいない時はそれを見ながら原型を作ってね。じゃあまず、デザインを決めちゃおう?」

 二人で横並びに座り、最初のスケッチを元に意見を出し合った。ゆらはともかく、ひなちゃんが身に付ける事も考えると形が硬質なので、もっと丸みを持たせて女性的にしたいとか、見た目に重たかったり、逆にちゃちな印象も与えないようなサイズと厚みを計算しようといった具合に。鉛筆で少しずつ修正を加えていき、最後に寿美さんが清書を起こして決定稿を出した。ゆら達が大人になってからも使う物だから、余り可愛さに寄りすぎないデザインにしたつもりだ。

「うん、良い出来じゃない?これなら長く使っていても飽きないね。」
「あたし絵が下手だから……。寿美さん、描いてもらっちゃってすみません。」
「そうだね……クェニ・グラウは文字を象った物だから、今回は基本の形が決まってたけど、一からデザインを考えるとなったら多少の絵心は必要かな。」
「練習しないと駄目ですね。」
「それも宿題の一つだね。別にテストがあるわけじゃないから、慌てなくてもいいけど。」

 話しながら寿美さんは荷物を探り、糸ノコを出してきた。

「最初に材料の切り出しをします。これを使って、さっき決めた大きさに合うように切って?」

 定規を使って必要な分量を見、寿美さんの指示通りにワックスを切っていく。今回は粘度の高い物を選んできたそうだ。

「出来ました。」
「それじゃ、同じ要領でもう二つワックスを切り出して。」
「もう二つですか?」
「ゆらちゃんはアクセサリー作りが初めてだから、いきなり本番の原型を削っても、失敗する場合だってあるでしょ。そこで練習用の予備を二つ用意してもらうわ。」
「じゃあ、まず練習用の方を削ってみて……」
「そう、それでコツを覚えてから、実際に鋳造する原型を削るの。」
「そっか。その方が綺麗に出来ますね。」

 ゆらは更に二個のワックスを切り出した。

「では、道具を紹介していきます。まずはデザインナイフね。これで大まかな外形の削り出しを行うわ。そしてこっちの金ヤスリと、スパチュラって言うんだけど、色んな形の爪が付いた棒があるよね?これで細かい部分を作っていくのよ。」
「こっちのは何ですか?」
「これはピンバイス。チェーンを通す金具を付ける穴を開ける時に使うのよ。その作業は私がやってあげる。」

 寿美さんはアタッシュケースの中身を指差しながら、一つ一つゆらに説明していく。たまに髪をかき上げる仕草をすると、少しだけ、普段の近知家にはない寿美さんの香りがした。

「後は紙ヤスリとルーターね。原型を磨いて滑らかにしたり、鋳造後の完成品を仕上げる時に使うわ。それと研磨剤。最後の磨きをするのはこれ。」

 全ての道具を教わった時点で、基本的な作業の手順も分かった。それでは、とワックスに向かい、ゆらはクェニ・グラウ作りを開始した。但し、かなり恐る恐るといった趣で。初めてだから仕方がない。自分の手付きにも全く自信が持てないのだが、不安を感じる度に寿美さんがそれを察知し、丁寧な手振りでお手本を見せてくれた。

「まだこれは練習用だから、そんなに気にしなくて良いよ。」
「そうですよね。」

 と言いつつ、堅い動きのゆら。それでも寿美さんの手解きで少しずつ緊張感が取れてきた。

「ゆらちゃん、前髪邪魔じゃない?」
「そう言えば……」

 テーブルに向かった時から視界の上端に前髪が入っていて、指摘されると確かに邪魔だと思う。宿題をする時などは気分次第だが、今回は集中力を要する手仕事だからか、髪は必ず留めた方が良さそうだ。一旦手を止めたゆらに、寿美さんが言った。

「ヘアピン、持ってる?」
「あります。」

 寿美さんにピンを渡してから、身体の向きを変えてゆらは正座する。お互いの膝を付き合わせた状態で、前髪を留めてもらう。その間何となくゆらは目を閉じていたのだが、もう良いよと告げられて瞼を上げると、寿美さんの顔がすぐ近くにあった。優しい表情と、その中心になっている彼女の瞳。昔に見た憶えがある。寿美さんとは出会って間もないのだから、そんな筈はなかったけれど。
 既視感にとらわれたまま、ゆらが寿美さんを見つめ返していると、そっと手を取られた。

「頑張って。」

 このやり取りがゆらの緊張をほぼ無くしてくれたようだ。それからは下手ながらも手が随分スムーズに動き始めた。

「良くなってきたじゃない。この調子で、ね。」
「寿美さん、ありがとうございます。」
「何がかな?」
「あたし、これで大丈夫かっていうくらいガチガチだったのに、寿美さんのおかげで気持ちが落ち着きました。」
「どう致しまして。私もちょっと照れたけど。」

 そう言う寿美さんの笑顔は清々として、最初に会った日と変わらない印象だった。ゆらは手を握ってくれた時と、今の寿美さんの二人を脳裏に並べてみる。そしてどっちも魅力的だな、などと夢想していると、部屋のドアがノックされた。

「あ、はーい。」

 やって来たのはお父さんだ。お茶を持ってきてくれたらしい。

「平奥寺さん、いらしてるかな。ご挨拶しなきゃいけないから、今日は急いで帰ってきたよ。」

 その会話を聞いて、寿美さんも立ち上がってくる。持っていたお盆をゆらに渡してから、お父さんは礼をした。

「初めまして、ゆらの父で近知尚人と言います。」
「初めまして。私、平奥寺寿美です。ゆらちゃんとは最近知り合って、仲良くさせて頂いています。」
「今回は娘の無理を聞いて下さったようで、有り難うございます。勿論私達両親もそうなんですが、この子が目的を達せるよう力になってあげて下さい。」
「はい、最後までゆらちゃんを支えてあげるつもりです。」

 もう一度寿美さんに頭を下げてから、お父さんは出て行った。ゆら達は残されたお茶とお菓子で休憩を取る。後半のレッスンに入ると、寿美さんはスケッチブックにメモを書き付けだした。見ると、クェニ・グラウのデザインにあちこち注意書きが入っている。部分ごとに適したヤスリやスパチュラの種類、また形を整える際のコツなど、細かく書かれているようだ。

「次に私が来るまでに、練習用その1は完成してるといいね。それを見て反省点を出しながら、その2を削っていけるから。」
「頑張ります。」
「陽菜香ちゃんに、綺麗なのをプレゼントしようね。」

 そう言い残し、寿美さんは初日を終えて帰宅した。両親と一緒に玄関で彼女を見送ってから、使った道具を片付け、リビングに行くと夕食の用意が始まっている。いつも食べている時間に比べればかなり遅い。

「お父さん、寿美さんも一緒に食べていってもらえば良かったんじゃない?」
「でも、そうしたら平奥寺さん、すごく帰るのが遅れるだろ。だからお誘いはしなかったよ。」
「そっか。色々してもらってばかりだから、うちからもお礼ができたらいいと思ったんだけど……。」
「平奥寺さんにはゆらの家庭教師として、報酬を支払う事になってるよ。ね、お母さん。」

 人数分の箸置きと箸を並べながらお母さんが答える。

「その予定だったんだけど、寿美さんには辞退されたわ。」

 それを聞いて、弱った顔になるお父さん。

「お金で事を済ませようとしてるって、思われちゃったかな。」
「そうじゃないみたい。寿美さんは本当に生真面目な人なのよ。元々ゆらをアクセサリー作りに誘ったのは自分の方だし、今回の頼みだって、無理なら断る事も出来たのに、好きで引き受けたんだから報酬は受け取れないって。」
「ますます申し訳ないなぁ……。」
「そうね。でもうちが何も負担しないわけにはいかないし、そう説得したのよ。」
「寿美さんは何て答えたの?」

 訊きながらゆらは思っていた。寿美さんにはもう、この先ずっと頭が上がらなくなるかも知れない。彼女の方はそんな事を気にしないとしてもだ。

「ペンダントの鋳造にかかる費用だけを出すように頼まれたわ。そう決めるまでの間も、寿美さんは大分困ってたけど。でね、私その時思ったのよ。」
「何を?」
「まるで涼ちゃんと話してるみたいだって。あの子もなかなか譲らないところがあるじゃない。」
「お姉ちゃんか……。」

 友江ちゃんは目上の人に対して遠慮がちで、尚且つそういう自分を曲げない性格をしている。だからゆらの両親から見れば、真面目で頑固な人に映るらしい。寿美さんの場合、考えの根本になるものが遠慮とは少し違うけれど、結論が相手と異なった場合でも、自分で決めた事を大事にするところは同じだ。むしろ寿美さんの方が強くその傾向を持っていると思える。
 外見は対照的なのに、似た部分を持っている二人。もし引き合わせたら仲良くなれるだろうか。寝る支度を済ませ、ランドセルに明日使う教科書を入れながらゆらはその方法を考えてみた。例えば友江ちゃんに対し、お姉ちゃんに似た人がいるから会って欲しいと頼む。しかし、わざわざそんな事にまで言及して面会させるのはお節介だ。と言うより、第三者の手によって引き合わされる事自体、あの二人には似つかわしくない気がする。もっと自然な形で出会った方が、良い出だしになるだろう。
 だからゆらは、これからも寿美さんが定期的に近知家を訪れるようにすればいい。友江ちゃんは放っておいてもやって来るのだから、そうしておけばいずれ出会いも生まれる。
 目下、降って湧いた議題への答えが纏まったところで掛け布団をめくり、足を滑り込ませようとした時に気が付いた。今夜見た、寿美さんのあの笑顔をいつ見たのか。
 ゆらが小学校に上がるよりも小さかった頃、昼間に男の子と喧嘩をして、ずっと部屋で泣いていた事があった。遊び場所の取り合いで口論になったのだ。幸い取っ組み合いとまではならなかったが、結構長い時間言い争っていたと思う。その間に周りの友達は飽きてしまい、結局その場所には誰も居着かないまま全員が帰宅した。でも、先にそこで遊んでいたのはゆら達なのだから、完全に向こうが悪い。苛立ちと悔しさから涙が溢れ、膝を抱えたまま立ち上がる気にもならなかった。
 そのまま30分程が過ぎ、泣き続けるのも辛いなと感じ始めた頃に、ドアをノックした人がいる。友江ちゃんだ。気付かない間に家を訪れていたらしい。部屋に入ってくると彼女はゆらを正座させ、自分も同じ姿勢ですぐ向かいに座った。ハンカチで涙を拭いてくれた後、ゆっくり髪を撫でながら事情を話すように促す。

「ゆらちゃんは間違っていないね。それは確かだと思う。」

 でもね、とその先に言葉が続く。相手の男の子も本当はただ一緒に遊びたかっただけで、それを素直に口に出来ないのだろうと。だから、自分の方が正しいとしても、それと相手を責め続ける事をイコールにする必要はないと友江ちゃんは言った。

「嫌な出来事の、嫌な部分ばかりを強調して憶えると、それはずっと後まで心に残ってしまうから。男の子がちょっかいを出してくるなんて、この先いくらでもあるわ。気にするだけ時間の無駄よ。」

 悪戯っぽく笑う友江ちゃん。ゆらが手を取ってお礼を言うと、その笑顔はとても柔和になった。
 寿美さんの表情から感じたのは、丁度あの時と同じ雰囲気だ。彼女への親近感が更に増してくる。でも友江ちゃんとの思い出があるのはゆらだけで、向こうはそんな事情など知らない。だからこの気持ちはまだ心に留めておき、変に懐いて寿美さんを困らせたりしないようにしなければと思う。
 全身を布団に収めて、枕に頭を預けてから、ちょっと自分の身体の大きさを測ってみる。あの夜は友江ちゃんが一緒に寝てくれた。ゆらが眠るまで、向かい合って背中を抱いていてくれたのを思い出す。今はゆらも成長してしまったから、二人では布団が狭くなるし、そもそもこの年齢で添い寝は頼みづらい。ほんの少し喪失感を覚えながら、ゆらはしばらく子供の頃の記憶を辿っていた。





 三日後、寿美さんによる直接指導の第2回目。今日までにゆらは練習用の原型その1を完成させ、デザイン画と実物を比較しながらチェックを受けていた。

「紙に描かれた絵と、立体物はどうしても印象が違ってしまうんだけど、それを極力なくしていかなくちゃいけないの。」

 寿美さんは原型にペンで印を付け、直すべき箇所を細かく指摘していく。ゆらも専用に用意したノートにメモを取りながらその話に聞き入っている。一通りの準備が済んだところで新たな原型を取り出し、作業を始めた。前日までに大まかな形は削り出してあるので、すぐに寿美さんの指導を受けられる。
 今回は洗い出した反省点を踏まえながら作っていける分、効率が良かった。また、ゆら自身の技術が上がった事も進捗に貢献している。

「ゆらちゃん、この間より上手になったね。手を迷わせる時間が減ってる。」
「ありがとうございます。」
「最初はどうなる事かと思ったんだけどね。」
「ええっ……。」

 思わず手を止めて振り返ったゆらに、寿美さんは笑いかけた。

「冗談よ。ゆらちゃん、頑張ってるもん。とても良い生徒よ。」

 伸ばされた手が髪を撫でてくれる。嬉しかったけれど、本気半分、気遣い半分の言葉と受け取った方が良いだろう。

「でも、この分なら日曜には完成できますね。」
「うん、ちょっと余裕が出来るくらいかも。」

 カレンダーを見て、鋳造後に行う仕上げの日程も相談していると、お母さんがやって来た。寿美さんもゆらも途中でお腹が空いてしまうからと、普段夕食を食べている頃の時間をお茶休憩に設定してある。

「二人とも、はかどってる?」

 ゆらにお盆を持たせ、折り畳み式のローテーブルを出しながらお母さんが訊く。

「ええ、私はただ教えるだけですから、作業が進んでいるのは皆ゆらちゃんのおかげですけど。」
「そんな、そんな事ないですよ。」

 仲良しね、と言いながらお母さんはお茶を並べ始めたが、そこでインターホンの音が聞こえた。

「今、お父さんは手が離せないと思うから、出てくるわ。」
「うん。お茶の用意はあたしがしておくよ。」

 今日のお茶菓子は小さな栗饅頭だ。それを寿美さんと戴いていると、またドアがノックされた。きっとお母さんが戻ってきたのだと思い、ゆらが応対に出る。

「今晩は。お邪魔します。」
「あれ、友江ちゃん……」

 現れたのは予想外の人物だった。明らかに疑問形の顔をしているゆらを見て、友江ちゃんは自分が訪れた理由を説明し始める。
 先月の終わりにゆらのお父さんと、充佳おじさんが二人で遠出をした。八蓮の北東部にある重杷(ものは)海岸遊歩道に行ってきたらしい。たまに男二人だけでぶらつきたくなるのだそうだ。その時に撮った写真を先日お父さんが受け取りに行ったのだが、雑談に気を取られてしまい、肝心の写真を忘れて帰ったのだった。

