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 もう暑い季節に入り、ガラス壁の濃い琥珀色を通しても外の日差しは眩しそうに見えた。日曜日のお昼過ぎ、ここ美容室「リマソール」ではお客さんが途切れない。有り難い事だと思いながら、佐恵(さえ)はさっき手の空いた隙にドリンクゼリーを摂っておいた。
 ドアを開けると、実際目を細めてしまう。カットを終えたばかりの女性を送り出す為、今連れ立って外へ出たところだ。

「シャンプーして、すぐ汗かいて、ねぇ。」
「本当、たまらないですね。」

 30代半ばくらいの彼女は、近所から歩いてお店まで来ている。今日は子供が家にいるから、帰りにおやつでも買っていこうかと話していた。
 その背中がちょっと離れるくらい見送ってから、佐恵は店内に戻った。ドアを開けて正面がレジ、その右手に待合スペースがある。長椅子に座って雑誌を読んでいる少女が次のお客さんだ。

「大野司(おおのじ)さん、お待たせしました。」

 呼ばれた少女は立ち上がって佐恵の方へ近付く。素足にサンダル、膝丈のスカートとTシャツを着て、その上からゆったりしたボレロを羽織っている。

「よろしくお願いします。」
「上着、預かりますよ。」

 脱いでもらったボレロをレジ向こうのクロークに預けてから、彼女をセット面まで案内した。椅子に座らせてから高さを合わせ、クロスを被せてあげる。

「改めまして、砂津(すなつ)佐恵です。これから大野司さんの担当をさせて頂きます。」
「えっと、大野司優生(ゆう)です。いつもお父さんがお世話になってます。」

 今日、優生は予約を入れた上でリマソールを訪れているが、その手続きをしに来たのは父である大野司聡太(そうた)さんの方だった。彼は常連客の一人で、4年ほど前から通ってくれている。先週、閉店間際の時間に大野司さんが現れた為、佐恵はカットの予約をしたいのだろうと思って応対した。

「実は、僕じゃなくて娘の予約をお願いしたいんですよ。」
「娘さんですか?」
「ええ。髪をもっと短くしたいって言うんですけど、それだったら、砂津さんに切ってもらおうと思って。」

 という会話をその時に交わしたのを振り返る。優生の後ろ髪は現在、背中の真ん中まであった。

「今日はどんな感じにしますか?」
「肩ぐらいまで切って欲しいです。」
「どんな形にします?仕上がりというか。」
「形は、うーん……」

 どうやら具体案は用意されていないようだ。そこでヘアカタログを出して二人で相談し、ドロップボブで行こうと相成った。彼女は中学2年生だそうなので、適度に幼さのある完成形を頭に思い描く。

「肩よりもうちょっと上、うなじ辺りまで切っても良いですか?」

 優生は目を閉じてその自分を想像してから、承諾してくれた。まず後頭部の、初めにカットする部分以外をブロックして髪質を確認する。毛は細い方、外側の髪がストレートに手入れされているのに対して内側は少しうねりがあるようだ。それを踏まえ、完成形のイメージに修正を加えながら作業に入る。

「今まではよそでカットしてたんですか?」
「いえ、ずっと家で切ってました。前髪は自分で切って、後ろはお父さんがしてくれるんです。」
「お母さんじゃないんですね?」
「あー、お母さんは一緒に暮らしてないんで……」
「あ、ごめんなさい。知らなくて。」

 大野司さんとはそういった会話をした事がない。ただ、リマソールは駅前にあって、彼の自宅は結構離れている。何故ここを選んだのか訊いたら、カットの帰りに色々買い物を出来るからだと答えていた。何かの事情で大野司家が父子家庭になっているのなら、それも合点がいく。家事も積極的にするタイプの人かとてっきり思っていたが、やらざるを得ない状況なのだ。

「お父さんはここのお店にしなさいって、凄く勧めてきて。砂津さん、上手なんですね。」
「いやぁ、どうでしょうね。」

 お父さんがここを勧めた理由は、優生が想像しているのとは多分違う。年頃の娘を、なるべく自分の目の届く行動範囲に置いておきたいという親心だろう。二人暮らしなら尚更心配な筈だ。自分が仕事に行っている間、この子は一人になってしまうのだから。
 途中、他のお客さんにも寄り道しながら優生のカットを進めていく。前髪を切る際に彼女の前に立つと、それに合わせて目を閉じてくれた。今回、年齢相応の可愛さを演出する為には前髪の長さや形が重要だ。目を閉じている優生の顔立ちを観察してみる。まだ幼いけれど、大人になれば派手めなメイクでも似合いそうだった。と、下の方で膝を擦り合わせるような動きが目に入る。恐らく、冷房で足が冷えてきたのだろう。佐恵達スタッフが動き回っているのに対し、お客さんはじっとしているから、こういう人もいなくはない。

「膝掛け持ってきましょうか?」

 佐恵の言葉に一旦目を開けた優生は、頭だけをぺこりと下げて、お願いしますと返答した。思った通りだった。急いでクロークまで行って、膝掛けを取ってくる。

「クロスを持ってて貰えますか?」
「はい。」

 優生がスカートをたくし上げるようにクロスを持ち上げる。膝小僧や脛の素肌が綺麗で、その瑞々しさにちょっと見とれながら膝掛けを乗せてあげた。

「出来ましたよ。」
「ありがとうございます。」

 えへへ、という表情でお礼を言う優生は可愛らしく、心の中で喜びながら佐恵は前髪の作業に入った。少しずつ目標の形を作り、時々鏡で本人に確認しながら完成させる。それが済んだらもみ上げ辺りの髪を整えて、カット自体は終了だ。
 シャンプーとブローまで終えてから、レジカウンターの側にある姿見へ優生を案内し、全身を映してみせる。

「おぉ……」
「どうですか?」
「お父さんに自慢します。可愛くしてもらったよって。」
「ありがとうございます。」

 料金の支払いを済ませ、店の外で佐恵にもう一度頭を下げてから、優生は帰っていった。さて、と一呼吸おいて、そろそろ昼食を取るべきだと考えながら佐恵も店内に戻る。





 この日は閉店後の仕事も終えてから、午後10時前に店を出た。リマソールは三浜市(さんのはまし)の駅南側に近接している。ここは谷久川(やくがわ)という大きな川が中央を南北に流れており、土地を分断していた。駅は東側の大体中央に位置し、佐恵の自宅は川東岸沿いの市最南部にあるから、お店から南西方向へ下っていく。愛用の折り畳み自転車で。雨の日の場合は朝だけバスで出勤し、帰りは店からタクシーを呼び出している。佐恵の帰宅する時間帯には終バスも無くなっているからだ。体は楽な代わり、少々お金がかかるのだった。
 河川敷からもう一本東の道路に入って、コンビニに自転車を停める。味噌汁に入れるつもりの豆腐と、マカロニサラダ、白菜漬けを購入してから再び南へ向かった。ここからは角を曲がらず、真っ直ぐ進むだけで佐恵の住むマンションに着く。
 帰宅して荷物を片付け、今夜と明朝の分のご飯を炊き、その間に入浴を済ませる。風呂場を出たらドライヤーを出してきて、ソファーに陣取った。テーブルを挟んで向かい合っているテレビを点け、無音で適当な番組を流しながらブローをする。専門学校時代は髪を長くしていたけれど、今の佐恵は男性的なショートヘアだ。スタッフ間では勝手に「イケメン刈り」と名付けられている。別に中性的な顔立ちでもないのにそれはどうかと思いつつ、他に上手い呼び方も出てこない。
 髪をほぼ乾かしたところで、携帯が震えだした。発信者には父・孝久(たかひさ)の名が出ている。

「もしもし。」
『もしもし。お父さんです。今何着てる?』
「パジャマだよ。」
『いや、何”してる”って言ったの。』
「あぁ、聞き間違えたよ。これから飯さ。」
『そうか。次の連休にそっち行きたいんだけど、どっちが空いてる?』
「うーんと……」

 首を右に曲げて、ソファーの背後に貼られているカレンダーを見た。リマソールは月初めに連休がある。来月、8月5日の方は友達と会う予定が書き込まれていた。

「8月6日の方だね。」
『じゃあ、晩飯作りに行く。』

 父は母・実穂子(みほこ)と交代で、たまに様子を見に来る。佐恵は忙しい仕事をしていて、食事が偏っているのではと心配らしい。例えば味が濃かったり、油っぽい物は元々控えているけれど、それとは別に内容の簡素さは否めない。だから毎回有り難く栄養を頂戴している。

「魚食べたい。」
『まだ何も訊いてないべ。でもそうだな、鰻か?』
「おぉ、鰻!あれって魚?」
『分からん。おかずは俺が考えていいか?』
「いいよ。そう言えば今日ね……」

 父に少しだけ優生の話をして、長電話にならない内に切り上げた。そのまま立ち上がり、台所で一食分の味噌汁を作る。豆腐に加え、冷凍ほうれん草も投入しておいた。それが済んだら、サラダと白菜漬けを皿にあけて出来上がり。漬け物を残しておいて、朝にはお茶漬けでもしようと考えながら、ご飯をよそう。「いただきます」も何も言わず、黙って箸を付けた。
 佐恵にとって父は継父で、普段意識する事はないが、世の中の状況からすれば、自分達は上手くいった方なのだなと思う。
 母は佐恵が小1だった時に実父と離婚した。彼は佐恵が生まれても育児に参加しようとせず、煩わしい家事はとにかく嫌がったそうだ。母の不信感は募り、やがてそれを隠さなくなって、二人は衝突しだした。結局のところ、家庭を持つというのも、実父にとっては自分を飾るステータスの一つに過ぎなかったのだろう。良い車を買ったり、家を建てたりするのと同じ。そう母が話していた。
 離婚後、母は軽貨運送の仕事に就いて佐恵を養い始める。行き先の一つに輸入青果の販売会社があって、そこに今の父がいた。

「お父さんはバツイチとかじゃなかったから、付き合うのには慎重だったけど……」

 そう言う母も、佐恵が父と仲良くなれたので結婚を決めたらしい。当時佐恵は小3で、遡ると、父との初遭遇は小2の頃だ。母が仕事中に腰を痛め、一週間入院した。平日はアパートで隣室だったおばさんが面倒を見てくれたのだが、週末は実家に用があるそうで、土日の間佐恵は一人になってしまう。どうするのか尋ねたら、お母さんのお友達が来るよ、と。お友達と言うからには女性なのだろうと想像していたら、おじさんだと説明されて驚いたのだった。
 でも、砂津のおじさんは付きっきりで佐恵を世話してくれた。この時、別に母を介さずとも馬が合う相手だなと、無意識に確認していたからすんなり親子になれたのだ。
 あの土曜も丁度今のような真夏で、夕食に二人してカレーを作った。佐恵はピーラーで野菜を剥いて、あとは食べる直前にサラダを盛りつけた憶えがある。父はとても褒めてくれて嬉しかった。しかし、翌朝にちょっとした事件が起きる。残ったカレーを温めてご飯にかけ、いただきますと口に運んだ直後、父が平手を突き出してきた。「ストップ」の意らしい。