「それで、私が届ける事になって、今日ここに寄ったのよ。」
「写真はお父さんに渡したの?」
「うん。悪いねって。気にしなくていいのに。」

 そう言いながら友江ちゃんは、ゆらの肩越しに寿美さんの方を覗いた。寿美さんもそれに応えて腰を浮かしかけたが、丁度そこにお母さんが現れ、二人とも中途半端な姿勢で止まってしまう。

「涼ちゃんの分もお茶を持ってきたんだけど、あら?」

 膝を立てて中腰になっている寿美さんの姿から、その場の状況を理解したらしく、お母さんは友江ちゃんにお盆を預けると三人に向かって言い残した。

「じゃあ、後は涼ちゃんにお任せするわ。ゆら、お姉ちゃん達に迷惑かけないようにね。」

 渡されたお茶を持ったまま、改めて友江ちゃんが自己紹介をする。

「初めまして。私、友江涼子です。ゆらちゃんとは親戚同士で、今は担任も受け持ってます。」
「私は平奥寺寿美と言います。先生の事は、ゆらちゃんから何度か伺っています。」

 二人はテーブルに向かい合って座り、それぞれお茶に口をつけた。今ゆらがやろうとしている事や、寿美さんがどのように協力しているか等、説明を受けながら友江ちゃんは並べられた道具を見ている。

「これも手作りなんですか?平奥寺さん。」
「あ、寿美って呼んで下さい。これも私が作ったんですよ。」

 寿美さんが右手を広げ、その薬指に嵌められた指輪を見やすい位置に差し出す。

「薔薇の花びら?」
「いえ、蓮です。」
「そうか、蓮ですね。」

 そんな会話を聞きながら、ゆらはやや緊張していた。会わせたいと思っていた二人が、いとも簡単に遭遇してしまった。流れに任せるとは決めたものの、予想外に早く訪れた機会に対して心の準備が出来ていない。それと、友江ちゃん達に共通点があるのを、この場で自分だけが知っているという事実。別に堅くなる必要はないのに、言い出しにくい話を胸に抱えているような感覚が少しあって、どうしても一歩引いた視点になってしまう。つまり、輪に入っていきづらいのだった。

「ゆらちゃん、友江先生の前では大人しいんですか?」
「いいえ、いつも賑やかですよ。ねぇ、これ半分食べない?」

 友江ちゃんが栗饅頭を半分に割り、ゆらの口元に持ってくる。

「はい、あーん。」
「あーん……。」

 言われるまま、口を開けて饅頭を入れて貰う。

「美味しい?」

 寿美さんも訊いてきた。二人のお姉ちゃんは当然ながら、ゆらのささやかな戸惑いに気付く由もない。

「私もやりたい。ゆらちゃん、あーんして。」

 寿美さんが真似をして、割った栗饅頭をゆらに食べさせようとする。

「あの、今あんまり食べたら晩ご飯が入らなくなっちゃいます。」
「うーん、じゃあ私に食べさせて。はい。」

 自ら渡した饅頭を、今度は口で受け取ろうとする寿美さん。何故そうなるのかという疑問は挟ませないつもりのようだ。

「寿美さん、あーんして下さい。……はい。」
「ん。うん。」

 美味しいと言いたいらしい。友江ちゃんが苦笑いしながら言った。

「寿美さん、ゆらちゃんが困ってました。」
「ゆらちゃん、反応が可愛いから、ついいじりたくなるんですよね。」
「あら、良かったじゃないゆらちゃん。寿美さんが可愛いって。」
「なんか、素直に喜べないです……。」

 ここで手放しに褒め言葉を受けてしまうと、更にいじられそうな気がした。だから少し否定しておく。しかし和やかに話す二人を見ていると、無用な事に気を揉んで、この雰囲気から外れそうになっていた自分がばからしく思えてくる。つかえていたお節介心も、彼女達と一緒でありたい気持ちが勝るにつれて急速に薄れていった。

「こういうのは専門の教室で教わるんですか?」
「そうですね。基礎はアクセサリー教室で習って、その後は独学で好きな物を作ってます。」

 お茶菓子もなくなり、三人共残りのお茶を飲みながら顔を突き合わせている。

「お姉ちゃんも興味あるの?やっぱり自分で作れたらいいよね。」
「うん、寿美さんの作ったのが可愛くて、私もやってみたくなっちゃった。」

 それを聞いて、ゆらと寿美さんは目を合わせた。

「じゃあ、先生も一緒にやりませんか?」
「私も?ゆらちゃんと二人で?」
「ううん。実は……」

 これからひなちゃんも加え、皆でアクセサリー部を始める予定なのだと聞かせる。

「思い出作りにもなるし、お姉ちゃんが入ってくれたらもっと楽しそうじゃない?」
「そういう事なら、参加したいわ。でも寿美さんの負担が増えませんか?」
「私は大歓迎ですよ。友江先生には部活の顧問になって欲しいですね。」
「未経験者で顧問は難しいですよ。」

 顔の前で手を振って、顧問への就任を辞退する友江ちゃん。

「あ、そうか。じゃあ新入部員という事で。」
「全員新入部員だと思います……。」

 ゆらも寿美さんの発言に訂正を入れた。

「あ、そうか。」

 全く同じトーンで同じ言葉を繰り返した寿美さんに、三人の会話が止まる。誰もが喋り出しそうで喋り出さない、その絶妙な間を受けて次の瞬間、弾けたように皆の笑い声が響いた。

「何か、私が会話止めたみたいじゃないですか!」

 大笑いしたまま憤慨する寿美さんに対して、ゆらも友江ちゃんも、え、違うの?という顔を返す。

「私、悪くないですもんっ。」
「いや、誰も悪いだなんて……」

 なだめながらもまだ笑う友江ちゃんに、ゆらもつられてしまう。結局、皆で少し黙って笑いの火種が収まるのを待った。

「えー、じゃあ顧問は私で、先生には年長者としてフォローをお願いします。」

 目元に滲んだ涙を拭いながら、寿美さんが友江ちゃんに依頼する。

「分かりました。是非お手伝いさせて下さい。」

 メンバーが一人増え、会話も盛り上がったところで、ゆらは一つ提案を思い付いた。

「友江ちゃんが入部したのを、まだひなちゃんには内緒にしておかない?」
「サプライズ?面白そうね。でもそれをするなら、ちゃんと計画を立てなくちゃ。先生は賛成してくれます?」
「ええ。」

 アクセサリー部が正式に活動を始める日、例えば寿美さんと友江ちゃんが先に集合し、ゆら達が来るのを迎えるか、それとも他のメンバーが集まった後で、友江ちゃんが現れるのか。それに、ひなちゃんだけに秘密で相談を進めていた事に対して、彼女が疎外感を感じないような気配りも必要だ。

「今日はゆらちゃんの作業を進めないといけないから、この話は日曜に私の家でしませんか?」
「寿美さんの家で?」
「クェニ・グラウは日曜に二人で集まって、完成させる予定なんですよ。その時先生にも来て貰えれば、サプライズの相談もまとめて出来ます。」
「私がお邪魔しちゃっても良いなら……。仕上げは大事な作業だと思うけど、ゆらちゃんは構わない?」
「あたしは平気だよ。」
「じゃあ、私も自分の仕事を持って行こうかな。寿美さん、教科書なんかを広げられる場所があればお借りしたいんですけど。」
「大丈夫ですよ。スペースはありますから。」

 後は集合時刻や寿美さんの住むアパートまでの道順を確認し、そこで友江ちゃんは帰っていった。

「ちょっと時間が圧しちゃったけど、ペースは上げなくていいからね。余裕はあるから、今まで通りで。」
「はい。」

 後半に入ると、寿美さんはやはりスケッチブックに注意点などを書き込み始めた。ただ、初回に比べるとかなり密度が減っている。

「原型その2は、大分良い物が出来そうね。3つめはもう、私が教える事は殆どないと思う。」
「でも、寿美さんが見ててくれないと不安です。」
「うん。ずっと側にはついてるから。その点は心配ないよ。」

 手を動かすゆらの横で、寿美さんは新たに何か描こうとしていた。ちょっと盗み見てみると、友江ちゃんの似顔絵らしい。

「先生、面倒見が良さそうだね。大人っぽくて。」

 ゆらにとって彼女はずっと年上だし、大人に見えるのは当然だと思っていたが、同年代の人にも、やはり落ち着いた印象を与えるようだ。

「お姉ちゃんというより、むしろお母さんって感じですよね。」
「小さい頃から、ゆらちゃんと一緒にいるんだもんね。」
「はい、もう生まれた時から。」

 私なんて全然落ち着きがなくて、と寿美さんは言う。友江ちゃんに比べたらそうかも知れないけれど、でも面倒見の良さは負けず劣らずだとゆらは思った。
 この夜は原型その2の完成まで若干至らず、ゆらは土曜の午後に作業を持ち越して終わらせた。更に原型その3の基礎部分も作っておく。ここまでで一旦休憩にしようと思い、削りかすを片付けていると電話の音が聞こえてきた。お母さんは丁度買い物に出ていて居ないので、家にはゆらだけだ。部屋のドアを開け、電話の所まで小走りで行って受話器を取る。

「はい、近知です。」
『もしもし、私、彼野陽菜香です。』
「ひなちゃん?」
『ゆら?おばさんかと思っちゃった。』

 電話の主はひなちゃんだった。自分が学校に忘れ物をして、ひなちゃんが届けてくれる事もあったが、今日は一緒に校舎を出たから違うだろう。

「どうかしたの?」
『うん、この間の日曜日、私だけ資料館に行くのをやめちゃったし、ゆらにノートまで作ってもらったから、お礼に明日お茶をご馳走しようと思って。』
「ひなちゃん家で?」
『駄目かな。』
「実は明日、出かけなくちゃいけないんだ。どうしよう……。」
『じゃあ月曜はどう?学校も5時間目で終わるから、その後一緒にうちまで行って、ね。』
「そうだね、月曜にしよ。何か用意してほしい物はある?」
『それはないけど、花壇の植え替えもゆらと二人でやりたいと思ってて。手伝ってくれるなら、それも予定を延ばすけど。』
「やる。次は何を植えるの?」
『パンジー。コスモスはもう取ってあるから、ちょっと土を仕込んで、苗を植えるだけ。』
「じゃあ、それをしてからお茶だね。」
『うん。細かいことは学校で話そ。』
「うん、それじゃあね、ひなちゃん。」
『じゃあね。』

 電話を終えてから、部屋に戻って再びテーブルに向かう。まだ原型の仕上げとなる、磨きの工程を練習しなくてはならなかった。
 寿美さんのメモに従って紙ヤスリを選び、出来を見ながら処理を進めていく。
 あと一週間でひなちゃんとの関係が変わる。恋人になれば二人の距離は縮まり、もしかしたらお互いに嫌な部分を見てしまう事だってあるかも知れない。それでも今この時を振り返って、後悔だけはしたくないと思う。その為にはもっと、ゆらの方からひなちゃんに寄り添う努力が必要になる。何となく、彼女がゆらに合わせてくれる場面の方がこれまで多かった気がするので、まずはそこを直す。それに、長い付き合いだからといって、相手を理解したつもりになるのも良くなさそうだ。
 気付くと自分の手が止まっている。いつの間にか、ひなちゃんの事で頭が一杯になっていた。鏡を見ると、少し緩んだ顔が映っている。ゆらはそれを敢えて直そうとしないまま、もう一度机に向かった。





 明くる日の午前、最初の待ち合わせ場所である早津駅に着くと、友江ちゃんが先に来ていた。バスターミナルの近くにあるベンチに腰掛け、膝に書類鞄を乗せている。

「友江ちゃん、おはよう。待たせちゃった?」
「おはよう。私もついさっき来たところ。それじゃ行こうか、寿美さん家。」

 そう言って立ち上がる彼女を眺める。黒いスカートに同色のショートブーツ、上は白いセーターに、グレーのロングカーディガン。

「今日は白黒だね。」
「そう、鞄に合わせたら、こういう感じかなって。」
「そのブーツ、見たことないかも。」

 下ろし立てではないけれど、買って間もないらしい。その初めて聞く足音に耳を傾けながら、バス乗り場へ向かった。寿美さんの家は早津の南側にあり、近知家は反対の北側、駅がその間となる中央部西端に位置している。友江ちゃんの家も駅から東に向かった場所にあるので、まずここで待ち合わせをして、一緒に移動しようとなった。

「車で行けたら良かったね。」
「今日、停められる場所があるか確認するから。もしあれば、次からは車で行けるわ。」

 二人掛けの座席に座り、ゆらも友江ちゃんと同じようにアタッシュケースを膝に置いた。本来は寿美さんの持ち物だから、小学生の体格にはやや大きい。

「ゆらちゃん、鞄取り替えてあげるよ。」
「う、うん。」

 友江ちゃんが自分の鞄を持ち上げ、そこへゆらがアタッシュケースを乗せる。そのまま空いた手で鞄を受け取って交換した。重さは大して変わらないが、こちらの方が納まりの良い大きさだ。
 この時間帯だと、駅に向かう人は多くても、逆のバスに乗る人は少ない。次の待ち合わせ場所に決めた停留所でも待ち客はまばらで、寿美さんの姿はすぐに確認出来た。

「ゆらちゃん、おはよう。先生もおはようございます。」

 軽く手を振り、乗降口を出た二人に歩み寄る寿美さん。ジーンズにリングブーツ、オリーブ色のミリタリー風なシャツジャケットを身に付けている。

「先生、鞄持ちますよ。」
「じゃあ、お願いします。ゆらちゃんは私に鞄をくれる?」
「あたしが持っててあげるよ。」
「そういう訳にはいかないわよ。」
「ゆらちゃん、こういう時は先生の言う通りだよ。」
「そうですか……。」
「そうよ。」

 寿美さんは右手に、友江ちゃんは左手に鞄を持ち、真ん中に手ぶらのゆらを挟んで歩く。この辺りはまだ田舎道の面影が残っており、何も建っていない土地も点在している。早津の中では便利な内に入らない場所だが、駅前が拓けてくるに従って徐々に人口も増えてきたそうだ。と、寿美さんが説明してくれた。