「佐恵ちゃん、食べないで。」
「どうしたの、おじさん?」
「酸っぱい気がする。」

 昨夜は日中から気温が余り下がらなかった為、カレーが傷んでしまったようだ。小学生の生活スケジュールに合わせて、早めに調理していたのも良くなかった。

「凍らせとけば良かったかな……。一口食べちゃったよ。」
「大丈夫だよ。」
「そう?」
「うん。だって今日はお休みだから、お腹壊しても平気。」
「それは平気って言わないよ……」

 幸い父のお腹は無事だった。この一件があってから、砂津家は宵越しの料理に対して慎重になっている。寝る前に火を通したり、冷凍や冷蔵が出来る物はそうしたり。夏なら、なるべく食べきれる量しか作らないなど。
 味噌汁を飲み干して台所に立ち、テレビももう見ないので消してしまう。再び、子供の頃を思い出しながら食器を洗った。実父は離婚後に仕事を変え、今はどこにいるのかも知らない。ただ、佐恵と母が現在の円満な家庭環境を手に入れる為に、彼はある種、必要な存在だったとも言える。映画で言えば悪役だ。このように人それぞれ、自然と何らかの役割を果たす機会があるのなら。自分は優生にとってどんな人物になり得るのか。片親という共通点からか、あの子を構ってあげようと佐恵は思っていた。





 翌々日、定休日でお店は開いていない。佐恵は午後から、恒葉化学(こうようかがく)という理美容品メーカーが提供しているセミナーを受講してきた。今回は著名な美容師の人を招いて、ヘアデザインの講義と、実際にモデルさんを使ったライブ。という内容だった。ノートは取ったし、実演もじっくり見てきたが、その技術がすぐに自分の手で再現出来る訳でもなく、やはり練習だな、と気持ちを新たにする。
 会場は迫原(せりばら)市という、三浜から快速電車で30分程の都市で、ちょっと都会の町並みを探索した後、今お馴染みの駅前に帰ってきたところだ。夕食の準備にはまだ時間があるから、一度家に荷物を置いて、河川敷へ散歩に出ようかと思う。
 自宅のドアを開けて台所を抜け、奥の部屋でソファーにバッグを乗せる。エアコンを点けてから振り返って台所向かいの洗面所に入り、手を洗った。最初はこのまま出ようとしていたけれど、ちょっと汗ばみ具合が気になるので、服を全部脱いでシャワーを浴びてしまう。風呂場を出た後、2Kの間取りの内、ベッドやクローゼットを設置してある方に行ってジャージを引っ張り出してきた。それを着てからスニーカーを履いて外へ出る。汗拭き用のタオルも首に巻いておいた。もうすっぴんだから、どれだけ拭いても構わない。
 河川敷をずっと北へ進んで行くと、幹線道路及び谷久大橋(やくおおはし)という、市内で最も太い橋と交差する地点に着く。そこの三浜憩い園(いこいえん)という公園を、佐恵は目的地に決めた。歩くと遠いかな、という事で自転車に乗り込む。これだと「散歩」とは言わないかも知れない、サイクリングでもないし、何と名付けたものかと考えながらゆっくりペダルを漕ぐ。
 橋は一本だけではないので、途中で西岸からやって来る人にも幾らか出くわす。谷久川の両岸を周回するコースを自分で設定し、ジョギングしていると思しき女性が目の前を通っていった。佐恵の現在地は谷久第三橋(だいさんばし)のほとりだ。向こうから犬を散歩させる人が来ている。こちらに手を振っているのと、つい最近見覚えのある髪型だと思ったら、優生だった。

「砂津さーん。」

 橋を少し渡った所で合流し、佐恵が引き返す感じで岸まで一緒に歩いた。優生は半袖のポロシャツに、ジャージとスニーカーを履いている。ワンショルダーのリュックには、例えば糞を回収したり、散歩に必要な道具が入れてあるのだろう。

「大野司さん、こんにちは。わんちゃんの散歩ですか?」
「砂津さん、優生でいいです。敬語も、出来れば……。わたしの方がずっと子供ですし。」
「じゃあ、優生ちゃん。私も佐恵でいいよ。」
「はい、佐恵さん。で、この子はニックです。」

 ニックは灰毛と白毛のボーダーコリーで、大人しく座って佐恵の方を見ている。試しにしゃがみ込んで背中を撫でてみたら、ちょっと体を寄せてきた。

「ニック、撫でられるの好きでしょ?」

 優生の問いに、一声鳴き返す。会話が成立しているのか疑問だが、撫でられるのは本当に好きなのだろう。

「男の子?」
「そうです。」

 そろそろ行きましょう、と優生が歩き出したので、佐恵も自転車を押して横に並んだ。ニックは二人の間で、やや先に出ている。

「優生ちゃん、すぐ私だって分かった?」
「こないだ間近で顔を憶えましたから。」
「そっか。私は憩い園まで行くんだけど、一緒に行かない?」
「あ、わたしもそうなんですよ。後輩と待ち合わせしてるんで。」

 後輩と会った後、更にどこかへ行く訳ではなく、彼女はニックに会うのが目的らしい。

「その子の家はペット禁止のマンションだから飼えないんですって。それでたまに、ニックを連れてって、会わせてあげてるんです。」

 二人と一頭は北上し、憩い園の付近までやって来た。その入り口は東西南北4ヶ所にあり、佐恵達は河川敷に面した西口に向かっている。事前に優生がメールで場所を伝えておいたので、既に待っている人が一人。セーラー服の少女だ。

「優生せんぱーい。」
「ゆかりちゃーん。」

 手を振ると、ゆかりの上半身も揺れる。長い髪を後ろで二つ縛りにしているようだ。まずニックが彼女の前に辿り着き、足元で何度か吠える。

「ニックー!撫でてもいい?」

 鞄を路面に置き、しゃがんでニックを撫でようとするゆかり。が、ニックはその膝に前足を掛けてくっつこうとする。彼女は重みで地面に膝をついてしまった。

「あらら。ニック、離れて。」

 優生がリードを引くと、ニックは足から下りて、優生の側に戻ってきた。

「撫でる?」
「いえ、また後でいいです。」

 撫でられなかったものの、ニックに抱き付かれて満足そうなゆかりは、佐恵の方に視線を向ける。

「先輩のお姉さんですか?」
「ううん、私はただの知り合いで……」
「わたしの髪を切ってくれたの。美容師さん。」
「あ、砂津さんですね。」

 ゆかりは佐恵の事をある程度、優生に聞いているらしい。そこで自己紹介を簡単に済ませ、三人で公園の内周に沿って歩き始める。佐恵の自転車には小さな荷物籠が取り付けてあり、ゆかりの鞄を乗せてあげた。ちょっとはみ出している。公園の中心からは小学生の声が耳に入るが、そろそろ子供は帰宅する時間が近付いているから、まばらにしか聞こえない。

「ゆかりちゃんは優生ちゃんとどう知り合ったの?」

 近所同士でもないようだし、学年が違えば接点も限られる。多分、部活だろう。

「私達、書道部に入ってるんです。」
「ほぉ。」

 入学式を終えると、校内に専用の掲示板が設置され、各部活が活動内容の紹介や、部室の所在地などを記した宣伝ポスターを張り出す。書道部では優生が掲示担当だった為、その作業をしていたところへゆかりが来た。彼女は小学校時代に習い事で習字をしていたので、一番先に見学しようと考えていたそうだ。

「見学中にニックの話になって、ゆかりちゃん、うちに入ってくれたんだよね。」
「はい。犬も猫も好きなんで。」
「書道はどこ行ったのさ……」

 彼女らは月水金の週3日、集まって活動している。和室ではなく、技術室を使っているらしい。万一、畳に墨汁をこぼすと汚れるからという理由で。

「でも大きいテーブルに道具を並べて、皆でやるんです。楽しいですよ。」
「真ん中におやつを置いて。ね、優生先輩。」
「そう。油っぽいお菓子は禁止で。『ポテチは家で食え』って、卒業した先輩がよく言ってました。」

 話を聞いていると、本気で全国レベルを目指すような部活ではなさそうだ。ただ、本人達が楽しいなら問題ないだろう。

「二人とも、ベンチあるよ。飲み物買ってあげる。」
「いいんですか?ありがとうございます。」

 自転車を停め、佐恵はベンチ横の自販機に向かう。この場で飲みきれる物を、という事で缶コーヒーを三人分購入した。座って待っている優生達にそれを渡し、自分も腰を下ろす。

「先輩、おもちゃありますか?」
「ニックと遊ぶ?じゃあ、コーヒー持っててあげる。」

 優生はリュックから紐付きのボールを二つ出してゆかりに持たせた。ゆかりはベンチから少し離れ、ニックを呼ぶ。二刀流ボールで動き回る二人は、掛け声と鳴き声でコミュニケーションしている。

「佐恵さん、メアド交換してくれませんか?」
「いいけど、何話したらいいのかな……。」
「何でもいいです。わたし達も適当に送りあってますし。」

 知り合ったばかりで早いような気もしつつ、適当でいいなら構わないかと、携帯を取り出す。

「どうやってやるのか、毎回忘れてるんだよね。電話帳に追加でいいのかな。」
「一発で送れるようなの、ついてないですか?」

 佐恵はスマートフォン、優生の方は普通の携帯で、結局どうすれば簡単にアドレスを交換出来るのか分からず、一回メールを送りあって登録した。

「夜、何時まで平気なの?」
「何時でもいいですよ。寝てる間は音出さないようにしてるんで。」

 そこへゆかりが戻ってきた。ベンチに座り、足元に手を伸ばしてニックの背中を撫でる。

「いやー、汗かきました。」

 優生から缶コーヒーを受け取って、一気に飲むゆかり。

「ゆかりちゃん、タオルあるよ。それと、ニックにも水ね。」

 優生は多分自分用だろうタオルをゆかりに貸し、ニックには携帯用の水ボトルから、受け皿に水を注いであげた。

「砂津さん、私もメール……」
「したいの?」
「はい。」

 何故かと思ったら、ゆかりもリマソールに来たいらしい。アドレスを登録すると、「大野司優生」と「掛川(かけがわ)ゆかり」が丁度並んで表示された。

「私の髪、触ってみてもらえますか?」
「うん……ちょっと待ってね。」

 ゆかりの前まで立っていって、彼女の後ろ髪と前髪を暫く触ってみる。良く手入れされているので柔らかい感触になっているが、本来はもう少しごわついた髪質なのだろう。

「サロンのトリートメントって、効くかなと思って。そういうの、やってます?」
「ヘアケアコースっていうのがあるよ。それで手入れしたら、今よりつやつやした感じになると思う。」
「お願いしたいです。子供の頃、硬い髪が嫌で。女の子っぽいのに憧れてるんです。」
「そっか。ゆかりちゃん、可愛いタイプだから……。」