「乗り物を使えば、駅まで近いですからね。」
「寿美さんはなにで通勤してるんですか?」
「自転車か、雨の日はバスです。免許はないもんで。」

 並んで歩く三人の視界に、三階建てのアパートが見えてきた。

「あそこです、私が住んでるの。」

 寿美さんが指を指す。友江ちゃんが口を開いた。

「駐車場はあります?私、それを聞き忘れちゃって。」
「ありますよ。ここは使ってますよって所には、例えば『301平奥寺』みたいに名札が立ってますから、何もない場所に停めて下さい。」
「それじゃ、いずれ使わせて貰います。」

 階段を昇り、その301号室に案内された。玄関を入って正面に見えるのは壁で、右手がバスとトイレ、左手がキッチンへ通じている。
 まず手洗い等を済ませ、各自スリッパを履いてから中に入った。キッチンを通って右を向いたところが部屋になり、アコーディオン型のカーテンによって二部屋に区切られている。

「出窓だ。いいな。」
「角部屋だけにあるんだよ。それも気に入ったから借りたんだけど、家賃は少し高いみたい。」

 寿美さんが両方の部屋に一つずつ出窓があるのを見せてくれた。奥の部屋では、丁度日光が当たる場所にベッドが設置されている。昼寝をしたら気持ち良さそうだ。

「カーテンを開ければ、広い一部屋として使えるんですね。」
「ええ。私ははっきり仕切っちゃってますけど。」

 その言葉通り、寿美さんの場合は手前の部屋を板張りのままにして、奥にはカーペットを敷き、明確に二部屋を分けているようだ。

「私は板部屋と絨毯部屋って呼んでるんですけど、今日は板の方で作業しませんか?」

 どうしてそう決めたのだろうとゆらが思っていると、寿美さんは友江ちゃんに言った。

「スカートだと胡座で座ったりは出来ないでしょうから、椅子が良いですよね?」

 絨毯部屋は低いテーブルのみだが、板部屋には足の高いテーブルと、椅子がセットで置かれていた。

「はい、その方が助かります。何かごめんなさい、もっと楽な格好で来れば良かったかも。」
「そんな事ないですよ。ゆらちゃん、先生綺麗だよね?」
「はい。友江ちゃん、今日はこれで良かったと思うよ。」

 恐縮しつつ照れている友江ちゃんだったが、寿美さんの細かな気遣いが嬉しかったようで、表情に無防備さが感じられる。そんな二人のやり取りは、ゆらにも心地良さを与えてくれた。

「じゃあ、始めちゃいましょう。お昼までにある程度先が見えるところまで進めれば、後が楽です。」
「そうですね。ゆらちゃん、用意しよ。」
「うん。」

 長方形のテーブルに対し、短辺を挟んでゆらと友江ちゃんが向かい合う。こうすればお互いの作業域がぶつからない。寿美さんは小さなクッションを持ってきて、それぞれの椅子に敷いた後、長辺側に座った。
 携帯用のジュエリーケースから、原型その2を取り出して寿美さんに渡すゆら。デザイン画と比較しながら、角度を変えつつチェックを受ける。

「うーん、良い出来だね。3つめの方は?」
「これです。」
「……うん。ゆらちゃん、自分で直したいと思ってる箇所はあるかな?」
「いくつかあります。」
「今日はゆらちゃんのしたいように作っていけば、きっと良い物が出来るよ。慣れたと思って気を緩めずにね。」
「はい。」

 その間に友江ちゃんの準備も終わったようだ。寿美さんは体の向きを変えて、友江ちゃんの、つまり諒園小学校で使われている教科書などに見入る。

「先生は今日、どんな事をするんですか?」
「私は今週中に授業でやる範囲の予習です。」
「自分が把握していない事を、人には教えられないですもんね。」
「ええ、もう一度子供に戻って勉強し直してます。」

 ちょっと見たいです、と国語の教科書を手に取ってめくる寿美さんに、友江ちゃんも身を乗り出してそのページを覗き込む。

「あ、これ私も習った。『はるちゃん』。ゆらちゃんももう教わった?」
「はい、1学期に。」
「そうかー、これ、大人になってからも時々思い出すんだよね。」

 この話の主人公はひろみという中学生の女の子で、はるちゃんはその親友の名前である。彼女は明るく可愛い、クラスの人気者だったが、ある時交通事故に遭い、足に後遺症が残ってしまう。その事を遠因として、クラスメイト達ははるちゃんに対し距離を置くようになった。ひろみだけは今までと変わらず、親友として接していたものの、それが元で二人は大きな喧嘩をする。はるちゃんはひろみの友情を重荷と感じ、思い切り突っぱねてしまおうとしたのだった。
 しばらく会話もしない日が続いてから、ひろみはその間に考えた自分の気持ちを手紙にしたためる。それをはるちゃんの下駄箱に入れてからまた数日、やはりひろみの下駄箱に返信が入れられていて、それを手に取ったところへ正に本人が現れた。二人の仲は元通りになり、他の友達とも再び上手くいき始めたところで話は終わっている。

「ゆらちゃんは多分、ひろみの気持ちでこれを読んだと思うんだけど……。」

 寿美さんが問い掛ける。

「そうですね、ひろみになった気持ちで。」
「私もそうかな。」

 友江ちゃんもゆらと同じようだ。

「私は、はるちゃんに凄く感情移入しちゃったんですよ。」

 寿美さんははるちゃん側らしい。

「もし自分に何かあったとして、周りの人の態度が変わってしまったら、とか、それ以前に自分自身が変わらずにいられるかとか。ちょっと悩みましたね。」
「確か、事故にあってからはるちゃんは性格が少し変わって、それでクラスの子も付き合いにくくなったって。」

 ゆらも細かい内容を思い出してきた。

「そう書かれてたよね。」
「寿美さんはそういう部分から、はるちゃんの気持ちに寄っていったんですね。」
「ええ。」

 友江ちゃんの質問に頷く寿美さん。

「これ、実は教科書向けに内容が省略されてるんですよ。」
「え、そうなんですか?」

 本来の『はるちゃん』はもっと長く、特に心理描写が繊細になっているのだと、友江ちゃんが説明してくれた。はるちゃんには自分は人気がある、周囲に構われて然るべきだと思っている節があり、同級生が離れていったのは、その傲慢な部分が露出するようになったせいだった。今まで通りに接してくれるひろみに対して、ひねた受け答えばかりしてしまう自分に気付き、彼女は初めてそれを自覚する。

「今の自分はすごく嫌な奴で、ひろみに優しくして貰う資格なんかない、だからもう放っておいて欲しいって怒るんですよ。」
「そういういきさつがあるんですね。でもひろみははるちゃんの事を諦めずに、手紙を書く、と。」
「教科書の方だと、手紙の内容はごく簡単に触れられてるだけなんですけど……」
「原作では具体的に書かれてるんですね?」
「ええ。」

 実はひろみの方も、人気者のはるちゃんに対してどこかで嫉妬心を抱いていた。それに気付いたのはやはり事故後の変化を受けてだったが、彼女はそこで一度自分を見つめ直す。はるちゃんを妬む気持ちがあったとしても、大事にしたい、親友でいたいという気持ちにも間違いはないのだと。悪い感情に脇目を取られる事があっても、体の向きまで変えてしまわなければ、元々目指していた方向は見失わない。その為にもはるちゃんが側で、絶えず自分を見ていて欲しい。
 まだ取り返しがつくと、そう思ってもらえるならこの手紙に返事を下さい。ひろみはそう書いていた。

「ひろみは自分に嫉妬心があった事を告白して、そういう良くない自分を克服する為に、はるちゃんを求めるんですね。」

 寿美さんの後を受けて、友江ちゃんも小説の筋書きをなぞる。

「と同時に、はるちゃんに手を差し伸べてもいますよね。はるちゃんにも同じように、傲慢な自分というのがいるわけだから。二人で乗り越えていこうって。」
「んー、原作を読んでみたいです。先生、そこまで解説出来るって事は……」
「持ってますよ、『はるちゃん』の入ってる単行本。」
「貸して下さい。是非。」

 友江ちゃんは笑顔で頷く。

「じゃあ、今度寿美さんと会う予定を立てないと。」
「その前に、まず今日やる事ですね。ゆらちゃん、ちょっと脱線しちゃってごめんね。」
「いえ、あたしも面白かったです、今の話。」

 脱線とは言うものの、これで気持ちに助走がついたと思う。そのペースのまま三人は作業に入り、正午前には予定していた範囲を終える事が出来た。ゆらの方は最終的な成型と磨きを残すだけ、友江ちゃんも時間のかかる部分を先に済ませ、後は早く終わるそうだ。

「それじゃ、ここでお昼ご飯にしようと思います。」

 寿美さんが宣言して立ち上がる。事前の打ち合わせだと、アパートから歩いて行ける距離にパン屋があるので、そこで食事を買ってこようという事になっていた。

「本当は私が作ってご馳走出来たら良かったんですけど。」

 歩道を歩きながら寿美さんが言う。料理は全然駄目で、と。

「私も作れないですよ。ちょっとまずいかなとは思ってるんですけど……。」
「先生もですか?ゆらちゃんは?」
「あたしもです。ついこの間、お母さんを手伝うようになったばっかりで。」

 腕組みをして、何か考えていた寿美さんだったが、腕をほどいて指を立てるとゆら達に向き直った。若干横歩きになっている。

「確か、陽菜香ちゃんは料理出来るんだよね、ゆらちゃん。」
「ひなちゃんは作れますね。美味しいです。」
「じゃあ、アクセサリー部のついでに料理部もやろうよ。陽菜香ちゃんを先生にして。」
「それ良いですね。私もきっかけが欲しかったんで。」

 友江ちゃんも賛成して、料理部の発足が決まった。但し、両方同時に始めてもどっち付かずになるから、アクセサリー部をある程度進めた後で、という条件が添えられた。

「その間に、それぞれ基礎を練習しておいた方が良いんじゃない?彼野さんの負担にならないよう。」
「そうですねぇ……。そうだなぁ……。」

 自分で言い出したのに寿美さんは不安そうだ。と、目的地が見えてきたのでゆらは話題を変えてあげた。

「あれじゃないですか?」
「あ、そうそう。ツー・ツリーズっていうお店なの。」

 二本の木をデザインしたエンブレムに「TWO TREES」という名前があしらわれ、店舗の上部を飾っている。近くに行って中を覗いてみると、なかなか混んでいるようだ。

「人気あるんですね。期待しちゃって良いですか?」

 友江ちゃんが言う。

「勿論です。で、三人で入ります?それとも私が代表して行きますか?」
「皆で行ったら迷惑ですよね。寿美さんに買い物をお願いします。」
「じゃあ、買って欲しいパンがあればリクエストして下さい。ゆらちゃんは?」

 お店の外からでも、ある程度並んでいるパンは確認出来るから、ガラス越しに皆で食べたい物を選ぶ。

「あたしはあんドーナツです。」
「先生は?」
「エクレアですね。寿美さんは?」
「私は、ピロシキで。後は適当に選んできます。飲み物は、うちに紅茶かコーヒーがありますから。」

 寿美さんが出てくるのを待つ間、店の看板を見上げてみる。友江ちゃんもゆらに倣ったが、前髪をかき上げるタイミングが二人でぴったり重なって、ちょっと笑った。

「ツー・ツリーズ……オーナーさんの名前かな。」

 友江ちゃんが店名の由来を推理する。

「名前?」
「うん、二木(ふたつぎ)さん。」

 そう言って空中に字を書いてみせる指先を追っていると、店内の寿美さんと目が合った。軽く手を振り合う。殆ど迷わずにパンを選んでいるようだから、買い物は間もなく終わりそうだ。

「お待たせしました。」

 寿美さんが戻ってきた。手に提げた袋から良い香りがする。

「寿美さん、私もお勘定払いますから。」
「そんな、いいですよ。って言っても譲らなそうですね、先生。」

 二人が割り勘のやり取りをしている間、ゆらが袋を持っていてあげた。中に一つだけ大きな包みが入っている。

「これ、食パンですか?」

 歩き出してから寿美さんに尋ねると、

「そう。シードブレッドっていうんだよ。切って皆で食べようと思って。」

 帰宅してから実際に切られた状態のブレッドを覗く。いくつか種が見えた。

「ヒマワリと、亜麻と、それにレーズンね。」

 寿美さんが説明したものに加え、パンの天井部分にはスライスアーモンドがまぶしてある。

「ゆらちゃん、絨毯部屋にお皿を運んでくれる?私は飲み物を用意するから。」
「はい。」
「先生はコーヒーですか?」
「ええ。ゆらちゃんはどうするの?」
「あたしもお姉ちゃんと同じで。」
「じゃあ、皆コーヒーですね。インスタントですけど。」

 お皿やウェットティッシュを運んでいる間にコーヒーもやって来た。座布団に座り、手を合わせてから皆それぞれパンに手を伸ばす。が、結局三人共シードブレッドを取っていた。ゆらと友江ちゃんの場合は、他のパンを口に入れる前の、新(さら)の舌でこれを味わおうという考えから。寿美さんは単に好きだからだと思われる。
 では、と一口頬張って、それを飲み込んだところで感想を求められた。

「ゆらちゃん、どう?」
「ええと、種の歯応えがよくて、こう、甘すぎない甘さが……」
「ややこしいね……。普通に言って、どう?」
「美味しいです。」
「そう、良かったわ。」

 ちょっと姿勢を崩して笑う寿美さんの、背後に洋服箪笥がある。

「民族衣装なんかは家に置いてるんですか?」

 友江ちゃんの質問に、寿美さんは体を反転させて箪笥の方を向いた。引き出しの一つを開けて、中からヤンペを取り出し、自分の膝に広げて見せてくれる。

「うちにあるのはこれと、場所を取らないアクセサリーの類ですね。後は伝える会の作業場にあります。作業場って言っても、普通のアパートを借りてるだけですけど。」
「そう言えば寿美さん、自分でヤンペを持ってるんだから、てっきり料理するんだと思ってました。」

 聞きそびれていた疑問をゆらが口にすると、寿美さんは申し訳なさそうに頭をかいた。

「いやぁ、ヤンペは自分でアクセサリーを作ったり、部屋を掃除する時に着けるんだよね。台所で使うんじゃなくて……。」
「ちょっと違う話になりますけど、私もエプロン持ってるのに使った事がないですね。」