 格好良い雰囲気にはちょっと遠い外見だし、本人が希望する通りの方向で良いのではと、話していたところへニックが割って入ってきた。

「よし、行こうか。ニックの好きなの。」

 再び歩き出した一行は、公園の中心部に向かい、ジャングルジムの前に並んだ。さっきまで二人で遊んでいた男の子もいなくなり、現在貸し切り状態と言っていい。

「ニック、登れるの?」
「いえ、犬だから登れませんけど……。この入り組んだとこに入り込むのが好きみたいです。」

 リードを外されたニックはジャングルジムの中へ入っていって、ゆっくり歩き回りながら時々こちらを見てくる。

「広いおうちだと思ってるのかな?建設中の。」
「そうかも知れませんね。うちでも普段はケージに住んでるんで。」
「私、入っていけるかな。」

 ゆかりは背を屈めて鉄骨の隙間に入れないかと試みる。かなり窮屈そうだ。

「うぁ、無理だ。」
「ゆかりちゃん、汚れちゃうよ。」

 ちょっとニックを誘い出してみようと、佐恵とゆかりで紐ボールを持ち、それぞれ違う方向から気を引いてみた。ニックは転がってくるボールをジャングルジムの中へ引き込もうとし、佐恵達は取られないように引っ張る。勿論本気で避けたら駄目なので、時々ボールを取らせてあげた。ひとしきり楽しんでから、優生がささみスティックを見せてニックを外に呼ぶ。

「ニック、帰りたがらなかったりしない?」
「あんまりないですね。散歩して、おやつ食べたら休みたくなるみたいで、むしろ帰りたがります。」

 じゃあ今日はこの辺で、とゆかりが言い、解散宣言が出された。

「優生ちゃんは料理するの?」
「はい。本とかネットを見て、その通りに作るだけですけど。」

 三人は憩い園を出て、途中まで一緒に歩いた後に別れた。夜には早速優生がメールを送ってきていて、短い文章に写真が添付されている。ケージに入ったニックと、大きさの比較対象として大野司さんが側に写っているのだが、なかなか立派な家に住まわせて貰っているようだ。それに対して、ゆかりの方は丁寧で長い文を送ってきた。夕方に話した髪談義の続きが書かれている。何となく性格が出ているのかな、と思いながら返事を考える佐恵。ゆかりの場合はただ訊かれた事に答えればいいが、優生はどうしたものかと迷う。結局、目の前にある食事を撮影して送っておいた。件名は「飯」。
 翌朝、いつの間にか来ていた優生の返信を見ると、『そんな時間に食べてるんですか!?』との事だった。そう言えば、一般に夕飯時とされている時間帯ではないのを忘れていた。『そもそもお昼からして遅れてるから、別に平気』と返しておく。





 と、暫く生活リズムの会話が続いてからの週末、優生が一つ提案をしてきた。次週の前半、大野司さんは出張に行くので、佐恵が休みの日にお泊まりをしないかと言うのだ。その相談をする為にはメールだけのやり取りだと面倒になり、直接電話をするようにもなった。

「お父さんにはちゃんと話したの?」
『はい。佐恵さんなら良いって言ってました。電話、代わります?』
「いや、いいよ。私が優生ちゃんちに行くんだよね。」

 大野司家にはニックがいるから、優生が家を空ける事は難しい。一軒家に遊びに行くのは、美容師になってから初めてかも知れない。

「何かデザートでも買っていくよ。」
『ありがとうございます。それと、一緒にご飯作ってくれませんか?』
「下手でもいいなら。」
『わたしも下手だから大丈夫です!』

 それを大丈夫と言っていいのか分からないが、きっと楽しいだろう。当日は優生が佐恵に寝る時間を合わせてくれる。その時に映画でも見ようかとなった。

『佐恵さんが、いつもご飯食べてる時間ですよね。だから、ちょっとおやつでも用意して……』
「作ってくれるの?」
『手作りは無理です……』
「あら、そっか。それなら、私が自分でお菓子持ってくさ。優生ちゃんも食べる?」
『わたしは食べれないですよ。』

 翌朝の分まで、二人で盛り上がりながらスケジュールを決めていった。ただし、当日が近付いて冷静になってみれば、初めての訪問がいきなり泊まりというのは実のところ、難易度が高そうだ。優生は当然、大野司さんに自分の話をするだろう。場合によっては写真付きで。ならば彼の心証を悪くするような行動は控えないといけない。単なる友達ではなく、二人はお客さんでもあることを若干失念していた。この間のように素顔素髪では駄目だから、メイクをして、服装もきちんとした物を、などと考え出すとデートへ出掛ける時の気分になってくる。お父さんにも気に入られないとまずいのなら、ちょっとお見合い的かも知れない。美容師と中学生女子がお見合い。料亭かどこかで、着物姿で向かい合う自分達の姿が脳裏に浮かぶ。
 クローゼットの中を眺めながら、変な絵面だな、と佐恵は一人で笑ってしまった。





 その時に選んだ服を着て、また後日に買ったお土産と、泊まり用の荷物を携え、当日の行きはタクシーを呼ぶ事にした。最初の移動は汗をかかず、大野司家に着いたらすぐ写真を撮ってもらう。優生に、よそ行き状態でまだどこも崩れていない自分を記録させる計画だ。
 佐恵の家から川を挟んで、やや北西の方角に向かった住宅街。大野司家はその中にある。古くからある家々の方ではなく、新しく整地された新興の区画にタクシーは入っていった。優生に教えられた住所のメモと、携帯の地図で運転手さんに指示を出しながら、目指す場所ぎりぎりまで乗り付ける。

「ここでいいですか?」
「はい。ありがとうございます。」

 料金を払った後、荷物を持って歩道に下りた。茶色い屋根に白い壁、更に煉瓦の塀と「大野司」の表札が目の前にある。インターホンにはカメラが付いているようだ。紺のスキニーパンツにスニーカーパンプス、上着は全く飾り気のない白ブラウスと、自分の全身を再確認してからボタンを押した。

『はい、大野司です。』
「佐恵です。着いたよ優生ちゃん。」
『今開けますね。玄関の前まで来ちゃって下さい。』

 言われた通り玄関前で待っていると、すぐ優生が出て来た。下はデニムに上が白いチュニック、シンプルな佐恵とは違って、袖と裾がスカラップの可愛い物だった。

「こんにちは。とりあえず上がって下さい。」

 優生が出してくれたスリッパを履き、お土産の紙袋を両手で開いて見せる。

「これ、水ようかんね。お父さんの分も買ってきたつもりだから、全部食べないでね?」
「いや、そんなに食べませんよー。」

 佐恵の横に並んで、袋を覗き込む優生。玄関先の姿見に二人が映っている。

「優生ちゃん、あれ見て。」
「何ですか?」

 ほぼ同じ色の服装をした自分達を指す。一緒に鏡を見てから、今度はお互いに視線を交わした。

「姉妹みたいだよ。」
「確かに……」

 そう言えば最初に店の外で出会った時も、揃ってジャージを着ていた。という話をすると、この場におけるにわか姉妹度もまた上昇した。

「……妹!」

 と大きく腕を広げて優生に抱き付くふりをしてみせる。だったのが、優生が一歩も体を動かさなかったので普通に抱き付いてしまった。

「佐恵さん……」
「うん、ごめん……。」

 困りつつ笑う優生から離れ、一緒に室内へ入る。大野司家の外観は逆L字の形をしており、キッチン、リビング、風呂場など共用空間が玄関側に集中していた。奥の方に進むと、個人向けの部屋が一つと2階に登る階段がある。ニックの住むケージはその一部屋に設置されていた。階段のすぐ手前、縁側に面した位置だ。まず引き戸を開けて中を覗き込む。

「ニック、起きてる?」

 部屋に入りながら優生が呼び掛けると、ケージの扉辺りにニックが歩いてきた。佐恵の方を窺っているように見える。

「この人、覚えてる?わたしの友達だよ。」

 外に出されたニックに、佐恵の方から近付いてしゃがんでみたが、警戒している雰囲気は無い。そこで正座して彼を抱きかかえるように手を伸ばす。最初「ん?」という表情をしたものの、遠慮がちに乗ってきてくれた。背中を撫でても大人しくしている。

「慣れてきてますね。そのままリビングまで連れていきましょう。」

 優生の後ろから、佐恵はニックと並んで付いていった。

「いつもこうやって留守番してるんだ?」

 リビングに入り、家族向けの大きなソファーに座りながら尋ねる。ニックは立って、佐恵の膝くらいの高さに鼻先を出している。

「はい。でも小さい頃はしつけが大変でした。ケージがうんこ大会になってたり。」
「大会!それは優生ちゃんが掃除するの?」
「そうです。その時はわたしも小学生だったから色々出来たけど、今なら無理かも知れません。」

 単純に時間を食う作業の他に、食事や睡眠は常にケージ内で行わせ、ぬいぐるみなど、添い寝系のおもちゃも外には置かないといった具合に、ここがニックにとって一番居心地の良い空間だと思ってくれるように粘ったそうだ。

「それもまた別の意味で時間が必要だよね。根気というか。」
「おかげで、今は一日お留守番してても平気になりました。その代わり、わたしやお父さんが家にいる時は、すごい構ってあげてます。」
「散歩は?夕方だけ?」
「朝にも行きますよ。朝散歩はお父さんが自転車で連れてくんです。わたしはその間にご飯を作って。」
「毎日かー。偉いんだ。私なんかそんなの続かないよ。」
「もう慣れてるんで、自分では特にどうも思わないですね。」

 話している間に、ニックは優生のそばへ行き、膝に飛び乗って胸元に上半身を預けていた。その頭を撫でながら優生は次の話を切り出す。

「これからニックの散歩に行って、その時に夕飯の材料も買おうと思ってるんですけど……」

 既に決定しているメニューは、青椒肉絲、ニラと卵の味噌汁に、適当な野菜を使ったサラダだそうだ。更にもう一品、簡単に出来る物を加えようと考えていたら佐恵が到着したらしい。

「ネットで調べてみようよ。いつもやってるんだよね?」
「じゃあ、佐恵さんの携帯で見たいです。スマホ、どんな使い心地か興味あって。」
「画面でかくて良いよ。操作とかはまあ、普通だと思う。」

 レシピを検索するならまず食べたい素材を決めなくては、と二人で意見を出し合い、厚揚げ豆腐が候補として生き残った。

「あれ、うまいよね。給食で出なかった?肉味噌かなんか乗ってるやつ。」
「わたしのところは、野菜と一緒に煮込んだやつでした。」
「うまかった?」
「普通でした。」

 不味くはないけれど薄味で、ご飯のおかずとしては役不足だったと、優生はニックを床に放しながら答える。

「じゃあ、出掛ける用意しましょう。わたしは散歩道具を出してきます。」
「優生ちゃん、家の前で一回写真撮ろうね。」
「あ、わたしも頼もうかなーって思ってました。」

 優生が支度をしている間、佐恵は洗面所を借りて髪などを直しておいた。玄関から皆で表に出た後、ドアを背に並ぶ。近くのプランター台を引っ張ってきた優生は、更にハンカチを敷いて携帯をその上に乗せた。

「立ってると全員顔の高さが違うんで……」
「しゃがもうか?」

 ニックも巻き込んでポーズを作りながら、三枚写真を撮影した。それから佐恵も自分の携帯で優生とニックを撮らせて貰う。

「ついでついで。優生ちゃん、ニックを抱っこして。」
「無理です。重いですもん。」
「じゃあ、おんぶ。」
「それ、撮りたいですか?」
「いいえ……。」

 ここでニックが早く散歩に行こう、と催促したので一行は歩道に出て歩き出した。前回は川の方へ向かったが、今日は大野司家の西にあるスーパーに寄るから、川と逆方向に進んでいく。途中、住宅街の終端に児童公園があるのを確認出来た。優生はいつも買い物帰りにニックとここに寄るとの事だ。
 公園から道を横切っていくと、2区画目に太い道路に出くわす。幹線道路に交差するよう延び、ローカルな商店も点在している通りだった。