 友江ちゃんも同調する。確かにこの人のエプロン姿を見た憶えはない。

「これから頑張りましょう?あたしもですけど……」
「そうだね。どこかで始めなくちゃね。」

 寿美さんがヤンペを畳み直し、もう一度箪笥にしまう。その上に写真立てがあって、友達らしき人達が彼女と一緒に写っている。

「それ、どこで撮ったんですか?」
「あ、見てみる?」

 写真に手が伸ばされ、テーブルの見えやすい位置に置かれた。

「これは、高校の卒業旅行に行った時、撮ったの。」
「二十二鐘関(にじゅうにしょうかん)の入り口みたいですね。」
「先生も行った事あります?」
「いえ、教科書で見てるだけです。」

 二十二鐘関は摩掛山(まがけやま)という山の全体に点在する祠の総称で、「関東」と「関西」を分けた語源だとされている。昔、その地域で疫病が流行した際、近隣から集められた22人の神官達が山に入り、祈祷を行った。摩掛山は天に通じる場所だとの言い伝えがあったからだ。
 彼らは五日間寝食を断って祈り続け、後に疫病は去った。その時に呪具として用いられたのが魂呂(こんろ)と呼ばれる鐘で、今後同じ事が起きないようにと、それらを祭ったのが二十二鐘関となる。

「寿美さん、歴史好きなんですね。」
「他の教科よりは好きでした。でも旅行のお目当ては温泉で、二十二鐘関はついでだったんですよ。」

 ゆらは写真の中と、目の前の寿美さんを見比べてみたが、殆ど雰囲気に違いがない。

「寿美さん、今と全然変わらないですね。友江ちゃんは大分変わったけど。」
「そうなの?昔の先生はどうだったのかな。」
「もっと可愛い感じでしたよ。今度アルバム見せてあげます。」
「待って。私のいない所で見たら駄目よ。」
「えー……。」

 二人で声が重なった。

「でも、ここに写ってる人達とは今も仲がいいんですか?」

 コーヒーカップに手を伸ばしながらゆらが訊き、寿美さんは頷いてみせる。

「そうね。住所が離れちゃった子もいるけど、連絡は取り合ってるわ。全員じゃなくても、会える人同士でたまに会ってるし。」
「やっぱり、ずっと一緒ってわけにはいかないですよね?」
「まあね。大人になれば進路も分かれるから。」
「ゆらちゃん、彼野さんの事考えてる?」

 友江ちゃんが一足先にゆらの言いたい事を口にした。

「あたし、ひなちゃんとはもっと沢山一緒にいられると思ってたんです。引っ越しなんて想像してなくて。」

 寿美さんとその友達のように、成人して自然な流れで別れていくのなら、それは大きな障害ではない。大人は交通機関を使って遠い所でも会いに行ける。でもゆらとひなちゃんはまだ子供で、別れた距離が遠く感じられなくなるまでには、何年も時間が必要だ。というのを、ゆらは自分なりの言葉で二人に説明した。

「そうか、簡単に会いに行ったり出来ないもんね。」

 気を落とした笑顔の寿美さん。

「でも、彼野さんが引っ越すのは卒業後だから……」

 友江ちゃんが言う。

「うん、まだ時間はあるから。今のうちにあたしがどのくらいひなちゃんを大事に思ってるのか、分かるように伝えなくちゃ駄目だと思って。」
「クェニ・グラウはその一つなんだね。」

 一度板部屋の方を見やり、顔を戻してゆらを見つめ、寿美さんは問い掛けた。

「先生の事も大事に思ってる?」
「え、はい。」

 ちょっと唐突な質問だったが、否定する理由は全く無いので肯定する。

「じゃあ、先生にもゆらちゃんの気持ちを伝えてあげて。練習ね。」
「あの、寿美さん……。」

 ゆらも戸惑ったが、友江ちゃんも同じような感じでゆらを見ている。ここは話を振られたゆらが何か行動を起こすべきなのだが、咄嗟に気の利いた事はなかなか思い浮かばない。

「うーん、じゃあお姉ちゃん、あーんして。」
「あーん……。」

 取りあえず、前回友江ちゃんにして貰ったのと同じように、パンを一口食べさせてあげた。その後、二人揃って寿美さんの顔を見る。

「愛情表現って言っても、結構難しいよね。」

 寿美さんが微笑ましそうな表情で言う。

「そうですね、こんなので良かった?お姉ちゃん……。」
「うん。今出来る事だったら、このくらいが丁度良いと思うわ。」
「そうなんですよ。そんなに日頃から大仰なスキンシップとか、出来ないよね?だからこういう、ちょっとしたやり取りで良いの。それを積み重ねてあげるのが一番じゃないかな。」
「そうかも……。寿美さん、ありがとうございます。」
「ううん。ゆらちゃん、ちょっと気負ってるように見えたから。それと私のいたずら心です。」
「寿美さん、それを言わなければ、良いアドバイスで終わったのに……。」

 友江ちゃんが咎めたけれど、目は怒っていなかった。わざとらしいしたり顔の寿美さんにつられて、ゆらも笑ってしまう。
 昼食後、まだ日が高いうちに原型は完成し、寿美さんにそれを預けて二人は帰宅した。サプライズの方は、まず他のメンバーが集まった後、お昼時に友江ちゃんが差し入れを持って現れる、という予定になっている。しかし食事を四人分用意したらばれてしまうので、友江ちゃんだけは別に昼食を済ませ、持ってくるのはおやつだ。

「彼野さん、何て言うかしら。」
「ひなちゃんは、寿美さんとお姉ちゃんが知り合ったのを知らないんだよね。」
「相当驚くわね、きっと。」

 バスから降り、別れ際のターミナルで二人は笑み合った。大きな目を一番大きくして、ゆらを見る彼女の姿が目に浮かぶ。家に着くまでの間、頬が緩みそうになるのを堪え続けてしまった。
 入浴後、今度はラッピングのアイディアを出す為にノートを広げながら、昼間の会話を思い返す。寿美さんはともかく、ゆらは高校時代の友江ちゃんを知っている。だから一人でアルバムを見る分には全く問題ない。という訳で早速取りに行ってきた。
 ゆらが寿美さんに写真を見せると言った時の、恥ずかしそうな友江ちゃんはちょっと可愛かった。それを本人に言ったら怒られそうだけれど。今は成寧(せいねい)2年だから、彼女が高校を卒業して七年以上が過ぎている。それだけの時間が経てば、自分も変わっているだろうか。もしくは寿美さんのように、良い意味で変わらずにいるか。どうなるにせよ、ゆらの場合は努力をしなければ、目指した自分に辿り着けないだろう。
 その点、ひなちゃんは自然と美人になっていく筈だ。七年後、つまり高校生の彼女を想像してみる。手早く印象を変えられるのはやはり髪型だから、頭の中で長さや纏め方をいくつも想像した。が、ショートは駄目かも知れない。ひなちゃんの髪は柔らかい猫っ毛なので、ある程度長さがないとアレンジが利かなくなる。
 と、またもやひなちゃんの事ばかり考えている自分に気付く。まだ告白を終える前から、自分だけこんな状態になっていてはいけない。そう思い直し、ゆらはきちんと作業を始めた。





「ゆら、私の反対側で土を入れていって。で、砂を均等に混ぜながら。」

 目の前のひなちゃんに指示を受ける。髪を縛り、エプロンにアームカバーに軍手と、園芸用の一式を身に着けた状態だ。花壇は一畳ほどの広さで、二人で半分ずつ分担して土作りをしていく。と言っても、ひなちゃんはまだ簡単に育てられる花しか植えないから、基本の土はブレンド済みの培養土をそのまま使っていた。ただ、早津は雨が強く降りがちな為、排水性を高めるのに山砂を混ぜた方が良い。

「割合はどのくらい?」
「山砂が2割半くらいで。」

 ある程度土台が出来たら、今度はパンジーの苗を設置する。ポットから出し、根をほぐしてあげてから一定の間隔で植えていった。

「ひなちゃん、中学に上がったら何か部活に入る?園芸部とか、料理部とか。」
「活動が活発なら入りたいけど、あんまり人気なさそうじゃない?」
「確かに、『あそこの園芸部は凄い!』みたいな話は聞かないね。」
「ゆらは?水泳?」
「寿美さんがやってたから?」
「そう。あんな風になれるかも知れないよ。」
「むー、そっかぁ……。」

 自分を美化して想像するゆらの仕草に笑いながら、ひなちゃんは一旦軍手を外し、ハンカチを取り出した。前髪を左手で上げて、右手で額の汗を拭く。

「あ、そのままおでこを出しててみて。」
「こう?」
「うん。これも可愛いね。」
「そういえば、おでこはほとんど出した事ないかも。」
「実はね、ひなちゃんに合う髪型を色々考えててさ……」

 今度、心ゆくまで髪をいじらせて欲しいと頼んだら、代わりにゆらのも触らせてと言われた。ひなちゃんに比べるといじりがいが無くて申し訳ないが、せめてその日まで髪は切らずにおこうかなと思う。

「もう一個で植え終わるね。」

 ひなちゃんが苗を置き、後は二人で土を作って被せていった。それが済んだら、今度は泥の跳ね返りを防ぐ為にウッドチップを敷いて、花壇の景観が完成となる。

「出来たよ、ひなちゃん。なかなか綺麗じゃない?」
「うん。ちょっとお母さんを呼んでくるね。」

 そう言われ、呼ばれてきたおばさんはコンパクトカメラを持っていた。訊いてみると、引っ越しをするまでの間、早津での記録を多く残そうと決めたらしい。

「特にひなは沢山撮ってあげたいのよ。二人とも、花壇の前に立ってね。」
「はい。じゃあひなちゃん、軍手外して、肩を組もうよ。」
「いいよ。このへん?」
「もっと寄って……」

 一緒にくっついた状態で何枚か写真を撮ってもらった。肩を組んだまま、空いた手でひなちゃんが髪を直してくれているところも。

「良い絵が撮れたわ。これはアルバムに入れるの決定ね。」
「ちょっと、照れます。」
「エプロンとか片付けたら、食堂にいらっしゃい。お茶の用意をしましょう。」

 家の中に戻り、エプロンや軍手を脱衣所で脱いでから食堂に向かう。多分、ひな先生とゆら助手がクッキーを作り、おばさんはそれを見守る係、そして焼き上がりを待ってからインスタントの紅茶を入れる。という流れを想像していたのだが、食堂では既にお茶菓子の準備が整っていた。

「あれ、クッキーありますね。」
「そう、今日はお店で買った物なのよ。その代わり、ね、ひな。」
「うん。私が本格的に紅茶をいれます。」
「お茶の方に挑戦なんだ。初めて?」
「初めてだよ。美味しくなくても恨まないでね。」
「恨まないから、またいれてよ。」

 軽口を言いつつ、今度は調理用のエプロンを着けて台所に立つ。コンロを見ると、もう弱火で鍋にお湯が沸かされていた。

「もう、お湯沸かしてあるんだ。」
「ううん。これはポットとカップを温めておくためのお湯で、茶葉を煮出すのはこれから沸かすの。」

 と言ってひなちゃんはやかんを出してきた。

「同じお湯じゃ駄目なの?」
「沸騰寸前で、空気を沢山含んでるお湯がいいみたい。お母さん、ノート取って。」
「はい、どうぞ。」
「いれ方のコツを、前もって書いておいたから。ゆらも読んでみて。」

 小さいノートを渡され、中を開いてみると、ひなちゃんの字で色々な事が書かれていた。お湯の沸かし方から、茶葉の種類、それに合わせた蒸らしの時間なども。

「すごいね。おばさんに教わったの?」
「私は大まかなやり方だけ。専門的な部分は、ひなが自分で調べてきたのよ。」
「うん。図書館に行って、紅茶の本を書き写したの。」

 ゆらに説明しながら、ひなちゃんは調理台にカップとポットを並べていく。それから鍋を取って、ゆっくりお湯を注ぎ始めた。おばさんはずっと座らずに、立って距離を保ちながらその様子を見てくれている。火を使う作業の時はいつもそうだ。

「元々はお祖母ちゃんの習慣なんだけど。知りたいレシピなんかがあると、いつも調べに行ってたわ。」
「あたしも真似します。これから料理も覚えなくちゃいけないから。」

 温め用のお湯を注いでから数分、煮出し用のお湯が沸きそうになったので、ひなちゃんがポットを空ける。その間にゆらが茶葉の缶を出しておいた。彼野家で常備されている、「PANTOMIME HORSE」というブランドの製品だ。

「じゃあ、茶葉を入れて……」

 ひなちゃんはティースプーンで四杯分の葉を入れ、お湯が煮立ちそうになるのを待ってからやかんを引き上げた。

「高いところから注ぐんだって。空気が入るように。」
「ひな、気を付けるのよ。」

 ポットはガラス製で、お茶を飲む人数に合わせた目盛りもついている。だからお湯の量を間違える事はない。

「お茶っ葉、動いてるね。」
「こうならないと失敗みたい。ゆら、コジーを取って。」
「これだね。」

 保温用のコジーをポットに被せてから、蒸らしの時間を計る。

「あ、キッチンタイマー、出してなかった。」
「冷蔵庫にくっついてるわよ。」
「ありがと。」

 ひなちゃんはタイマーを3分半にセットしたようだ。待っている間に余分なお湯をお湯差しに移し、今片付けられる物をしまう。ゆらもコースターやお盆を用意し、紅茶をすぐ運べるようにしておいた。
 丁度カップのお湯を捨てている時にアラームが鳴って、ひなちゃんが茶こしを手に取る。

「どう……?」
「どきどきするね。」

 顔を見合わせて、二人でカップに注がれる紅茶を凝視した。見てどうなるものでもないが、良い香りが鼻をくすぐる。

「早く飲みたい。」
「じゃあ、テーブルで待ってて。」

 おばさんとゆらは先に食卓に行き、ひなちゃんが紅茶を持ってくるのを待った。

「お待たせ。お母さんもゆらも、座って?」
「そうね。ゆらちゃん、どこに座る?ひなと向かい合う?」
「ひなちゃんと並んで座りたいです。」
「それじゃ、私がこっちに行くわね。」

 カップを配った後、ゆら達が横に並び、おばさんはその反対側に座った。ミルクや砂糖が入った籠と、クッキーのお皿が中央に置かれる。

「では、お熱いうちに。私達はひなに合わせるから、挨拶お願いね。」
「うん。……いただきます。」

 皆で手を合わせ、まずはストレートで紅茶を一口飲んでみた。ティーバッグの場合だと、本来欲しい味の他に細かい雑味がどうしても感じられてしまうが、この一口めにはそういった不要なものがなく、何も意識せずに飲み込める自然さだった。