「スーパー矢一(やいち)って知ってます?」
「あるのは知ってるけど、行った事ないよ。」

 佐恵は駅前にある全国チェーンのお店を利用するので、こちらでは一度も買い物をしていない。程なく見えてきた矢一の看板をくぐり、駐車場を突っ切って入り口に向かう。

「佐恵さん、ここはペットを繋いでおける場所があるんで、そこで待っててもらえますか?すぐ戻ります。」
「うん。それじゃニック、おいで。」

 優生からリードと、散歩道具入りの鞄を受け取ってペット用のスペースに行ってみた。駐車場の隅の空間をガードパイプで囲ってあり、そこに先客が一頭繋がれている。フォックスハウンドで、ニックより若干大きい。佐恵は犬を飼った事がなく、知らない子同士どうするのかと思っていると、ニックから近付いていってフォックス君の匂いを嗅ぎ、その後鼻面だけでじゃれ合うような感じになっていた。友好的に対面出来たようだ。
 佐恵はパイプに腰掛け、遊んでいるらしき二頭を眺め、更に空を見た。もう夕方だし、ここは日差しの届かない位置なので眩しさも感じない。とは言えやはり暑くはある。

「毛皮、暑いよね。」

 ニックの背中を撫でてあげると、もうちょっと続けてくれ、という表情で佐恵を見返した。

「よし、ここか?ここか?」

 そんな事を繰り返している内に優生が戻ってきた。サラダ用の野菜と厚揚げ豆腐、後は足りない物をいくつか買ったらしい。それとは別に、アイスを二本持っていた。片方を佐恵に差し出す。

「佐恵さんにお土産です。」
「気が利くねぇ。どっちがお勧め?」
「両方同じですよ。」

 バニラ味のアイスと買い物袋を受け取り、リードを優生に渡した。フォックス君に手を振ってから元来た道を歩き始める。

「豆腐に何乗せる?」

 豆腐自体も味を付けて焼くが、それだけだと単調なので薬味を合わせる。とレシピサイトに書かれていた。

「ネギですかね。」
「万能?」
「しらがです。」
「私、生姜がいいな。チューブの、ある?」
「ありますよ。じゃあ佐恵さんのはそれにします。」

 話しながら信号待ちで立ち止まる。アイスが無くなったので棒を集め、散歩道具のごみ袋に入れておいた。優生の背中にあるリュックにそれを戻そうとしているところへ、着信音が鳴り出す。

「電話じゃない?……止まった。」
「メールですね。」

 そう言いながら優生は携帯を取り出して開いた。一旦横断歩道を渡ってからモニターを覗き込む。

「友達かな?」
「あー……お父さんの、付き合ってる人からです。」
「あら、そんな人いるんだ。」

 本当は誰からメールが来たか、優生は話したくなかっただろう。しかし彼女は表情の変化を佐恵に見られていて、ごまかし方も咄嗟に出てこなかった。それが分かるから、何も訊かずに歩き続ける。

「一人で大丈夫かって。」
「そう。」
「今日は一人じゃないからって、返事しました。」
「うん。」

 シンプルな返事で、この会話が早く終わるようにしてあげた。優生は力の無い笑い方で佐恵を見て、

「ごめんなさい。」
「いいって事よ。」

 髪を撫でてやると、優生はすぐに元気を取り戻した。などと簡単にはいかず、下がったテンションは維持されている。ここはニックと二人で盛り上げるべきかも知れない。ただ不必要に明るくしても、この子に気を遣わせるだけだ。その辺りの匙加減が、自分に出来るのかどうか不安を覚える。とは言えこうして考えている内に児童公園まで着いてしまう。大野司家よりスーパー矢一の方が公園に近いからだ。あと道路一本渡れば入り口、という位置に来て、ちょっと優生の顔を窺うと、彼女の目は別の相手を見ていた。

「優生ちゃーん!」

 向かいの歩道で、しきりに手を振っている子供が一人。信号が青に変わった途端にこちらへ向かってくる。それを優生が手振りで押しとどめて待機させた。
 佐恵達が反対側に辿り着いた所でその子も近寄ってくる。小1か小2ぐらいの女の子だった。

「嘉那(かな)、そろそろお家帰った方がいいんじゃないの?」

 まず優生が口を開く。どうやらご近所同士らしい。

「ううん、今出てきたところ。」
「お母さんは何か言わなかった?」
「優生ちゃんとこに行くって言ったら、いいって。」

 一人で出歩くのでなければ構わないという事だ。嘉那が一度帰宅したのにまた出てきたのは、室内から優生達の出掛ける姿が見えたからだった。普段ニックを散歩させる際に良く公園で遊んでいたのが、このところ余り出会っていなかったそうで、構って欲しくなったのだろう。

「しょうがないから、遊んであげるか。公園、いこっか。」
「うん。あの……」

 嘉那は顔を上げて、佐恵の方を見る。今リードを持っているのは佐恵だ。

「ごしんせきの方ですか?」
「ううん、私は優生ちゃんの友達で、砂津佐恵って言うの。カナちゃんは自己紹介、出来るかな?」
「あ、はい。三井(みつい)嘉那です。わたしも優生ちゃんの友達です。」

 急にたどたどしくなった嘉那に二人とも笑って、それから佐恵はリードを両手で持ち、彼女に渡しやすい高さまで腰を落とした。

「持ってみる?」
「ニック、大っきいから引っぱられちゃうかも……。」

 そう言いながら、嘉那は初めてではなさそうな手付きでリードを受け取る。ニックも特に抵抗する気配は無い。今日、佐恵と二人でいる間もそうだった。ニックは飼い主以外に連れられるシチュエーションの経験があるから、自分に対しても大人しかったのだ。賢い子だなと思う。
 一行はそのまま公園の中へ入り、取りあえず落ち着ける場所を探した。ここの住宅街に住む大人や子供に声を掛けられつつ、ブランコの側に着いて陣取る。他には砂場と、象型の滑り台が設置されていた。憩い園とは違い、やはりこぢんまりした印象を受ける。

「昔は砂場の横にシーソーがあったんですよね。」

 優生がその位置を指差しながら言う。

「でも、それで子供が怪我する事故があって、撤去されちゃいました。」
「わたし、知らない。」

 嘉那はその事を知らないようだ。優生によれば、彼女自身が嘉那くらいの年齢だった頃の出来事らしかった。

「でも、あんたがここに来る前で良かったよ。」
「なんでー?」

 紐ボールを渡す優生と、聞き返す嘉那。

「だってすぐ怪我しそうじゃない、嘉那。」
「えー!そんなことないもんっ。」

 いいから、と抗議に取り合わず、優生は嘉那の背中を押してニックと遊ばせるようにした。しかし体格のせいか、ボールの動きがニックに大きな運動を促すまでに至らず、どうも冴えない感じになっている。嘉那がこちらを見ると、ニックも同じ動作をした。何とかしてくれと言いたげだ。

「ニック、いつもは付き合ってあげるのに。飽きちゃったかな?」

 或いは、今日は嘉那に合わせるほどのやる気が出ないのか。そこで優生はニックを呼び、自分の横に座らせた。

「嘉那、マッサージしてあげたら?あれ喜ぶよ、きっと。」
「うん。そうする。」

 座り込んだニックに近寄り、嘉那は小さい手でその肩から背中を強く撫で始めた。最初は首をよじって背後を気にしていた彼も、次第に気持ち良くなってきたのか、じっと身を任せるようになった。更に優生が耳の周りを軽く触ってあげる。

「ここ好きだもんね。佐恵さんもやりませんか?」
「どれ。」

 優生と交代してニックの耳に手をやった。佐恵が触るのは初めてだが、嫌がらずにそのまま目を閉じてくれた。

「嘉那ちゃんも耳、触る?」
「ううん、こっちがいいです。」

 ニックは嘉那の撫で方や力加減が一番好きらしく、背中担当は入れ替わらなかった。ひとしきり経ってから優生がおやつを取り出して、帰る合図を出す。

「帰ったらご飯にするからね。嘉那も、送ってあげるから帰ろ。」
「うん。佐恵お姉さんも、ありがと。」
「手つないで行こうか。」
「いいの?」

 リードは優生に預け、買い物袋と嘉那の手を取って歩く佐恵。父の交際相手からメールが来て、少なくとも嬉しそうではなかった優生に対し、どう接すればいいか分からなかった。佐恵は二人の関係がどうなっているのか知らないから仕方ないけれど、きっと嘉那に感謝すべきだろう。この子は結果的に自分よりもずっと上手くやってくれた。

「嘉那ちゃん、大きくなったらうちで切ってあげるよ……」
「爪?」
「いや、髪髪。」

 髪と言いかけたところに素早く滑り込まれ、苦笑する。手を離して嘉那の頭を撫で、別れた後で大野司家に向かった。





 自分達の夕食と、ニックの分も食べさせ終えてから、佐恵は食器を洗っていた。キッチンと食堂、リビングは地続きで、扉や仕切りもなく歩き回れる。優生は噛むと音の鳴るおもちゃを転がしてニックとじゃれていた。彼女は床にぺたりと座り、ニックは離れたところで寝転がっている。緑色の、マカロンの形をしたおもちゃが行ったり来たり、繰り返す。

「うちはニラ玉の味噌汁って出なかったんだよね。」
「佐恵さんちのメニューにはなかったんですか?」
「うん。今度自分でも作ってみるよ。」

 と言いながら、皿洗いが済んだので優生達のところへ混ざりに行く。マカロンを借りてニックに放り投げてみたものの、返してくれない。まだそこまでの親しみは感じてくれていないようだ。しかし諦めてソファーに座ると、自分から近寄ってきた。マカロンは優生にあげて、佐恵の隣に飛び乗る。

「気まぐれだなー。何して欲しい?」
「わたしがしてたみたいに、抱っこしてあげたらどうでしょう。」
「あれか。よし。」

 テレビ点けます、と言う優生にバラエティ番組をリクエストした。ただし時間的にもう番組終盤だから、内容はよく分からない。佐恵は余り興味を持てないまま、ソファーにやってきた優生に姿勢を教わってニックの体を抱き寄せる。やや遠慮気味な顔をしているので耳元を撫でてみた。少し緊張が解けたと見え、頭が佐恵の胸に乗った。

「いい子いい子……。ほら、ニックは眠くなーる……。」
「寝させてどうするんですか……。あ、この後天気予報やりますよ。」
「どれ、あした何度かね。」

 ニックと一緒に待っていると、コマーシャル明けに予報が始まった。30度。と気温の表示が出てくる。

「まあ、まだいい方かな。」
「リマソールは涼しいですよね。」

 羨ましそうな優生を見て、自分が中学生の頃を思い出す。

「そう言えば、学校ってエアコンなんかないもんね。」
「校長室にはありますけど。お客さんが来る時しか使わないみたいです。」
「校長先生と話したりするの?」
「時々、声かけられますね。結構その辺うろうろしてる人で。」
「私のとこはそういう先生じゃなかったな。顔も忘れちゃったよ。」

 話していると、ニックが大きくあくびをした。頭が持ち上がったので、ふさふさの毛が佐恵の口元に当たる。

「ぶほ。毛食べちゃうじゃん。ニック、本当に寝たくなっちゃったかな?」
「ちょっと早いけど、ケージに入れますか。佐恵さん、お風呂お願いします。」
「優生ちゃんが先でいいよ。私がニック連れてくから。」
「でも、いいんですか……?」
「私はこう、女子中学生の残り湯を……」

 水平に水面を撫でるような手付きで話す佐恵に、

「飲むんですか!?」
「飲まないよ!」

 オーバーアクションに二人で叫んでしまう。風呂の順番で議論しても無駄なので、優生は言われるままに洗面所へ入っていった。佐恵もニックを体から下ろし、一緒にケージのある部屋へと向かう。戸を開けて明かりを点ける。入って左手にケージがあり、その向かいに散歩道具やおもちゃを入れてある箱があった。さっきまで遊んでいたマカロンと一緒に、何か持たせてあげようと思って中を覗いてから、数珠つなぎになったキャンディを取り出す。キャンディの玉の部分はマカロン同様噛むと音が鳴り、繋ぎ目が動かせるので形を変えて遊ぶ事も出来るようだ。

「これ、どう?」

 扉を開けてケージ内に置いてみても、ニックはそれを外へ出そうとはしなかった。別にいいよという意思表示だろう。そこでニック自身も中に入れ、扉を閉めた。先客として、スフィンクスの縫いぐるみが一体。彼は誰かに寄りかかると落ち着くようだが、留守番の時はこの子がその役目をすると思われる。
 金網越しに佐恵が様子を見ても、ニックは殆どこちらを気にせずにおもちゃを運んでいる。部屋を真っ暗にすると何も見えないだろうから、明かりを小さくして廊下へ出た。自分用の着替えを用意して優生と交代し、入浴を済ませたらまたリビングで顔を合わせる。

「ニック、どうしてた?」
「今は寝てますね。起こさないようにしましょう。」

 中を見られるようにドアを少し開けてあるので、こっそり覗いてきたようだ。並んでソファーに腰掛けた後、優生の髪を触らせて貰う。カットしたての形は徐々に崩れてきつつある。

「ヘルメットにならないうちにまた来てね。」
「佐恵さんは自分のとこで髪切ってるんですか?」
「うん。お店の人達と、お互いにカットしてるよ。」

 優生も左手で佐恵の髪を撫でながら、自分の頭に右手をやって手触りを比べている。

「何かつけてます?」
「リキッドヘアだね。」
「ああ、洗い流さない系の……」
「そう、これやっとくと、朝ぼさーってならないんだよ。」

 佐恵は自分の荷物を漁って、手持ちのボトルを見せた。業務用の大容量製品からプッシュボトルに小分けして使っている。

「わたしも、使ったら効果ありますか?」
「どうかなー……」

 全く無意味ではないけれど、コストパフォーマンスから言って、中学生には向かない気がする。それならコンディショナーをもう少し高級なものに変えたらどうかと、幾つか名前を挙げつつ、この会話は切りがない事に二人とも薄々気付く。

「そろそろ映画見る?」
「そうですね。ここで見ます?それともわたしの部屋にしますか?」
「優生ちゃんの部屋がいいね。2階?」
「はい。じゃあ案内します。」

 優生に連れられて階段を登る。登り切った所は廊下の末端で、一方向にしか向かえない。階段の隣は大野司さんの、そのもう一つ向こうが優生の部屋だった。まずそれを教わってから、一番奥まで行ってみる。三つ目の部屋と、玄関の上に位置するバルコニーの入り口が並んでいた。

「ちょっと出てみましょう。」

 スリッパをサンダルに履き替えてバルコニーに出た。ご近所から見えにくくする為か、塀が高めだったが夜風は入ってきている。鈴虫の音もどこかから聞こえ、夏場には是非活用したい場所だ。

「良いね。ここでちょっとお酒とか。大野司さんはそういう事してる?」
「お酒は飲まないですけど、たまにビーチチェアを出してお昼寝してます。わたしは布団干したり。」

 先程の部屋が布団や衣服の保管用に使われているらしい。

「優生ちゃん、もっと女子っぽい事しようよ。花火は?」
「危ないですよ。」
「いや、線香花火さ。ちりちりと。」
「んー、そのくらいなら平気かな……。」

 やはり優生もここで何かしたい考えはあったようで、今度ゆかりも誘って遊ぼうという話になった。もうすぐ夏休みが始まるから、平日が休みの佐恵とも比較的都合が合うだろう。

「皆でカクテル作ろうよ。アルコール入ってないやつ。」
「それを飲んで、花火もして?」
「うんうん。」

 取りあえず構想だけは逞しくしながら、屋内へ引き返して布団のある部屋に寄った。ここで佐恵が使う為の布団を出してから、優生の部屋に持ち込む。

「お邪魔します。あ、可愛いね。」

 敷き布団を抱えた状態で佐恵は部屋を見回していた。調度は全てシンプルなパステルカラーで纏められ、たまに使われているグレーが締まった印象を引き出していた。優生が着ているパジャマも部屋に合わせているのだとついでに気付く。

「ありがとうございます。空いてるところに布団置いて下さい。」

 優生は佐恵が敷き布団を下ろした上に、自分の持ってきた掛け布団を乗せた。優生自身にはベッドがあり、そこに寄りかかって見られる向かい側にテレビもある。佐恵が自分のお菓子を用意している間に、優生はテレビ台の中から小さい無線キーボードとマウスを取り出してきた。レンタル店のDVDなどではなく、月額料金制のビデオ配信サービスに接続して見たい映画を探すようだ。

「月々いくらで見放題ってやつ?」
「はい。うちのどの部屋からも見れますよ。で、スマホがあるともっと便利に使えるんで……」
「それで興味があったんだ。早く変えたい?」
「そりゃもう。来年になっちゃいますけど。」

 佐恵も座って一緒に映画を選びながら、これは便利だなと、自分も加入する腹づもりを決めていると、優生が顔を覗き込んできた。

「途中で眠くなったら、起こしてくれます?」
「眠くなったら寝ようよ。私がベッドに運んであげるから。」
「お姫様抱っこですか?」
「無理。いや待てよ……」

 と言って優生のお尻の下辺りに手を突っ込もうとする。彼女は笑い声を上げて飛び退いた。

「どこ触るんですか!」
「えー、優生ちゃんが言ったんじゃん!」

 ひとしきり二人で騒いでから、一緒に座布団の上に落ち着いた。ベッドに寄りかかったところで、ポッキーを一本、優生の口元に差し出す。

「ほれ。」
「んむ……」

 食べないと言っていた割に嬉しそうな優生を見て、佐恵もちょっと楽しくなった。
 その後優生は結局寝てしまい、佐恵がベッドに入れてあげた。お姫様抱っこはしなかったが、起こさないよう丁寧に体を横たえ、手をシーツの中へ入れる。柔らかい指先の感触に少し羨ましさを感じながら、髪もきちんと枕に乗せた。まだ熟睡はしていないのか、佐恵が触れる度に僅かな反応が唇や瞼に見える。

(おやすみ。)

 聞き取れないくらいの声でそう話し掛けてから、佐恵も寝る支度を始めた。





 その話をゆかりにメールすると、自分も誘って欲しかったと、ややヘソを曲げられた。でも平日だったし、ゆかりの家は普通に両親が在宅なのだから無理があるだろう。その代わりとカクテル花火大会の話を振ったところ、すぐに機嫌は直ったようだ。
 『ちょっと待ってて下さい』と短いメールが来てから、次に長文が送られてきた。花火も楽しみだけどもう一つ、と前置きされた上で、7月の最終週にミュージカルを見に行かないかと誘われた。元々はゆかりのお母さんがお茶の教室の友達と三人で行く予定だったのが、その内の一人が来られなくなってしまったそうだ。そこでお母さんは友達のチケットを買い取ってゆかりにくれた。皆で行けないならまたの機会にするから、あんたが誰か誘って行っといで、と。
 これは文字で会話していたら時間がかかりそうだと判断し、佐恵は電話番号を送った。すぐに着信音が鳴る。

「もしもし、ゆかりちゃん?」
『はい、ゆかりです。』
「佐恵です。メール読んだよ。ゆかりちゃんと、私と優生ちゃんで行くんだよね?」
『そうです。行ってくれますか?』

 行くのは全然構わない。むしろクラスメイトでもない自分達でいいのかと聞き返す。どうやら「三人」という枠で考えた場合、ゆかりとしてはこのメンバーが一番良いようだ。

「どこでやるの?まさか東京?」
『いえ、迫原市の市民ホールですよ。私は行った事ないんですけど。』
「あ、私たまにそこ行くよ。ホールの隣にレンタル会議室もあって、セミナーとかやってるんだよ。」
『へー、じゃあ砂津さんを誘って良かったです。で、演目なんですけど。』
「何をやるの?」
『トゥ・アン・エバーグリーンって知ってますか?』
「知ってる。持ってたよ。」

 「トゥ・アン・エバーグリーン」は少女向けの小説シリーズで、清水潮美(しみずしおみ)という人の作品だ。主人公の山能千絵(さんのうちえ)は、東京郊外の商家・山能家四男の娘である。彼女は父の仕事の都合で高校入学と同時に東北地方南部の町、寿子町(すいごちょう)へと引っ越してくるのだが。
 父譲りの快活な性格の彼女は、余りよそ者に優しくない田舎町の中でも臆せず、演劇部に所属して積極的に活動する。そして仲間達を巻き込みながら青春を謳歌していく。そういう話だった。本編は何年も前に完結しているが、最近映画化されて人気が再燃し、その流れでミュージカル化も実現したらしい。
 佐恵も学生の頃、同級生に勧められて何巻か借りてみた。面白いと思ったので、当時既に20巻近くが刊行されていたにも関わらず、全て買い揃えたのだった。実家に行けばまだある筈だ。

「ゆかりちゃんのお母さん、トバグリ好きなの?」
『お茶の友達が好きみたいです。お母さんは東澤真衣(とうざわまい)ちゃんが目当てで。』
「ほー。」

 東澤真衣なら、佐恵も顔ぐらいは知っている。その子が今回のミュージカル版で千絵を演じるそうだ。

『それと、スペシャルゲストで清水先生本人が出るんですって。』
「えー!何の役?」
『校長先生です。』

 そう言えば校長先生は女性だった。清水先生はまだそれ程の年齢ではないと思うが、そこは気にするべきではないのだろう。

「うーん、何か楽しみになってきたぞ。」
『これから優生先輩も誘います。砂津さんが来るなら先輩も来ますよね?』
「多分。だいじょぶだべ。」

 電話を切ってから風呂に入り、戻ってくるとメールが来ていた。優生だ。予想通り、皆でミュージカルを見に行くのが決まったらしい。佐恵はそれを読み終えた後、天気予報のアプリを開いて当日の気温などを確認しておいた。





「暑いわ……」

 迫原駅前のターミナルに出て来た佐恵は、鞄から扇子を出して顔を扇ぎ、ついでに後ろからやって来る二人にも風を送った。優生は七分丈のデニムに平べったいパンプスを履き、半袖のブラウスを着ている。ゆかりはリネンのロングスカートにこれまた歩きやすそうなレザーミュールと、丸襟のシャツにカーディガンを羽織っていた。三人揃ったところで顔を見合わせる。