「これは美味しいわね。どう?ゆらちゃん。」
「はい。飲みやすくて、すぐなくなっちゃうかも。」
「ひな、紅茶の先生になれるわよ。」
「紅茶の先生って、どういう職業かわからないよ……。」

 ひなちゃんはもう少しカップに口をつけてから、自分の感想を言い始めた。

「飲みやすいけど、そのぶん単純な気がする。第一印象のままって言うのかな?」
「あら、家で飲むなら、これで十分じゃない。小学生がいきなりプロみたいな味を出せたら、喫茶店なんて無くなっちゃうでしょ。」
「そうだよね。もっと練習しなきゃ。」

 その会話を聞いて、ゆらはこの間の事を思い出した。

「この前、友江ちゃんが喫茶店に連れていってくれたんだけど……」
「どんなお店?」

 クッキーと、スティック包装の砂糖を一つずつ取りながら、ひなちゃんが聞き返す。

「海側にある、スレイベルズってお店。お茶が美味しかったよ。」
「行ってみたいね。ゆら、お砂糖半分残るけど、いらない?」
「あ、ちょうだい。で、行く時には友江ちゃんに詳しい場所を教えてもらうから。」
「道順、憶えてないの?」
「う、一回送ってもらっただけだし……。」

 そこへおばさんも注意を添えた。

「子供だけで行くのは駄目よ。私でも近知さんでも、誰か大人と一緒に行くこと。」
「はい、そうします。」
「それと、ゆらちゃん。イナミサナイの当日の、スケジュールなんかを話しておきたいんだけど。」

 お茶を飲みながら、式当日の集合時間や終了予定時刻を教えて貰った。服装は脱ぎ着しやすいもの、貴重品は臨時のクロークに預けるので、一纏めに出来るよう、鞄やポーチを持ってくる事なども。

「どのくらいの人が来るんですか?」
「30人くらいよ。まずこの辺に住んでいて、地元の歴史を知っている人しか来ないの。お父さんの方でも、仕事に関係なく親しい人だけだし。後は私やお祖母ちゃんのお友達ね。」

 ゆらはお通夜や告別式と同じく、かしこまった雰囲気の儀式を想像していたのだが、実際はもっとリラックスしたものになるようだ。

「私達も近くにいるから、そんなに緊張する必要はないわよ。」
「ちょっと、気持ちが楽になりました。」

 紅茶が無くなり、後片付けをしてから二人でひなちゃんの部屋へ戻った。今日は学校から直接ここに来たので、荷物も全て置いてある。
 ベッドの横に背中を預け、ひなちゃんが座った。膝を曲げて、手を乗せて。ゆらは体育座りのように膝を立ててその隣に落ち着いた。

「ひなちゃんはどう?緊張してない?」
「私はもう平気かな。お葬式の後、毎日お祖母ちゃんにご挨拶して、気持ちを聞いてもらってるから。」
「そっか、なら大丈夫だね。堅くなってたのは、むしろあたしの方か……。」

 ひなちゃんは笑い、座ったまま手をついてゆらの方に近付いた。

「ありがとう。一緒に宿題、する?」
「ううん。今日はもう長居しちゃってるから、帰るよ。」
「じゃあ、ちょっと待って。ゆらに渡したい物があるの。」

 立っていったひなちゃんが、押し入れから紙袋を出して戻ってきた。それを手渡しながら言う。

「中を見てみて。」
「うん。」

 ゆらが袋の中身を出してみると、革張りの箱だった。ベージュとブラウンのカラーリングで、上に持ち手も付いている。

「これって……」
「蓋を開けたら分かるよ。」

 手前側の蓋、というか扉を開けた内部に引き出しが用意され、小さな物を色々収納出来るようになっている。

「……ジュエリーケースだ。」
「そう。ゆらにこれをプレゼントしたくて。私とお揃いだよ。」
「ひなちゃんも持ってるの?」

 そう尋ねると、ひなちゃんはもう一つ、ゆらと全く同じケースを出して見せた。

「アクセサリー部を始めても、二人で同じ物を作るわけじゃないよね?だから入れ物の方をお揃いにしようと思って。」

 でもこんな立派な物を貰ってはと、普通なら言う場面だろうけれど、ひなちゃんの気持ちを考えたら、ここは遠慮せずに喜んで受け取るべきだ。

「ひなちゃん、すごく嬉しいよ。大事に使うね。……ううん、使おうね。」
「うん。最初から二人でおそろいの道具を持っていったら、寿美さんにからかわれるかもね。」
「それは、想像つくような……。」

 お互いの目を見て笑った後、帰り支度をしながらまたひなちゃんと顔を見合わせる。

「ゆら、どうしてずっと笑ってるの?」

 そう言うひなちゃんもさっきと同じ顔だ。

「また変な想像してるんでしょ。」
「別に変なことじゃないよ。」
「じゃあ、何考えてるか見せて。」
「いや、無理だよそんな……」

 頭に触ろうとするひなちゃんの手を払い、ランドセルを背負って立ち上がる。

「はい、手荷物。」
「ありがと。」

 食堂を通りかかると、おばさんも見送りに出て来てくれた。

「ゆらちゃん、プレゼント受け取ってくれたのね。ひなと一緒に、沢山使ってあげてね。」
「はい。何を作っていこうか、今から色々考えてます。」

 と言っても、イメージ通りの物を作るには、まず技術を身に付けなければならない。せっかくの入れ物に相応しい中身を揃える為に、その過程では自分に対するハードルをもっと上げようと、ゆらは思った。

「でも、寿美さんにはちゃんとお礼をしなくちゃ。ひなとゆらちゃんが、一緒に過ごせる時間を増やしてくれたんだから。」
「そうね。今年中だったら、クリスマスに何かするのはどう?」

 おばさんはひなちゃんを見て、ひなちゃんはゆらに発言を求めた。

「パーティとか?」
「うん。ただ、寿美さんの友達が私達だけならいいけど、他のお友達もいると思うの。」
「他の人と重なっちゃうかもしれないんだね。」

 彼女は自分達だけのものではない。となると、日付を前倒ししてプレゼントをあげるのが妥当だろう。

「どういうものなら喜んでくれるかな。」
「しばらく寿美さんを見て、好みを調べない?」
「ひなちゃん、こっそり見るの得意なんだっけ。」
「もう、どうしてそういう話はすぐ出てくるのかな……。」

 そこへ、おばさんが小さく手を上げて意見を出した。

「大体プレゼントしたい物が決まったら、私にも言ってね。近知さんも誘って、皆で選びに行きましょ。」
「はい。それじゃ、今日はお邪魔しました。ひなちゃん、美味しかったよ。」
「またいれるから、味見してね。近くまで送る?」
「ううん、大丈夫。」

 彼野家を出て、自宅へ帰るまでの間に、一度だけ紙袋の中を覗いてみた。ひなちゃんとお揃いのジュエリーケース。そこに初めてしまわれる物は、ゆらが既に作っている。お互いに入れ物と中身を用意したということだ。小一の出会い以来、二人はいざという時に似たような考え方をする、その傾向がまた現れた。もしひなちゃんが一緒に資料館まで行っていたら、ゆらと同じく、クェニ・グラウを作ろうと思い付いたかも知れない。
 しかし、結局ひなちゃんは同行出来なかった。引っ越しの話があったからだ。それを受けて彼女はゆらに恋していると告白し、ゆらも自分の気持ちを伝えるべく、クェニ・グラウを作り始めた。そして、あの日同行出来なかったから、ひなちゃんのプレゼントはジュエリーケースになったとするなら。上手く偶然が重なって、ゆらを今のタイミングに導いてくれたと思える。きっともうこんな機会は訪れない。
 眠る時、明かりを消す前に友江ちゃんと寿美さんの顔を思い浮かべた。それと一緒に、優しい言葉や、髪を撫でてくれる感触も。そうするとまた張ってきた気持ちも和らいだ。
 イナミサナイも告白も、一つのゴールではある。でもそれは終わりではなく、次の何かが始まる節目なのだ。少しずつ、自分が新しくなっていく為の。変化の過程ではきっと色々な感情に直面するだろうが、楽しい時であれ、辛い時であれ、常にお互いが一番近い存在でいよう。そうひなちゃんに告げる。親友よりも、更に特別な人として。





 儀式の当日、ゆらはお母さんの運転する車で会場へと向かっていた。何か手伝える事があればと、一般参列者の集合時間よりもかなり早く着くようにしてある。
 商業区を北に抜けた外れ、海岸の堤防沿いに長く道路が続いており、その並びに伝える会の事務所がある。そこが会場だそうだ。

「看板が立ってるからすぐ分かるって、彼野さんは言ってたんだけど……。」

 お母さんは余りよそ見を出来ないので、代わりにゆらが道路脇を見る。程なく目的の物は見付かった。古いテナントビルの、入り口近くに「彼野美沙様を偲ぶ会会場」と書かれた白い看板が立っている。ビルは三階まであるようだが、屋上部分にも小さい部屋が建てられていた。結構広そうな印象だ。但し、壁面の色合いから察される築年数や、交通の便を考えると、好んで入居したがる人は少ないだろう。
 車は駐車場までは入らずに、路肩に停車した。

「それじゃ、ここからは一人で行くのよ。」
「ちょっと緊張してきた。」
「大丈夫よ。彼野さん達もいるし、寿美さんも来てるんでしょ?どうしていいか分からない事があったら、教えて貰いなさい。」
「うん。そうする。」
「じゃ、行っておいで。」
「行ってきます。」

 手を振って、車を出すお母さんを見送ってから駐車場を通り、入り口に向かった。何台か車が停まっている中に、彼野家の乗用車もある。ちゃんと見知った人が来ているという安心感に後押しされ、ゆらは一人、ロビーに入っていった。
 まずドアを開けると、受付に対して横から歩いていく感じになる。テーブルの反対側にいた年配の女性は、ゆらに気付くと顔をこちらに向けてきた。が、目が合うよりも早くに、その人が誰なのか分かってしまった。

「森住さん!」
「あら、ゆらちゃん。こんにちは。一番乗りね。」

 ゆらに比べると、森住さんは全く驚いていない。取りあえず側に行ったところ、最初に参列者名簿へサインをするよう促された。五十音順に印刷された氏名の中にゆらの名前もある。つまり、彼女の方はゆらが来る事を既に知っていたのだった。

「森住さん、伝える会の人だったんですね。」
「ええ。亡くなった主人が会員だったから、後を継いでね。」
「そうだったんですか。」

 ご主人が所属をしていて、また自分自身も伝える会へ入会したのなら、森住さんはトォマガイについて相当詳しい筈だ。

「お葬式の時には、美沙さんがイナミサナイを希望している事を知らなかったから。後で他の人からそれを聞いて、今日は絶対手伝いに来ようって決めたのよ。」
「あの、お祖母ちゃんにトォマガイの話をしたのって、森住さんですよね。」

 ひなちゃんが言っていたお友達というのは、森住さんの事だろう。

「そう。美沙さんも地元の人だから、ある程度知識はあったけど。私は言葉の意味とか、それにまつわる風習なんかを教えてあげて。かなり興味を持ってくれたみたいだったわ。」
「森住さん、言ってましたよね。お祖母ちゃんも、森住さんと過ごした時間を大事に思っていてほしいって。」

 お祖母さんは、入院して、会えなくなってしまった友達に、二人で共にいた時間が如何に大事なものだったかを伝える為にイナミサナイを希望した。ちょっと物珍しいからとか、簡単な理由ではなく。

「お祖母ちゃんから、森住さんへのメッセージですよ。きっと。」
「そうね。私一人の思い込みじゃなく、ゆらちゃんもそうだと言ってくれるなら、きっと間違いないわね。」

 森住さんは笑い、静かに頷いてみせた。そこへ廊下の方から足音が近付いてくる。ゆら達の話し声を聞きつけたらしい。

「お話はまた今度しましょう、ゆらちゃん。」
「普段、どこに行けば森住さんに会えますか?」

 彼女がいつも散歩で立ち寄る場所をいくつか聞き、ゆらも自分が住んでいる所を教えてあげた。そこへひなちゃんのお父さんが現れて会釈をしてくる。

「やっぱり、ゆらちゃん。こんにちは。」
「おじさん、こんにちは。」

 おじさんに続いて、おばさんとひなちゃんからも声を掛けられる。さらに真っ白な髪の老人が一緒にいた。既にシャンクランを着込んでいるから、森住さんのような裏方ではなく、直接儀式に参加する人だろう。

「最初のお客様だね。初めまして、僕は野辺正助(のべしょうすけ)と言います。トォマガイ文化を伝える会の会長をしています。」
「あたしは近知ゆらです。今日はよろしくお願いします。」
「ゆら、ずいぶん早く来たね。うちの親戚だって、こんなに早く来ないよ。」

 ひなちゃんは自分の腕時計を見てから、ゆらの側に歩み寄ってきた。

「あたしにも手伝えることがないかと思ったんだけど……。」
「いやいや、お客さんにそんな事はさせられないから。そうだね、イナミサナイに参加してくれるんなら、僕らの活動にも、多少関心を持ってくれているのかな?」
「あ、はい。」
「だったら、準備が出来るまで、ここで会の成り立ちなんかを説明するのはどうだろう?宣伝も兼ねてね。」

 髪よりはまだ黒みが残る眉毛を下げて、野辺さんは笑いかけた。伝える会がどういう経緯で作られたのか、聞かせて貰えるなら願ってもない。

「それ、知りたいです。」
「決まりだね。彼野さん達もどうですか?」
「ご一緒します。ねえ、お母さん。」

 野辺さんは森住さんも誘ったが、ゆらのように早く着く人がいるかも、と言って彼女は受付にとどまった。

「それでは、ちょっと失礼します。」

 おじさん達は礼をした後、野辺さんに続いて壁際の座席に移動していく。その雰囲気から気付いたが、どうやら彼野家の人は誰も、お祖母さんと森住さんの関係について知らないようだ。

「あの……。」

 ゆらは小声でその事を尋ねてみた。返答は、「いいのよ」という一言だけ。お通夜の時と変わらない。でも、ゆらもそれが良いと思った。わざわざ名乗り出るような事をする必要はない。もしいつか機会があったら、ひなちゃんには話すかも知れないけれど。