「まだまだ日は暮れないですね。ゆかりちゃん、暑くない?」
「私は平気です。先輩、上着あります?」

 優生は頷いて自分のバッグを指した。外はともかく、会場内は冷房が入っているから、一応上に着る物を各自用意してある。

「それじゃ行こうか。お姉さんについといで。」
「はーい。」

 遠足の引率よろしく二人を引き連れ、迫原市民ホールへと向かった。佐恵達以外にも公演を見に来た人が道を歩いており、会場入り口が近付くにつれて段々列が形成されてくる。その流れに乗って入場し、開演までパンフレットを読んで時間を潰した。
 今回は原作のエピソードの内、千絵が初めて主役の一人に選ばれた話を舞台化している。設定は、今日で営業を終了する民宿に居合わせた男女五人の会話劇なのだが、脚本担当の園井(そのい)君がスランプに陥り、じゃああらすじを皆で考えて助けよう、という展開になるのだった。
 今、舞台の上手半分が千絵の部屋、下手半分が脚本を練っている千絵の脳内世界、というセットで芝居が進行中だ。脳内の方には劇中劇のキャラが集まり、彼女の想像した通りに動いてみせるという演出になっている。

「藤吉(とうきち)は芳子(よしこ)と泊まりに来ていて……。でももう別れそうなのよね。」

 千絵の言葉通り、最初の立ち位置から藤吉と芳子が距離を取る。

「最終的にやり直すのが良いとして、きっかけはやっぱり、緑(みどり)……つまり私?」

 千絵は上手にいるので、下手には代役として衣装を着せられたマネキンがいた。顔に「へのへのもへじ」と書いてある。

「緑は一人で泊まりに来てるから。女一人で?訳あり?何か罪を犯して、逃亡中ってどうかしら。」

 脳内の皆は一斉にええっ!と大袈裟なリアクションをしてマネキンから離れた。どうやら結論だけが予め決められていて、途中経過は全てアドリブで喋っているようだ。

「じゃあ、吾郎(ごろう)と史夫(ふみお)のどちらかが刑事とか。取りあえず吾郎で行くとして、史夫があぶれるわねぇ。この人削ったら怒られるかなぁ。」

 ここで史夫ががっくりとうなだれ、他の人物はおいおい!と声を荒げる。しかし彼らはあくまで架空の存在なので、抗議しても聞こえようが無い。こんな調子で千絵の妄想は次第に脱線していき、着地点まで観客を散々笑わせながら脳内キャラを弄んでいった。
 その後紆余曲折を経て練習も終わり、舞台本番の幕がいよいよ開いたところでミュージカルは終了した。

「いやー、面白い。笑いすぎた。」
「佐恵さん、超受けてましたね。」

 妄想世界の部分もそうだが、原作よりも笑いの要素が巧みに足されていて楽しかった。多分、清水先生が脚本も監修しているのだろう。先生凄いな、と内心感嘆していると、その本人が幕の下りた舞台に戻ってきた。後ろに続いて他の共演者も現れる。そこで真衣が説明を始めた。全ての公演場所において、お客さんは一つの出口から出てもらっているという事。その際、出口にて出演者が「お見送り」をしてくれる事。見送り担当は会場毎に二人ずつ、うち一人は事前に決定している。迫原市民ホールの場合は清水先生だ。後の一人をこれからダーツで決めるらしい。

「勿論、お急ぎの方には別のルートから出て頂けます。それじゃ潮美先生、お願いします。」
「分かりました。では……!」

 なかなか華麗な身のこなしでダーツを投げる先生に、一瞬静まる客席。それを見て一呼吸置いてから、

「真衣ちゃんです!」

 高らかに本日の相方を宣言し、手を叩いて観客にも拍手を促す。そのまま二人共ステージを降り、客席間の通路を走って先に出口の方へと去って行った。

「お待ちしてまーす!」

 真衣の声が最後に響き渡る。同時にスタッフが誘導を始め、佐恵達も周りの人と一緒に席を立った。

「真衣ちゃんと清水先生って、仲良さそうでしたね。」

 ゆかりが言う。ダーツが刺さった時、二人で手を取り合っていた。私生活でも交流があるのかも知れない。しかし佐恵の関心事は現在そこには無かった。

「単行本持ってくりゃ良かったよー。」
「どうするんです?」
「サインして貰う。」
「いや、無理ありますよ……。」

 優生に否定される。混乱を避ける為、直接のお声がけはご遠慮下さいと注意があったので、サインをせがむなど不可能なのだった。
 ホール正面の、一番大きな出入り口へ繋がる廊下にロープが張られ、警備員に付き添われて二人が待っている。先生は佐恵達から見て右、真衣が左。観客は四列に並んでいるので、全ての人が間近で彼女らと相対せるわけではない。が、三人組で来ている事を活かし、何とか佐恵が先生側に並ぶように出来た。優生とゆかりは真ん中にいて、真衣の方を見ている。
 人の流れる速度が予想より少し早く、100%心の準備が出来る前に先生と対面しそうだ。近くに見えてくる当人は40代前半くらい、ショートヘアに眼鏡をかけた、見るからに知的そうな人だ。少なくとも自分の人生の幾ばくかを捧げた相手に会うとなって、どうにも緊張してしまう。
 擦れ違う際に笑顔で会釈が一つ。ずっと年上の人に失礼かも知れないけれど、笑った先生はとても可愛く見えた。勿論佐恵だけに向けられた顔ではないが、一つ夢が叶った気分になる。
 お見送りコーナーを出ると、物販に向かう人、そのまま会場を出る人とでグループが崩れだした。佐恵達は大きな人波を避けて外へ向かい、空いている路上に出る。

「佐恵さん、どうでした?」
「いやー、良かった。真衣ちゃんはどんな感じだったの?」
「取りあえず、顔小さー!的な。」

 ゆかりが答えた。あと細マッチョ、と付け加える。

「マッチョは違うような……。でも鍛えてそうだったね。」

 優生と一緒にお互いの二の腕を触り合い、やべー、と言ったりしてはしゃいでいる。それを見て、佐恵も自分の腕や腰を持ってみた。

「うーん……」
「やばいですか?」
「いや!そんな事ないよ、うん。」

 自分に言い聞かせるように頷いてから、夕飯の事を思い出した。

「ご飯どうしよっか。ここで食べるか、三浜に帰ってからにするか。」
「あ、私デザート券あるんですよ。」
「どこのやつ?」

 ゆかりが自分のバッグからチケットを取り出す。三浜の駅ビルに入っているレストラン、「イブニング・サン」の無料デザート券だった。これを見せれば、対象メニューのみだが好きなデザートを無料で頼める。

「お母さんが持たせてくれて。」
「今度、お礼しないと駄目だねぇ。やっぱり菓子折かな。」

 食べて無くなる物なら、貰ってありがた迷惑と言う事もない。電車内でゆかりのお母さんについて色々訊きながら、三人は三浜まで帰ってきた。ホームを降りて、更に改札口を出る。レストラン街はビルの最上階にあるから、エレベーター乗り場まで移動する必要があった。佐恵が二人を連れてそちらに向かおうとすると、

「優生ちゃん。」

 後ろから声が掛かった。逆方向の、タクシーやバスの乗り場に向かう人波から女性が一人歩み出てくる。スーツ姿で手に鞄などを提げていた。佐恵は優生の表情を見て、先日メールを受け取った際の反応を思い出す。つまり、お父さんの彼女とやらが登場したらしい。

「私、今日はこれで……。失礼します。」

 場の空気を察したゆかりは素早く頭を下げ、エレベーター乗り場を通り過ぎて立ち去っていった。この場合、佐恵も部外者なのだから同じようにするべきだろうが、このまま優生を一人にするのは不憫な気がして逡巡する。その間に向こうはさっさと側まで来てしまった。もう対面するしかない。

「私、幹崎衛利(みきさきえり)と言います。」
「砂津佐恵です。」

 優生とは面識があるのだから、これは佐恵に対する言葉だろう。礼をした後、髪をアップにしているバレッタを右手で直し、左手から鞄と、小さな紙袋を持ち替えて脇に下げた。「Jack Bevan」という洋服ブランドの袋だ。これは三浜には無い店だから、彼女は勤め先の方で買い物をして、今帰宅途中なのだと思われる。

「優生ちゃん、この間の土曜日、部活に行くって言ってたわよね。私が誘った時。」
「はい……」
「でも優生ちゃんがこの辺歩いてるのを見ちゃったのよ。学校にいる筈の時間に、その服で。」

 会話の内容から推測するに、衛利がどこか遊びに誘ったのを、優生は嘘をついて断ったらしい。多分大野司さんは抜きで、二人の約束だったのだろう。彼を加えた場合、嘘を言ってもすぐにばれてしまうから。

「別に断ったっていいんだけど、何で本当の事を言ってくれないの?」

 ちょっと衛利の口調が強くなる。視線が佐恵の方に来て、また優生に戻った。口にはしないが、私の誘いからは逃げた癖に、この人とは遊びに行くのかという苛立ちが感じられる。先週末の出来事ならもう、見なかった事にしておけばいいのに、わざわざ今怒りをぶつけてくるというのはつまり、優生と佐恵達が楽しそうにしている姿を見て、余程面白くなかったようだ。

「私じゃ駄目?」
「そういうわけじゃないです……。」

 優生は怯えている。この子も別に悪意があった訳ではなく、衛利が考えている優生との距離が、彼女の側から見たものと一致していないだけなのだ。その差が嘘を生んだ。良い事ではなくても、二人の間柄を考えたら、暫くは辛抱してあげるべきではないか。なのにこんなに恐がらせてしまったらますます距離が開いてしまう。

「あの、幹崎さん。」

 佐恵は見かねて声を掛けた。が、衛利は一瞬敵意を込めた形相になり、言い放つ。

「すみませんけど、後は二人で話しますので。」

 そのまま優生の手を取り、レストラン街に向かうエレベーターの方へ行ってしまった。足早に連れ去られながら、佐恵の方を振り返る優生。悲しそうな顔だった。





『ごめんなさい!私だけ逃げ出したみたいになっちゃって。』
「いや、それで正解だったよ、ゆかりちゃん。」

 その夜、ゆかりと電話しながら思う。全く、一言言おうとしただけであの反応だ。だったら最初から佐恵を会話に入れなければいい。何なんだあの女はと怒りながら、それをゆかりに言っても仕方がないので腹に収めておいた。

『先輩から何か来ました?』
「うん。今日はごめんなさいって、それだけのメール。」
『私のとこもです。大丈夫かな……』
「そっとしとこうか。優生ちゃんから何か話してくれるまで。」
『そうですね。今日のデザート券、まだ持ってるんですけど。』
「またいつか行く?期限は?」
『今年中です。』
「じゃあ、三人で行くべ。ね?」
『はい!』