「ゆらちゃん、ここに座ってね。」

 おばさんが指した位置に座る。並んだ座席のうち、野辺さんの右側におじさんとおばさん、左側にゆらとひなちゃんが落ち着いた。

「それじゃ、大した話でもないですが……」

 野辺さんは定年退職するまで、水産加工品を製造する会社で役員をしていたそうだ。その頃に会を作ろうと思い立ったらしい。

「仕事柄、地元の景気がやっぱり気になるんですよね。で、もっと早津に人が集まるようにしたい、どうしたものかと考えまして。」

 早津は首都圏に近く、水産業もあるから、定住者の不足にまでは陥らない。それなら何か観光資源になるものを育てるべきだと、野辺さんは案を絞った。それが十年前の事だ。

「皆さんもご存知の通り、日本では北の方へ行くほど、先住民族の文化が残されています。実際東北地方では、それを観光に利用して成功した自治体がいくつかあるんですよね。」
「それで、早津でも同じ事をしようと……。」

 おじさんが相槌を打つ。野辺さんも頷いた。

「まあ、要するに真似事です。過去の成功例をなぞらせてもらえば、上手くいくんじゃないかという、ね。そこから二年間、トォマガイの歴史や文化を勉強しました。伝える会を興す為に。」

 真似とは言っても、一から組織を作るのが簡単な筈はない。ゆらは目の前の老人から苦労の匂いを嗅ぎ取れないかと試したが、そういう気配は無かった。表面はただのどかに見えるだけだ。

「おかげさまで八年、どうにかやってこれていますよ。しかし気付いたら、その間に僕もすっかり爺さんになってしまいました。」
「大変だったんですね。」

 ゆらの言葉に、野辺さんは首を横に振った。

「違うよ。世の中には、もっと逼迫した思いをしている人だって大勢いる。だから僕の経験した事なんて、苦労とは言わないのさ。」

 野辺さんはまた笑ったが、他の人は誰も笑わずに、彼の目を見ていた。

「ここからは伝える会というより、僕個人の目標になってしまうけど、話してもいいかな?」
「はい。」
「今伝える会に入っている会員さんは、殆どが40代後半から、50代以上の人なんです。若い人は1割ちょっとしかいなくて。」
「そんなに少ないんですか……。」

 ひなちゃんが少し身を乗り出して言葉を継いだ。

「そう、そんなにね。だから僕は、もっと早い段階からトォマガイの文化を知って貰う為に、小学校の低学年から授業で扱って欲しいと働きかけているんだよ。」

 そう言われると確かに、ゆらもひなちゃんもイナミサナイの当事者となるまで、トォマガイについて大した知識を持っていなかった。

「トォマガイの人達は、ある日突然いなくなった訳じゃなくて、次第に日本人と同化していったんですよね。僕らの中にだって、彼らの血が流れている筈です。だからまるで遠い異国の文化を勉強するようには思わず、自分達のご先祖という点から、もっと身近なものとして子供に興味を持たせたいと考えています。そうやって、若い世代の人が自然に地元への興味を持ってくれるような環境を作りたいですね。」

 そこまで話して、一度呼吸を整えてから、野辺さんは更に付け加えた。

「組織を作った人間としては、伝える会に入って欲しい。でも、それはあくまで選択肢の一つであればいいんですよ。早津に人を呼び込む事に熱心になって貰えるなら、方法は何か別のものでも構いません。だからこれはどちらかというと、僕個人の目標なんです。」

 これで野辺さんの話は一通り終わりのようだ。ただ、こういう話を聞いた上で、自分が早津の為に何か行動出来ているかと考えても、残念ながら思い当たる節は無い。それはおじさんやおばさんも同じらしく、どことなく萎縮した、申し訳なさそうな空気が皆に流れてしまった。が、野辺さんはこんな場面にも慣れているのか、ゆら達に明るく声を掛けてくれた。

「今日は若い人に話が出来て良かったですよ。僕の言葉を、頭の片隅にでも覚えていて下さい。」
「ありがとうございました。そういえば、他の人からも同じような事を言われて……。トォマガイ文化資料館の館長さんなんですけど。」
「河洗さんに会ったのかい?」
「はい。色々教えてもらいました。」

 と、この場で資料館に行ったのはゆら一人なのに気付く。そこで野辺さんに説明しがてら、皆にも河洗さんとのやり取りを話してあげた。

「近知さんは凄く勉強してくれたんだね。河洗さん、変な人でしょ?」
「いえ、そんな……」

 心の中でちょっと同意しかけたが、口に出しては言えない。

「あの人とも十年前からの付き合いでね。気難しいのに前向きで、思えば結構助けられてるかも知れません。」

 変な人だと言い切り、でも評価している辺りから、二人はきっと仲が良いのだろう。

「河洗さんも、早津に人を集めたくて会に入ってるんですか?」
「いや、彼は純粋にトォマガイの歴史や文化を広めたいんだよ。観光はその手段と考えてるみたいで、丁度僕と逆だね。」
「そうなんですね……。」

 野辺さんも河洗さんも、それぞれ目的を持って会に参加している。ゆらは将来、伝える会に入った自分の姿も漠然と想像していたが、それはイナミサナイに関わる事になったり、寿美さんが所属しているといった理由でそうなっただけで、きちんとした目的がある訳ではない。それで長続きするのかは考えるまでもなく、野辺さんに対しても失礼でしかないだろう。心の隅では分かっていたのだが、ゆらはどうも、何か引っかかる事柄があってもそこまで思考しようとしない傾向がある。ひなちゃんの気持ちについてもそうだ。もっと突き詰めて考えていれば、早く気付いてあげられた。この自分の欠点は、是非直していかなくてはと思う。

「……どうかしたの?」

 いつの間にか、顔がひなちゃんの方を向いていた。何でもないよ、と髪を直してあげると、くすぐったそうにされた。そこへまた足音が近付いてくる。

「野辺さん、更衣室の準備出来ました。」

 今や聞き慣れた声。寿美さんだ。それにもう一人、中年の男性スタッフが一緒にいる。ゆら達は全員立ち上がり、また森住さんの所へ集まった。

「ご苦労様。それじゃ、彼野さん達に着替えて貰って、僕と森住さんはここでお客さんを待っているよ。」
「二階に女性用、三階に男性用の更衣室を用意してありますので。ご案内します。」

 男性が先に立って歩き始める。廊下を抜け、おじさんは誘導されるまま階段を昇っていった。後に続いて女性陣も二階へ向かう。

「それにしても、ゆらちゃん来るの早いね。」
「何か手伝いたいって、気を遣ってくれたのよね。」
「野辺さんに止められましたけど。」

 階段を昇りながら、おばさんは寿美さんの隣で、ゆらは後ろから答える。

「で、勧誘されてたんだ?」
「勧誘じゃないですよ……。」

 ゆらのすぐ横で、ひなちゃんが寿美さんと笑い合う。二階に着くと、階段を昇りきってすぐの部屋が臨時のクロークになっているらしく、数人のスタッフが礼をして出迎えてくれた。

「荷物は着替えが終わってから預ける事になります。衣服や靴と一緒に。」
「靴、合うかしら。」

 おばさんが言う。靴だけは試着をせず、事前にサイズを登録してあるだけだった。

「長時間歩く訳ではないので、多少足に合わなくても妥協してもらうしかないですね。」

 話しながら、更衣室を示す案内板の前で一度立ち止まる。寿美さんはノックをしてドアを開け、室内に皆を招き入れた。そこは小会議室というぐらいの広さで、中央にパーティーションとカーテンによって更に4つの小部屋が用意されている。スタッフは当然ながら全員女性、但し若い人は寿美さんだけのようだ。

「ゆらちゃん、私と来る?」

 ごく自然に手を取り、寿美さんはゆらを小部屋に連れていく。おばさんとひなちゃんには別の人が付いた。
 カーテンを開けると、中は洋服屋で見るような試着室そのものだった。ただ、広さにはかなり余裕があって、例えば足を投げ出した状態で座り、靴下を履くといった動作も楽に出来そうだ。

「それじゃ、衣装と靴を持ってくるから待っててね。」

 しばし、試着室の中に残される。部屋に入ってすぐの状態から、向かって左の方に椅子があり、隣にテーブル、その上に服を入れる籠があった。それらの反対側には姿見。取りあえずテーブルにバッグを置き、椅子に座って待つ。壁を挟んで隣にはおばさん、背後にはひなちゃんがいる筈で、少し物音が聞こえていた。
 一ヶ月前には、今こうしている自分など全く想像出来なかった。寿美さん達と出会い、郷土の過去に触れた事。今まで気付かなかった気持ちを知った事。短い間に大きな変化を経験したと思うけれど、全ては元を辿ればお祖母さんに行き着く。もう会えなくなってしまっても、彼女が残してくれたものはきっと自分の中に在り続ける。ゆらが年を取った時、それは薄れることなく、むしろより強く実感出来るのだろう。

「お待たせ。入るよ。」

 外で声を掛けてから、寿美さんがカーテンの中に入ってきた。シャンクランの入った籠を渡される。ゆらがそれを先程の籠の隣に置いているうちに、寿美さんは紙袋から靴を取り出していた。足袋とブーツが混ざったような材質と外観だ。

「で、着替える前に。持ってきた?」

 小声で訊かれる。クェニ・グラウの事だ。ゆらも小さく返事をして、バッグから包みを取り出す。寿美さんとラッピングについて相談した際には、まずプレゼントをいつ渡すのかが焦点になった。式が終わった後には一般参列者の人達が先に着替えをし、ひなちゃんは最後になる。おじさんに送って貰う約束をしているのだから、ゆらもそれに合わせるだろう。その待ち時間がチャンスだと、寿美さんは勧めた。
 となると、プレゼントの包みはバッグでなく、ヤンペのポケットに入れて持ち歩く必要がある。そこで形が崩れないようにと、堅い台紙へクェニ・グラウを固定した。更に外側の包装はフェルトを用い、台紙が丁度収まる大きさの袋を手作りする。これなら皺がよらずに済む。リボンもアイロンで接着出来るタイプを使って、フェルトに貼り付けておいた。全体のコンパクトさが、却って手作りらしい暖かみを引き立ててくれたと思う。

「緊張してる?」
「いえ、ここまで来たら、もうあんまり。」

 脱いだ服を寿美さんに畳んでもらい、その間にゆらはチナを着ておく。空調で室温が上げられている為、肌寒さは感じない。姿見の方へ歩いていって、崩れた髪を直していると、寿美さんが脇腹の紐を締めてくれた。

「ゆらちゃん、真ん中へんに立ってて。」
「はい。」

 言われた通りに待っていると、今度はシャンクランを渡された。まずはズボンを着て、紐の調節は寿美さんが行う。ゆらの足下で、姿見を確認しながら手を動かしている。次はヤンペだ。

「さっき、野辺さんが伝える会を作った目的を話してくれたんですけど。早津にもっと人を集めたいって。」
「熱意があるよね。思い付きはしても、実際にはなかなかここまでやれないし。」
「寿美さんにも、会でやりたいことがあるんですか?」
「私か……。私の場合、目的じゃなくて、自分の気持ちを確認する為の、行為の一つとして会の活動を続けてるんだよね。」
「寿美さんの気持ち?」

 背中から着せられた上着の袖に腕を通し、腹部に紐を通して貰う。寿美さんは一旦そこで手を止めて、ゆっくりとゆらの問いに答えた。

「うん。私は多数派ではない人達や文化に対して、黙殺したり、軽んじたりしようとする考え方に抵抗があるんだよね。そうやって『普通』である事が維持されるんだとしたら、私はもう、そんな枠組から外れていても構わないし。」

 その言葉は、早条直綱の手紙を思い出させる。一つ違うのは、彼女自身が何らかの少数派に属している、という言い回しに受け取れる点だ。寿美さんが何をもって「普通」の人と、自分の間に境界を定義しているのか、それを訊かなければこの会話は先に進まない。が、今のゆらにはまだ出来ない事だった。
 紐を締め終えた寿美さんは立ち上がり、ゆらの後ろに回って両手で肩を抱いた。姿見ごしに目が合う。また、あの優しい目だ。

「いつか、この続きを話してあげるよ。ゆらちゃんと、陽菜香ちゃんにもね。」

 そう言った後、テーブルからクェニ・グラウの包みを持ってくる寿美さん。ゆらはヤンペのポケットにそれをしまってみた。外からは何か入っているようには見えない。

「これなら大丈夫ですね。」
「ばっちりだね。じゃあ、靴を履こう?」

 トォマガイ語だと、靴は「レユン」と言うらしい。但し履き物全てがそう呼ばれるので、この靴固有の呼び名ではないそうだ。
 紐穴は足の外側の側面に用意されているが、その反対側にサイドジッパーも付いていた。どうやら紐を結んだままでも脱ぎ着が出来るようだ。目立たない部分だから、利便を取ってアレンジしてあるのだろう。

「寿美さん、あたし、大人になったら自分も伝える会に入るって、何となく思ってたんです。」
「どうして?」
「寿美さんがいるから……。でも、それじゃ駄目だってわかりました。」
「会に入っても、常に私と一緒にいられる訳じゃないからね。」

 ゆらにエンニ・ツワを被せてから、クロークに預ける荷物を取って寿美さんはまた隣に来た。

「ゆらちゃんにやりたい事が出来て、それが会の活動と一致した時には、入ってくれればいいのよ。」
「あたし、何も考えないで……ごめんなさい。」
「ううん。そう思えるんなら、何も考えてないなんて事はないよ。」

 手が塞がっている寿美さんの先に立って、カーテンを開けてあげた。外に出ると、入り口付近でおばさんが待っている。

「ひなが最後になるのね。皆揃ったら、ロビーに戻りましょ。そこでお客様を迎えて、全員が着替え終わったところで、港に移動するのよ。」
「靴、どうでした?」

 寿美さんがおばさんに尋ねる。

「中敷きを入れてもらったわ。私、足の幅があるから、本来のサイズに合わせると横が苦しくなる場合があるのよね。」
「それで、少し大きめに申請しておいたんですね。」
「ええ。歩くとちょっとかかとが浮くような感じがするけど、イナミサナイの間くらいなら平気よ。」
「ご不便かけてすみません。それじゃ、ちょっと荷物を置いてきますね。」

 そう言って、寿美さんはクロークに向かった。着替えを担当する係の内、一人がロビーで参列者を迎え、更衣室に案内してくる。そして残りのメンバーは入り口前で待機し、それぞれ自分の受け持つ人を決めて着替えさせる。これをローテーションで行うそうだ。係の人数は試着室よりも多いので、迎えが誰もいなくなる事はない。

「お待たせ。……待った?」
「ううん、全然。あ。」

 寿美さんと入れ違いに戻ってきたひなちゃんの髪型が、三つ編みに変わっていた。二本の長い尻尾を作って、背中に垂らしている。

「ひなちゃん、可愛い。」
「風で崩れると思って、まとめてもらったの。ありがとうございます。」

 お礼を言われた担当の女性は、こちらこそ楽しかったですよと、本当にそういう顔をしていた。

「それじゃロビーに行かなくちゃね。お父さん、多分先に待ってるわよ。」

 おばさんの言った通り、おじさんはもうロビーに戻っていた。

「みんな来たね。そろそろ集合時間だよ。」

 遺族の着替えが丁度終わる頃に参列者が集まるよう、考慮して時間が調節されているらしい。野辺さんが説明してくれた。

「野辺さん、一つ伺いたいんですが……」
「何でしょう?」
「お客さんに挨拶する場合、葬帽は取った方が良いんでしょうか?」

 真面目で人に気を遣う、おじさんらしい注目点だ。

「シャンクランの場合、葬帽を取れば普段着と変わらなくなってしまいますから。トォマガイの習慣では、葬儀の際は帽子を取らずに挨拶をしていました。」

 野辺さんの説明に皆納得した。また挨拶の際は、日本人のように頭を下げるのではなく、片手を肩くらいまで上げるのが通例だそうだ。

「でもお客さんはその事を知りませんから、必ずしも合わせる必要はないですよ。……あぁ、誰か来ましたね。」

 話している間に最初の来客が入ってきた。30歳前後の男性で、縁戚関係ではなく、おじさんの知り合いらしい。スーツを着て鞄を持っている。髪は長めの丸刈りといった感じだが、見栄え良く手入れされていて、バリカンでセルフサービスしている訳ではないようだ。

「彼野さん、こんにちは。今日もお世話になります。」
「円城(えんじょう)君、こんにちは。君も早かったね。」

 外見から、精悍さをいつも崩さないタイプの人かと思っていたところ、円城さんはおじさんに対面すると、懐いた飼い犬のような表情になった。話し方もゆらの想像より明るくて、内心ちょっと面食らってしまった。
 そんなこちらの感想は露知らず、おじさんに続いて、ゆら達や野辺さんにも彼は声を掛けた。名前は円城聡(さとし)、おじさんの元部下だそうだ。

「皆さん、宜しくお願いします。あの、ゆらちゃんは一人で来たのかな?」
「はい、うちの両親の勧めで。」
「そうだったんだ。いや、彼野さんの娘さんは確かお一人だと思って……」

 どうやらゆらがひなちゃんの姉妹かと思ったらしい。確かに子供が一人で葬儀に参列するとは考えにくいから、誤解しても無理はない。

「彼は告別式までの参加だったから、ゆらちゃんの顔を知らなかったんだよ。円城君、まずは着替えてこないと。」
「そうですね。それじゃ、少しだけ失礼します。」

 円城さんが三階に向かった後、おばさんが話し始めた。

「ひなとゆらちゃんと、どっちがお姉さんかしら。」
「もし姉妹ならって事?」

 おじさんはお腹の前で軽く腕を組み、考えている。

「ゆらじゃない?私より背が高いから。」
「ひなちゃんの方がご飯作れるよね。」
「それ、姉妹と関係あるかな?」
「あるよ。ある……かな?」

 どことなく話が逸れかけたところで、おじさんが口を開く。

「円城君が戻ってきたら、どう見えたか聞いてみようか?」
「そこまでしなくてもいいんじゃない?」
「あれ、だってお母さんが最初に言い出したのに……。」

 気を利かせて発言したつもりが、おばさんからあっさり否定されておじさんはめげている。それならと、まず内輪で投票を取ってみたが、ゆらお姉さんに票が集まった。

「やっぱりそうだよ。」

 ひなちゃんが指摘する。おばさんも同意見のようだ。

「見た目はともかく、中身は逆だよね……。」
「そんなことないよ。ゆらは面倒見いいと思うよ。少なくとも私に対しては……。」
「ひなちゃん、さいご声小さいんだけど……」

 今一つフォローにならないひなちゃんの言葉に、ゆらもおじさんと並んでしおれてしまう。おばさんは苦笑しながら二人にはっぱをかけた。

「ほら、しょげてる場合じゃないわよ。皆さん来てるから。」
「ん、そうだね。」

 おじさんは気を取り直したようだ。世間話をしている余裕も、そこからは無くなった。彼野家の人達は来客の応対をし、ゆらは離れた場所で椅子に座って待つ。円城さんが着替えを終えた後、話し相手になってくれた。今は違う部署で働いているが、社会人になった当時、おじさんの下で四年間面倒を見て貰ったそうだ。

「場を盛り上げるタイプの人じゃないんだけど、人気があってね。僕にとっては、大人としての教師みたいな人かな。」

 円城さんに応えるように、ゆらもひなちゃんとの出会い、お祖母さんとの思い出などを話してあげた。

「彼野家のお母さんには、僕も何度かお会いした事があるよ。陽菜香さんが幼稚園に上がった頃だから、何年前だろう……」

 年数を数えながら、同時に記憶を辿っている表情で円城さんは続ける。

「夕飯をご馳走になって、鍋だったんだけど。美味しかったな……。」
「おいしかったでしょうね……。」
「って、ごめんね、鍋の話になっちゃった。」
「いえ、それでいいと思います。そういう話で。」
「そう?……そうだね、それがいいんだね。」

 集まってくる人を眺めたり、たまに声を掛けられながら、ゆらは一つ気が付いた。この場の誰もが共通した雰囲気を持っていると。外見や年齢が違っても、どこかに同じものが感じられる。今日は親しい人ばかりが来るとおばさんは言っていたが、皆少なからず彼野家から影響を受けているのだろう。円城さんもそれには思い至っていたらしく、二人で意見が一致した。

「気持ちが落ち着くね。」
「お祖母ちゃんが皆を集めたんですよ。皆も、お祖母ちゃんやおじさん達が好きで。」
「うん。僕も来て良かったよ。昔の自分に会えた気がする。」

 参加者全員が着替えを済ませ、集合したところでおじさんが挨拶をした。

「皆様、今日はお集まり頂いて有り難うございます。妻の母はその人生において、安らぎ、楽しみ、励み、数多くの益なる感情をもたらしてくれました。その大きさには到底及ばないかも知れませんが、私達も精一杯の気持ちを込めて、彼女の魂を送り出しましょう。そしてこの時間もまた、新しい思い出の一つとなる事を願っております。」

 続いて野辺さんも前に立つ。

「では、これからイナミサナイを執り行いたいと思います。進行の仕方はプログラムに書いてありました通り、難しい事は致しません。きっと初めての方が殆どでしょうが、その都度指示に従って頂ければ大丈夫です。船に乗った後、もし気分が悪くなった方は、我慢せずすぐに名乗り出て下さい。衣装などが苦しいという方はいませんね?」

 船は早津港の北端にある係留所にあり、そこまではマイクロバスで移動した。港には予め、入出港届を管理事務所に出したり、船の点検を行うスタッフが待機している。彼らもまたシャンクランを着ているのだが、そのまま港で行動していても誰も気にしないようだ。伝える会が出来て間もない頃は、もっと注目されていたのかも知れない。
 今回出港する船は、ネイライ・エヌシュ(主葬船)が一隻と、サカム・エヌシュ(従葬船)が二隻となる。参列する人数に合わせて、船数や出港後の隊列を変えるらしい。

「血縁者の方は主葬船に乗って下さい。その他の方は従葬船の方にお願いします。」

 野辺さんと船担当のスタッフが人数を分け、それぞれのグループを誘導していく。葬船は小型の屋形船で、出来るだけ当時のデザインに近付けるよう内装等が改修されていた。

「本当なら、皆で漕がなくちゃいけないんだろうね。」

 動力部を見ながら、円城さんはゆらに話し掛ける。舷側に沿って向かい合う形で設置された座席に、二人は並んで座った。主葬船の上を見ると、ひなちゃん達も席についたところだ。船首に、従葬船とは違って祭壇があり、人が立てるようになっている。そこから恢埒を海に還すのだろう。
 出港の合図の後、まず主葬船が先頭になり、その左右後方から従葬船がついて行く。船が止まってから元来た方を振り返ると、自分達のいた係留所がかなり小さく見えていた。写真を撮る時のように、指でフレームを作ってみたら丸ごと収まるだろう。

「従葬船はもう少し移動しますので、皆さん座席に掴まっていて下さい。」

 スタッフの人が言う通り、従葬船は主葬船と横並びになる位置まで移動した。それを待ってから野辺さんが全体に呼びかける。

「では、初めに黙祷をします。皆さんご起立お願いします。」

 全ての船で参列者が立ち上がり、海の方を向く。お手本に合わせ、胸のやや下で平手を重ねて数秒間目をつむる。合図で目を開けてから、主葬船がもう一度前に進み、隊列が元に戻った。

「次に、サノリ・サシへの寄せ書きをお願いします。」

 サノリ・サシは恢埒を入れる為の鞠で、紙で出来ている。そこへトォマガイ語による、短いセンテンスのメッセージを全員で書き込む。まずは主葬船に乗っている人達から作業を始めるが、待っている間にスタッフが日本語とトォマガイ語の対照表を見せてくれて、何を書き込むか考えておくようにと言われた。

「皆さん、席を立って頂いても、相談されても構いません。イナミサナイという儀式は、堅苦しいものではないですから。」

 対照表は一人に一冊ずつあり、レストランのメニューのような体裁だった。ページをめくると、故人へのメッセージとして使われそうな単語が大体網羅されていた。それを皆で調べながら、自分の好きな言葉を作っていく。

「他の人と同じ文でもいいんですか?」
「単語の組み合わせ方を教えて欲しいんですが……」

 色々分からない事があるので、必然的にスタッフに質問をする人が出てくる。しかし一度に全員の相手をして貰える訳ではないから、今度は参列者同士で会話が始まる。次第に知らない人同士でも相談する空気が出来上がっていった。

「ゆらちゃん、どんなメッセージにする?」

 円城さんは右手で対照表を持って、左手を顎に当てている。

「あたしはシンプルにしようと思ってます。」
「じゃあ、一単語かな。僕は幾つか使うつもり。」

 でも、三単語で選ぼうとしたら難しかったらしく、二単語に絞ったようだ。

「今、サノリ・サシがこちらに来ます。書き込む内容が決まった方は、準備をして下さい。」

 主葬船から、受け渡し用の道具が差し出された。長い木の棒が二本並んでいる。両端が「H」のように横棒で接続され、間に鞠を乗せて転がすらしい。

「これ、何て言うんですか?」

 思わず訊いてしまったゆらに、スタッフの一人はカランナザウですよと教えてくれた。鞠を移動させる様子は、お祭りで行われる類のパフォーマンスを見ているようで、日本的な、厳かでしめやかなお葬式とはやはり違うのだなと思う。メッセージを書く時も、例えば短冊に願い事を書くような、真剣だけれど明るい、そういう雰囲気が皆にあった。

「僕が先に書いてもいい?」
「はい、どうぞ。」

 鞠は直径15~16cm程だった。円城さんが筆ペンでその表面に字を書き込む。「ニズソラニ(忘れません)」という言葉にしたそうだ。ゆらは一語だけ、「クザィ(再び)」と書いた。ここをまた、新しいスタートにしたいという気持ちを込めて。
 全員が書き込みを終えると鞠は主葬船を経由して次の従葬船に渡され、最後はまた主葬船へ戻された。参列者は整列し直し、おじさんが骨壺から恢埒を鞠の中に移すのを待つ。

「祭壇に上がって下さい。」

 野辺さんの指示を受けて、おじさんは祭壇の上に立った。後から野辺さん自身もやって来る。おじさんが下手で支えた鞠に上から両手を触れ、二人で海の方を見、一際大きな声で送別の言葉を謳う。

「エ、ミサナイ。ラッサ、イナンサシデゥ、ホーナウチヌン。ナンカヅラ、ミエンジオドウソラン、サンナ、グラヤテタ。イサ、カヅル。ナンジオドウモビウ、ルニ・カアライ、チラエナーグァ。サヤムアイマ、ナーヤーゼーテ。ヤナトォセンガ。(海よ、その大きな懐に新たな魂を還します。命の循環の中で、彼らがより磨かれますように。そして出会いを繰り返す度、私達がより明るき方へ導かれますように。自然の変わらぬ営みに感謝を。小さき子らより。)」

 言葉が途切れると野辺さんは手を離し、おじさんが思い切り振りかぶって鞠を海面に放り投げた。参列者は皆、もっと静かに鞠を放すものだと思っていた為、そこここから声にならない驚きが聞こえる。それが収まってから、おじさんが振り返って儀式の終わりを告げた。

「皆さん、本当に有り難うございました。故人の意思を汲んで、今日はイナミサナイという儀式に臨む事となりましたが、こういった、大変未来への力を感じさせる送り出し方が出来て良かったと思っております。皆さんにとっても、この日が悲しみではなく、希望ある日として記憶されれば幸いです。」

 海面に浮かんでいる鞠を、暫く皆が見つめている。それを受けて、野辺さんはもう一度黙祷の時間を作ってくれた。プログラムには無い即興だ。
 船が帰港し、また事務所に戻ってから、改めて締めの言葉を挟み、解散になった。

「お帰りを急がれる方はいらっしゃいますか?」

 着替えの際、急ぐ人を優先する為に野辺さんが訊く。が、誰も名乗り出なかった。おじさんがこの後に宴会場を予約しており、食事会が行われるらしい。多くの人はそちらに参加するし、そうでない人もさして急いではいないそうだ。

「ゆらちゃんも来るのかな?」

 円城さんに訊かれたものの、ゆらはそういう催し自体の存在を知らなかった。果たしてどうしたらと判断に迷う。

「あたし、食事の話は知らなくて……。」
「お父さん、ゆらちゃんに言ってなかったの?」
「うん、ゆらちゃんは強制参加って事で。」

 どうやら、辞退する余地を与えないよう、内緒にされていたらしい。但し、ゆらの父には連絡済みで、知らないのは本人だけだった。

「お父さん、変なとこで強引なんだから。」
「そこで感心されても、どう答えて良いのか分からないなぁ。」

 おじさん達の会話の横から、寿美さんが入ってきた。

「最初に着替える方、お決まりでしたらどうぞ。」

 着替えが始まったら、ゆらにとっての本番もスタートだ。

「外の空気を吸いに行きたいんですけど、いいですか?」

 そう野辺さんに尋ねた。実は、寿美さんからそういう風に頼めと言われた通りにしている。

「ここの敷地内から出なければいいですよ。」
「屋上はどうですか?休憩室がありますし。」
「それもいいね。屋上、行ってみるかい?」
「はい。ありがとうございます。」