 真面目なゆかりは最初、泣きそうな声をしていたが、少し元気になったようだ。切りの良いところで通話を終えて台所へ行く。冷蔵庫にペットボトルのお茶があるので出してくる。一口飲んでまたキャップを閉め、それを持ったまま冷蔵庫に寄りかかって考えた。
 優生は衛利を好いていない。その歓迎されざる人物が家庭に入ってこようとしているのだ。あの子がどうして佐恵と親しくなりたがったか分かった。自分は逃げ場所なのだと。大野司さんに対して、「あの人はやめてくれ」と頼めば良さそうだが、それで言う通りにしてくれる保証はないし、一度結婚に失敗した父親に気を遣って遠慮しているのかも知れない。そういう家庭の事情は、佐恵が口出し出来る範囲を超えていると思う。だから自分がどう優生を受け止めるのか、が今考えるべき事だ。
 途端、優生の膝と脛や、柔らかい手の感触が脳裏に蘇る。そんなつもりはなかったのに。眠る彼女の顔を思い浮かべながら、上手く掴みきれない感情にもどかしさを覚える。結局、何か答えを出すのを諦めて、佐恵はボトルを冷蔵庫に戻した。





 土曜日、平日より三割増し程の疲労を抱えて帰宅し、食事の支度を始める。無洗米に水を加えて炊飯器に入れ、流し台の下から乾麺の蕎麦を半束取り出した。それから今買ってきたサラダを半分だけガラス器に空けてラップをし、冷蔵庫に入れておく。今日はシャワーで入浴を済ませるつもりだったので、そのまま洗面所へ行こうとしていると着信音が聞こえてきた。リビングまで行って、後頭部を掻きながら携帯を持ち上げる。相手は「大野司優生」だった。この前、中途半端な別れ方になってしまったのは気にしていないと伝え、またどこか遊びにでも誘おうと思いつつ電話に出た。

「もしもし、優生ちゃん?」
『佐恵さん、今家にいますか?』
「うん。どうしたの?外にいるの?」
『はい。佐恵さん家の近くまで来たと思うんですけど……』
「え!ちょっと待って。優生ちゃん、私の家なんて知らないでしょ?」

 優生の現在地を聞き出し、自宅最寄りのコンビニを教えてそこで待つように言った後、佐恵は慌てて家を飛び出した。風呂に入る前で良かったと思う。小走りのまま、掴んできた携帯をバッグにねじ込んで蓋を閉める。マンションを出て、南北に走る車道沿いを駅方面に北上すると明かりが見えてきた。コンビニの駐車スペースに優生が立っている。自転車でここまで来たようだ。

「優生ちゃん!」
「佐恵さん、会えた……。」
「何してるの!こんな時間に、もう……」

 優生は肩を強張らせて佐恵を見上げた。ちょっと強く言い過ぎたと思い、その肩を抱いて、今度はもっと優しく声を掛けた。

「心配させないでよね。私も会えて良かったよ。」
「急にごめんなさい。」
「晩ご飯は食べたの?」
「はい。」

 大野司さんから今朝、今日は大分遅くなるので夕飯はいらないと言われたらしい。その時優生は咄嗟に、自分も今夜は佐恵のところに泊めて貰う約束だと言い、夜になってから家を出て来た。

「どうしても佐恵さんに直接会いたくて。この間凄く嫌な思いさせちゃったから。」
「それでか。言ってくれればいいのに。」
「夕方に一回メールしたんですけど……」

 仕事中は携帯を鳴らさないようにしているから気付かなかった。もしさっきの電話に佐恵が出なければ、優生は諦めて帰るつもりだったそうだ。

「お父さんには何て言うの?」
「予定が変わったとか。」
「場当たりすぎるよ……」

 もし帰宅するのなら、また暗い夜道を一人で引き返す事になる。

「私に謝りたいって、その気持ちは嬉しいよ。でももう、こんな事したら駄目だからね?」
「ごめんなさい。」
「全くだよ……」

 優生が押している自転車の籠に自分のバッグも入れ、その手で彼女の頭を軽く撫でた。申し訳なさそうに笑いながら、優生は佐恵のものと、自分の鞄を籠の中で綺麗に揃え直した。

「ニックは?」
「今は寝てるか、お父さんが帰ってれば一緒にいますね。」

 マンションの入り口まで戻り、駐輪場に寄ってからエレベーターに乗り込む。佐恵の自宅に着くまでの間、優生の鞄も持ってあげた。

「これは着替え?」
「下着と靴下だけですけど。」

 十階建て中の六階で降り、鍵を取り出してドアを開ける。先に優生を玄関に入れてから佐恵も中へ入った。最初の予定を変更し、優生の為に湯船を張りながら一緒に寝室へ行って寝間着を選ぶ。

「スウェットかパジャマか。下着にシャツだけってのも出来るよ。」
「パジャマがいいです。」
「半袖でいい?寝る時はエアコン切るからね。」

 渡されたパジャマを抱えた優生と、リビングに戻ってソファーに座る。先に佐恵が窓側へ行き、後から優生が横に来た。お湯が溜まるまで少し時間がある。

「佐恵さん、この間のこと……」
「それは気にしてないよ。でも幹崎さんと良く出くわすの?」
「いえ、あれはたまたまです。」
「怖い人?」
「そうですね。くそ真面目な感じで。」

 衛利と大野司さんが付き合うようになったのが一年前。一応その頃から顔を合わせてはいたが、今年に入ってから父抜きで誘われるようになった。優生の感じた印象だと、付き合って半年経っても二人には大きな進展が無く、それは大野司さんが娘の自分を気にして慎重になっているせいだと思えた。だから衛利は優生とも親しくしようとし始めたのだろうと。

「佐恵さんも、わたし達を見たら何となく分かったと思いますけど。」
「まあ、合わなさそうだね。」

 衛利は融通が利かないタイプだが、それを相手に当たる傾向があるそうだ。

「そこがおかしいんだ?」
「はい。言って直してくれるとも思えませんし。」

 膝にパジャマを乗せたまま、困り顔で佐恵を見ている優生。風呂場からお湯張り完了のアラームが聞こえてきて立ち上がった。

「それじゃ、お風呂行ってきますね。」
「うん、私はご飯食べてるから、ゆっくり入っといで。」

 優生が洗面所へ行った後、4~5分でご飯が炊けた。蒸らし時間を待つ間にお湯を沸かし、少しだけ酒をついで先にサラダを食べてしまう。それから蕎麦を作ってメインディッシュも手早く済ませる。優生が戻ってくるまでには洗い物も終わり、落ち着いてソファーで待つ事が出来た。優生が来てもまだご飯と蕎麦をつついていたら何となく格好が悪い。

「今上がりました、佐恵さん。」
「パジャマ、大きい?」
「はい。でもありがとうございます。」
「ううん。じゃあ私もお風呂行くから、先に寝てていいよ。ベッド使ってね。」
「え、佐恵さんはどうするんですか?」
「私はソファーで。タオルケットあるから。」
「駄目です、一緒でいいですよ。ベッド大きかったし……。」
「いいから。明日だって私は仕事だし、そんなに寝坊出来ないからね?」
「はい……」

 立っている優生の肩を両手で支え、寝室の方に体を向けさせる。振り返って決まり悪そうな顔をするのには取り合わず、佐恵はさっさと風呂場へ行ってしまった。きっと一人きりにすれば優生も諦めて寝るだろう。そう考えて特段急ぐでもなく体と髪を洗い、湯船で半分寝そうになりながらゆだって出てきた。洗面所でパンツを履き、スタンドカラーのワイシャツだけを身に付ける。ブローを済ませて寝室の様子を見に行こうとすると、まだリビングのソファーに優生が座っていた。

「寝てなさいって言ったのに。」
「そうしたんですけど、寝つけなくなっちゃって。」
「どうしたの?」

 彼女の隣に腰掛ける。今度は優生が窓側、さっきと逆の位置だった。ボディソープの残り香が二人分になって鼻先を漂う。

「佐恵さん、わたしの事面倒だと思ってないですか?」
「ん?」

 それを気にしだしたら不安になり、眠れなくなったらしい。佐恵は体を寄せて、優生と太腿が触れ合いそうなくらいの位置に来た。

「そんな事思ってないから、ね。」
「じゃあ側にいて下さい。そうしたら寝れそうです。」

 こちらを見つめて訴えかける優生に、佐恵はここで一度言っておかなくてはならないのだと思った。

「優生ちゃん、ちょっと無防備すぎるよ……。」
「え?」

 左手を伸ばし、優生の体をこちらに向けさせる。そのままゆっくりソファーに横たえるよう倒していく。途中で優生が肘をついた為、彼女の上半身は斜めで止まって、二人の顔は息がかかる程の至近距離に近付いた。

「あの……」

 目を見開く優生に答えず、その頬に口づけた。容易に移動出来ない姿勢になってしまっているのに気付き、佐恵と一緒に体を起こそうとする優生を押しとどめ、パジャマのボタンを上から一つだけ外す。右手の指先で鎖骨を撫でながら佐恵は言った。

「私は優生ちゃんのこと、こういう目で見てるんだ。」

 右手を離し、優生を最初の位置に戻してやってから訊く。

「分かった?」
「こういうって、そういう……?」
「うん。だから一緒には寝られないし、もし優生ちゃんに、私に何されてもいいって覚悟が出来ないなら、もうここには来ないで欲しい。」
「来たら駄目ですか?」
「いいけど、その時は知らないよ。」

 佐恵の視線を見て、外されたままのボタンをかけ直す優生。赤くなった頬を隠したいのか、すぐ横を向いてしまった。

「今日は寝て、明日家に帰ってから良く考えて?」
「はい……。」

 佐恵は立ち上がり、エアコン用のリモコンを手に取った。オフのスイッチを押す。その後優生と寝室まで行ってタオルケットを出し、それをリビングへ持ってきてソファーに寝そべった。寝室を覗いても、優生はもうこちらを見ていない。佐恵はまた、聞こえないくらいの声でおやすみを言ってから目を閉じた。
 翌朝、優生は出勤する佐恵と一緒にマンションを出て帰って行った。起きた直後に朝食を作ろうとしてくれたが、こちらから辞退している。佐恵宅にあった材料では大した物が出来ないからだ。
 多分、良く眠れなかっただろう目で、外の日差しを眩しがる優生に「それじゃあね」と声を掛けた。またねとは言わない。これが最後になる可能性もあるから。そして現実的に考えるなら、その方がお互いの為だ。
 佐恵は自分を慕ってくる優生に対して境界線を設けた。これ以上踏み込むのなら、代償を求めると。そのハードルは高い方が良い。つまり、「私に何されても」という事だ。万が一優生がそれを承諾した場合でも、彼女が自分の意思で関係を望んだ形になるのだから、簡単に口外などは出来ないだろう。これで社会人としての佐恵の立場も保たれる。全て完璧な筈だった。
 でも、こんな打算を働かせている自分が、佐恵は好きになれない。損得の物差し抜きで優生を見てあげたい気持ちがある。という事は、自分が彼女にどういう感情を抱いているのか。心の底を覗き、それを掬い上げたら矛盾を抱えてしまう。大人として優生と冷静な距離を維持するべきだと分かっているのに、そう思わない佐恵自身も認める事になる。
 結局、その決定権までも優生に押し付けてしまった。私はずるい。ただ、そう気付けているうちはまだ自分にも幾らか庇ってやる余地があるかも知れないと、それだけが慰めだった。