 寿美さんが相槌で行き先を決めてくれた。ひなちゃんもそのやり取りを聞いていて、ゆらに従う。イナミサナイが終わったら告白の返事をする。だから二人きりになる必要があり、それはもう口に出さなくても通じていた。
 ゆらの方が少し先に立って、一緒に階段を昇っていく。最上の扉を開けると、最初に外から見えていた部屋の、北側の壁面から表に出た。夕方の風がそよぎ、低い日差しが二人の頬を照らす。影が長く伸びていた。

「休憩室って、ここだよね?」
「他に建物ないもんね。」

 ひなちゃんに答えながら、東側に回った。そこにドアがある。建物は屋上の西側にあって、北の壁が階下の入り口、東の壁に休憩室へ入るドアと窓。窓は南側全面にも付いているが、西側は何も無い。西日が差し込まないようにしてあるのだろう。

「失礼します……。」

 と、無人の室内に断りながら中へ入った。中央にテーブルが置かれ、西と南にソファーがある。北側には一人掛けのスツールが幾つかと、それに高さを合わせたカウンターが設置されていた。ここで休んだり、食事を取ったり出来るようだ。

「どこに座る?」
「こっち。」

 テーブルにエンニ・ツワを置いてから、ひなちゃんは西側のソファーに向かい、その北のはじに腰掛けた。ゆらも隣に座る。体が沈み込むような柔らかいものではなく、固めの素材だった。
 手を膝に置いて、ひなちゃんの方を見る。目が合った。ここはゆらが先に話さなければいけない。彼女はもうずっと、答えを待っているのだから。

「まず、ひなちゃんに渡すものがあるんだ。」

 そう言って、ヤンペからフェルトの袋を取り出して手渡す。ひなちゃんは、ゆらが今までそんな物を持ち歩いていたとは思わず、驚いたようだった。

「これ……どうしたの?」
「あたしが作ったの。開けてみて。」

 ひなちゃんの指が袋の留めボタンを外し、中の台紙を取り出した。そこに固定されているペンダントをじっと見つめる。ヘッドはシルバー製だ。

「きれい……。」
「クェニ・グラウだよ。資料館に行った時のノートに書いてあったよね。」
「うん。心を繋ぐんだよね。」
「もう一つ、同じ物をあたしも持ってるから。二人で使お?」
「ありがとう。でも手作りなんて、すごいね……。」

 台紙を持って、目の高さにかざすひなちゃん。

「作り方は寿美さんに教わったんだ。とにかく頑張ったよ。失敗できないからさ。」
「この言葉は何て読むの?海で見たような気もする。」
「ナーヤー。永遠って意味なんだって。」
「永遠……」

 手を下ろして、ひなちゃんはゆらの目を見つめた。その言葉を贈った真意を教えて欲しいと訴えかけている。

「ひなちゃんが好きだって言ってくれて、気付いたの。あたしも友達のままじゃ嫌だって。もっと近くで、触ったりしたいんだ。」
「ゆら……」

 率直な表現に、ひなちゃんは少し頬を赤くした。でも、自分の顔にもやはり熱気がさしてきているのが分かる。

「あたしだけが許される距離で、一緒にいたい。ずっとそう思ってたんだよ。ひなちゃんのこと、あたしも好き。でもそれが自分で分からなくて……。本当、ごめんね。」
「ううん、ありがと、ゆら。」

 ひなちゃんは自分の右手を、ゆらの左手に重ねた。そのまま肩と頭もゆっくりもたれかけてくる。

「すごく嬉しいんだけど、なんかほっとしてるよ。」
「あたしも。やっと言えたから。好きだよ。」
「うん。」

 クェニ・グラウの袋をしまった後、ひなちゃんはゆらの顔を見ながら、繋いだ手の指を絡ませ始めた。

「恋人つなぎ。」
「こう?」
「ゆら、がっちり掴みすぎだよ。もっと可愛くして。」
「可愛く?ってどんな風?」

 二人で笑いながら指を触れさせ合う。

「ひなちゃん、今まで不安にさせちゃったよね。」
「そうだね。ゆら、好きって気持ちに鈍すぎるから。どうしたらいいんだろうって、悩んだりしたよ。」
「ごめん……」

 謝るゆらに、ひなちゃんは一瞬何かを言いかけてからすぐに訂正した。

「あ、じゃあ、ちょっとの間、私の言うこと聞いて?」
「うん、いいよ。」
「それじゃ、髪をほどいて。」

 ソファーから背中を浮かせて、彼女はゆらを促す。まず尻尾の先からヘアゴムを外し、少しずつ髪を解いていった。毛束が全てばらけたら、編みぐせを梳いてあげる。ブラシがないから指先で。

「どう?」
「気持ちいいよ。」
「今度はあたしの方を向いて。」

 サイドの髪を直そうと、手を伸ばしかけたところでひなちゃんが言った。

「ねぇ。」
「ん?」

 目を閉じて、ほんの少し唇をとがらせるひなちゃん。驚きながらも、考えてみればお互いの位置といい姿勢といい、これからキスをするのにおあつらえ向きの状態だった。

「これって……」
「だめだよ、言うこと聞かなきゃ。」

 目を閉じたまま催促され、してやられたと思う。が、ゆらにはもう、ひなちゃんに従う以外の選択肢が無い。
 意を決して自分の顔を近付ける。大きな呼吸を止め、鼻が当たらないように少し顔を傾けて、両手でひなちゃんの肩に触れながら、そっと唇をつけた。柔らかい感触。その心地良さを味わうように、より深く唇を重ね合わせて。二秒程してから顔を離すと、彼女が目を開けた。さっきより頬を紅潮させ、熱っぽい瞳がゆらを捉える。
 愛おしい、という気持ちがすぐに心を満たした。手を肩から下に滑らせ、ひなちゃんの膝の上で二人の両手を繋ぐ。

「ゆら、もう一回……」
「うん……」

 最初はゆらからキスしたけれど、今度はお互いに顔を近付け合った。ゆっくりと、そして、唇が触れるのと同時に瞼を閉じる。ゆらはひなちゃんが自分から顔を離すまで待っていてあげた。その間の何秒か、彼女の唇、微かな息遣い、自分の頬に伝わる熱を味わう。胸が高鳴り、心の中で大好き、と唱えた。

「ん……」

 キスを終えてからも名残惜しそうなひなちゃんは、小さな子供が甘えるように、ゆらの胸元へ擦り寄ってきた。ソファーに背中を預け、左手を後ろからひなちゃんの腰の辺りに回す。その状態で二人の身体を密着させて支えてあげた。

「好き。」
「うん。」

 ひなちゃんに返事をしながら、右手でその髪を撫でる。彼女は目を閉じて、暫くされるがままになっていた。

「ずっとこうしていたいね。」

 ゆらの右手が、ひなちゃんの左手に捕まった。指を優しく揉んでくる。

「でも、誰かが呼びに来る前に戻らなくちゃ。」
「また今度、だね。」

 のろのろとスキンシップを止め、ひなちゃんが立ち上がり、ゆらの手を取って立たせてくれた。休憩室を出ると、来た時よりももう少し日が落ちている。
 階下で大勢の人に囲まれると、二人で過ごした時間は夢だったのかと思うくらい、簡単に現実へと引き戻された。ひなちゃんはもう、あの甘えきった表情など見せなかったし、ゆらも寿美さん達の指示に従って滞りなく着替えを済ませた。
 二人きりになる機会はこれからもあるけれど、今日ここで触れ合ったという事実を、改めて確認する行為が欲しい。そう思っていたところ、宴会場に向かう車中で、ひなちゃんがもう一度手を繋いでくれた。
 運転はおじさんが、助手席にはおばさん、後部座席にゆら達が座っている。二人の位置もさっきと同じだから、これは何かしなくちゃと、考えるかどうかの内に、ひなちゃんがゆらの手を取ったのだった。指を絡ませたりする事もなく、ただ手の平を重ねていただけだったが、二人共車を降りる時まで、それを離さずにいた。





「で、私が高校生の頃に、日本法人が出来たの。」

 告白の日から二ヶ月近くが過ぎ、もう冬が本格化しようという季節。友江ちゃんと寿美さんに連れられ、ゆら達はスカイプラザの屋上庭園にある、「ブルー・ラインズ」という洋菓子店に来ていた。初めて四人で集合した時に、友江ちゃんが差し入れてくれたのがここのケーキで、じゃあ今度は直接食べに来よう、と以前から決めていたのだ。更に、どうせプラザに行くならと、この後寿美さんのお店にも顔を出す事になっている。

「『ポルタメント』の方は来ないんですか?」
「うん、予定はないみたい。」

 ひなちゃんの質問に答える寿美さん。彼女の勤め先は、アメリカの西海岸で衣料チェーンを展開している会社が母体らしい。その内、比較的高級な洋服を扱う方が「ポルタメント」、低価格なのが「リトル・ソーツ」だそうだ。

「寿美さん、アメリカに行った事あるの?」
「ないけど、先生は?」
「私もない。」

 今度は友江ちゃんが尋ねた。この二人は最近、敬語を使わなくなりつつある。ゆら達とは関係なく、一緒に遊んだりしているようだ。

「でも、店長はお祖母ちゃんがアメリカ人だから、向こうに親戚がいるんだって。」
「ホームステイ、とか?」
「そうそう。学生時代、夏休みに。」

 そんな会話を聞きながら、ひなちゃんがゆらの腕を突っつく。

「なに?」
「ゆら、あーんして。」

 ひなちゃんは自分のお皿から、苺ムースのせレアチーズケーキを一口すくい出した。差し出されるスプーンに合わせてゆらも顔を近付ける。その首元にはクェニ・グラウのチェーンが覗いていた。勿論、ひなちゃんとお揃いだ。

「んー。」
「おいしい?」
「おいしー! ね、あたしのも。」

 ゆらのケーキはヨーグルトクリームとゴールドキウイのタルト。それも一口切り出してひなちゃんに食べさせてあげる。

「おいしい?」
「おいしい。」
「あたしが作ったわけじゃないんだけど、なんか嬉しいよ。」

 二人で仲良く笑っていると、テーブルの反対側から視線を感じる。寿美さんと友江ちゃんがじっとこちらを見ていた。

「可愛い……」

 声を揃えて、お姉ちゃんチームは大袈裟にときめいてみせる。

「先生、こっちもやりましょう。」
「え、私達がやっても可愛くないでしょ?」
「そんな事言わずに……」
「もう、しょうがないわね……。」

 友江ちゃんはオレンジのオムレット、寿美さんはかぼちゃプリン入りモンブランと、それぞれ自分のケーキを相手に食べさせた。寿美さんのみ、唇に残ったクリームを拭いてもらうおまけ付きだった。大人の女性同士だから、可愛いというよりはどこか艶っぽい。余りじっくりと見てはいけないような、ちょっとした背徳感を覚える。

「どうだった?」
「どきどきしました。」

 軽く期待顔の寿美さんから感想を聞かれ、ひなちゃんの答えにゆらも頷く。渋々だった友江ちゃんも、照れながら笑っている。満更でもなかったようだ。

「食べ終わったら、ちょっと外を歩かない?風に当たりたくて。」

 友江ちゃんが皆に提案する。ケーキの食べさせっこをしたから暑い、という訳ではなく、暖房で体が火照ったからだ。全員が自分のお皿を食べ終わってから、四人は会計を済ませて外に出た。
 両手を腰に当てて、寿美さんが伸びをしている。アクセサリー部の荷物は彼女の自宅に置いてあり、今は全員が手ぶらだった。後日友江ちゃんがそれを受け取ってから、ゆら達の分を近知家へ預け、最後にひなちゃんが自分の物を取りに行く。という段取りになっている。

「南に行く?先生。」
「そうね。」

 スカイプラザは南北に長い建物で、屋上庭園の出入り口もその両端にあった。ブルー・ラインズは庭園内の北西に位置するので、散歩するなら遠くの南出入り口に向かうのが良い。
 友江ちゃん達が前を歩き、ゆら達は後ろからついて行く。煉瓦で囲われ、格子状に並ぶ芝生の間が通行路になっている。そこは暖色のタイルで舗装されていて、全体に落ち着いた色合いだった。今日は晴天だけれど、芝生上のベンチには人影が殆どない。やはり冬場だからだろう。植え込みに使われている植物も、トベラやジンチョウゲなど、春から夏にかけて開花するものばかりだ。
 但し、クリスマスが近くなると庭園の要所には小さなツリーが置かれ、電飾で飾られる。そうなれば単に通行するだけ以外の人もまた増えて賑わう。そしてクリスマスと言えば。
 ひなちゃんの調査によると、寿美さんは暑さには比較的丈夫だが、寒さへの耐性は低そうだと言う。だからプレゼントにはマフラーや手袋か、もしくはレッグウォーマーのような、就寝中に体を暖める道具が良いのではと相談していた。
 今日は寿美さん達と別れた後、ゆらがひなちゃんの家へ寄り、おばさんも交えてプレゼント購入の日を決める事になっている。早津でそういった買い物をするならプラザが適しているが、ここは彼女の職場なのだから、途中で鉢合わせしてしまう可能性が無いとは言えない。そんな理由から、ちょっと遠出をする必要があった。だったら、近知家と彼野家の女性陣でついでにドライブしてこよう、というのがゆらのお母さんの意見だ。

「ひなちゃん。」

 名前を呼んで右手を差し出すと、彼女は左手でそれに応えた。今こうしていても可愛いと思うけれど、二人きりになった時、子猫のように甘えるひなちゃんはもっと可愛い。長時間ではないにせよ、今日も部屋で一緒に過ごす事が出来るだろう。

「ちょっとゆら……」

 小声でひなちゃんに咎められる。どうやら顔が緩みかけていたようだ。その会話を受けてか、前の二人が後ろを振り返った。手を繋いで歩くゆら達を見て顔を見合わせ、ちょっと微笑んでからまた前へ向き直る。
 今ゆらは、ひなちゃんに歩く速度を合わせていると思っていた。でも考えたら、二人だけで歩く際とやや感覚が違う。きっと誰が誰に合わせる訳でもなく、この四人だから生まれるペースがあるのだと、ゆらはそう解釈した。
 ひなちゃんは勿論の事、友江ちゃんや寿美さん、つまり自分の愛すべき人達と、ずっとこうしていきたい。そんな気持ちでまた一歩を踏み出す。手から伝わる温かさを、胸の奥でも感じながら。




 終わり




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