 連休の初日、佐恵はセミナーで知り合った友達の店でカラーリングをして貰ってきた。技術を交換するというよりは、お喋りが主目的で。仕事と関係ない話を沢山して、良い息抜きになった。また、帰りに駅ビル内の酒屋へ寄り、父に渡す為のお土産も買う。両親は共に果実酒が好みだからと、沖縄産の梅酒を選んだ。
 翌日の夕刻、一応ギフト用のラッピングをして貰ったその酒を眺めながら父にメールしてみる。まだ仕事中だった。ならば出発はもう少し先だろう。実家からここまで車で1時間と10分前後、食材を予め母が買っておいたとしても余裕がある。佐恵はその間にシーツの交換と洗濯をし、台所付近の片付けもやっておく事にした。動きやすいように五分袖のTシャツと膝丈のデニムに着替えておく。出来れば自分でもおかずの一つくらい作っておきたいのだが、父から「全部俺に任せて、お前は休め」と言われている。けれど、仕事がある父に頼りっぱなしではやはり悪い。その為のお土産だ。

「おー、美味そうだ。土曜か日曜に、お母さんと二人で呑むよ。」

 酒屋の袋を覗いた父は一際笑顔になりながら梅酒を受け取った。

「佐恵、ありがとな。」
「礼を言うのはこっちだよ。平日に来て貰っちゃって。」
「それは言いっこなしだべ。お父さんは……いや、いいや。」

 長くなりそうな話を自ら切り上げた父は、今持ってきた材料を広げて夕飯の調理を開始した。

「テーブルいる?」
「分からんけど、出しといて。」
「うん。」

 普段は余り使わない、折り畳みのミニテーブルを持ってきて足を出す。父の背後の、邪魔にならない辺りに置いておいた。

「私、何してようかな。」
「寝てていいよ。起こすから。」
「じゃあ、そうしようかな……」

 ソファーまで行き、一度座ってから体を動かし横になった。父が支度を進める音を聞きながら天井を見る。シーリングライトが視界に入って眩しい。これじゃ寝れないかも、と思ったけれど5分程で眠くなってきた。しかし玄関でインターホンの音がして、せっかく眠れそうだったところを邪魔されてしまった。
 両手を後頭部で組み、腹筋運動のように上半身を起こして立ち上がる。去年の今頃、マンション内で避難訓練があるからと、その参加名簿が回覧板で回ってきたのを思い出した。多分またそんな用事で近所の人が来たのかも知れない。

「お客さん?」
「いや、客って程じゃないよ、きっと。」

 味噌汁の用意をしている父の後ろを通って玄関の受話器を取る。

「はい。」
『佐恵さん、わたしです。』
「優生ちゃん?」

 一気に眠気が醒めてしまった。土間でサンダルをつっかけてドアを開けると、当然ながら優生が立っている。可愛いローファーに黒いニーハイソックス、モカ色のショートパンツ。上はグレーのキャミソールと、プリーツ素材でクリーム色のブラウスを羽織っている。七分袖だが、肌が透けるくらい生地が薄い。

「来たんだ……。」
「やっぱり、駄目ですか……?」
「いや、上がって。今うちのお父さんがご飯作ってるんだ。」

 靴を脱ぎ終えるまで優生のバッグを持ってあげ、台所へ連れて行った。

「友達かい?」
「この子がこの間話してた……」
「ユウコちゃんか。」
「あ、優生です。お父さん、初めまして。大野司優生です。」
「よろしくね。お父さんなんて言われると照れるなぁ。」

 顔を崩した父に優生も表情を和らげ、自分の荷物から弁当のような包みを取り出す。布をほどくとタッパーが出てきた。

「良かったらこれ、食べて下さい。」
「あらら、悪いね。でも丁度これから飯だから、ありがたく貰っとくよ。」

 父がミニテーブルにタッパーを置き、蓋を開けてみる。酢の物が入っていた。わかめと胡瓜に、茹で蛸と油揚げ。なるべく佐恵宅のメニューとかぶらなそうな物を、と考えて作ったらしい。

「美味そう。じゃあ、優生ちゃんも一緒に食べていきなさい。」
「わたし、ご飯食べてきたんですよ。」
「なら、ほんのちょっとずつ皿に盛るから。試食みたいに。」

 優生はそれならと、食事への参加を決めた。どのみち、父が帰らなければ佐恵と話せないのだから、その間待っているのも退屈だろう。
 支度はそう時間がかからずに終わったので、ドキュメンタリー番組を眺めていた佐恵達も台所へ行って出来た料理を順に運んだ。鰻丼とカブの浅漬けに、その葉っぱとジャガイモが入った味噌汁、それに優生の酢の物と、三人分のミネラルウォーターがテーブルに並べられる。佐恵と優生がソファーに座り、父は向かい側に一人で立った。テレビはその後ろになって見えないので消しておく。

「何か座る物ないか?」
「あるよ。」

 大掃除の際、高い場所を拭いたりするのに使う椅子を出してきて父を座らせた。三人で手を合わせてから佐恵がカブ、父が酢の物、優生は鰻に箸をつけた。

「漬け物うめー。」
「これ、美味しいです。たれは全部手作りですか?」
「うん、これは我が家に代々伝わる秘伝のレシピがあってね……」
「えー、凄いです!」
「いや、それは嘘で。」
「嘘!?」

 既製品に少し味を足しているのだと父が説明し、佐恵にメモ帳とペンを持ってこさせた。

「今書いてあげるから、待ってな。」

 佐恵も鰻を頬張りながら二人の様子を眺めている。父はメモを優生に渡した後、もう一枚紙を破り取った。

「酢の物のレシピも教えてくれないかな?」
「あ、わたしのは本当にただ、お手本通りに作っただけですから。」

 と言いつつ、ちょっと失礼して、と携帯を見ながらメモに書き込んでいる優生と、父も顔を乗り出してそれを覗いている。

「お父さん、子供好き?」

 何となく浮かんだ質問を尋ねると、一瞬空気が止まった。

「え?」
「え?」

 お互いに不思議そうな表情でお見合いをする。父が先に口を開いた。

「……今気付いたの?」
「今って、じゃあいつなら良かったのよ。」
「最初に出会った時だべ。父さんちょっとショックだ。」

 事情を知らない優生に、カレー事件のいきさつを教えてあげた。優生も、朝作った味噌汁が夕方に腐っていた事があるそうだ。

「それはあるな。定番だな。」
「定番って何さ……」

 砂津家の家庭環境を知って多少親近感が湧いたのか、優生も父と自然に会話するようになり、佐恵が気を遣う事なく食事を終えられた。

「仕事、どう?」
「おっさんにはきついな。でも家族がいるから頑張るよ。」

 玄関で靴を履きながら、振り返って父が答える。お土産を手渡してドアを開け、廊下に出た。

「駐車場まで送る?」
「いや、大丈夫。着いたらメールするから。」
「次はお母さんが来るのかな。」
「そうだな。その前にお盆があるべ?」
「うん。ちゃんと帰るよ。」

 父に手を振り、ドアを閉めて部屋に戻る。食器を片付けた後、優生がそれを洗ってくれると言うのでエプロンを貸した。二人きりになった途端に会話が無くなって、ただ水の音だけが聞こえている。ソファーに寝そべったまま自分の手を上に伸ばして眺め、ついでに肩を揉んだ。テレビ台の隅にある時計を見ると、夜9時半近くになっていた。
 水音が止まり、優生が洗い物を終えたようだ。佐恵は立ち上がって台所へ行き、袖を直している彼女の後ろに立った。

「エプロン、外してあげるよ。」
「あ、ありがとうございます。」

 それをミニテーブルに置いてから、そのままゆっくり優生を抱きすくめる。お腹の辺りに両腕を回して、後ろを振り返れないように体を密着させた。

「あのっ」

 いきなりそんな事をされるとは思っていなかったのだろう優生は、驚いて顔だけでもこちらに向けようとする。その髪に鼻先を当て、佐恵は耳元で囁きかけた。

「今度は知らないよって、言ったよね……?」

 その言葉に口を引き結び、黙ってしまう優生。佐恵は構わずに両手を下げ、太腿を撫で始めた。靴下越しと生の肌と、それぞれの感触を楽しみながら背中に胸を押し付ける。両足の隙間、柔らかい肉に指を這わせると優生は内股で一、二歩進み流し台に手をついた。そのうなじに軽く唇をつけ、髪と首筋の匂いを吸い込む。二人とも徐々に息が荒くなってきていた。

「お父さんに電話して。もう夏休みだし、今夜はここに泊まるって。」

 覆い被さっていた身体を直し、食事中からリビングのテーブルに置かれたままの携帯を指し示す。優生の肩を抱いてそこまで歩いた。佐恵が先に携帯を取り、ソファーに置いてから座って自分の膝を叩く。

「おいで。」
「佐恵さん……?」
「ここ、ここ。」

 今度は膝を指差して、上に乗れと招いた。優生は恥ずかしそうな、困ったような表情を浮かべながら近付いて腰掛けてくる。頬が赤い。お姫様抱っこの要領で彼女を受け止め、顔を間近に見ると瞳も少し潤んでいた。左手は優生の背中を支えているので、右手で携帯を拾って手渡しする。

「ほら。」

 大野司さんの番号を呼び出し、話し始めた優生は時々佐恵の方を見ながら宿泊を許可してくれるよう頼んでいた。距離が近いから向こうの声も漏れ聞こえてくる。途中、佐恵は身振りで電話を代わって欲しいと伝えた。携帯を受け取って耳に当てる。

「もしもし、お電話代わりました。」
『砂津さん?僕です、大野司です。何だか、娘が無理をお願いしたようで。』
「いえ、私も楽しいですから全然構わないですよ。」
『そうですか。優生に至らない所でもあれば、遠慮無く叱ってやって下さい。』
「大丈夫です。優生ちゃん、良い子ですから。」
『有り難うございます。それじゃ、宜しくお願いします。』

 優生には通話を代わらず、大野司さんは電話を切った。携帯をスリープにするやり方が分からなかったのでそのまま優生に返し、テーブルへ戻させた。

「後は若い二人に任せるってさ。」
「そんな事、言ってなかったです……」

 顔をしかめる優生を引き寄せて首を伸ばし、唇を重ねようとする。佐恵がキスしたいのだと分かると同時に、彼女も目を閉じ、大人しくその動きに合わせてくれた。いくらか経ってから唇を離し、二人は無言で見つめ合う。
 今日ここへ来たのなら、優生も少しは佐恵をそういう相手として見てくれたのだろう。但し、逃げ場所としての関係を維持したい気持ちもあるに違いない。どちらの比重が多いのか知りたいが、もし期待通りではなかった時の怖さと、彼女にこんな事を強いていながら好意など求める自分への卑しみが思考を押し止める。むず痒くて息苦しい感情は、早くこの子をどうにかしてしまいたいという衝動へと変換されていった。余計な事を忘れ、今だけでも満たされよう、と。
 優生を膝の上からソファーに下ろし、空いた手をすぐ襟元にかけてブラウスを脱がせる。露わになった肩に掌を置いて、二の腕、肘、手首と触り続けながら両手を繋いだ。

「手、柔らかいよね。」
「え……そうですか……?」

 褒められて躊躇う優生が可愛くて、佐恵も微笑む。自分の方が苦しい体勢になっていたので床に下り、膝立ちして彼女の足の間に割って入った。一度ニーハイに口づけ、立ち上がるのと共にショートパンツも脱がせてしまう。下は淡いイエローの小さなショーツだ。優生はそれを見られるのを恥ずかしがって隠そうとし、佐恵は追い縋るようにその腕を退けさせるとそのままソファーに彼女を横たえた。胸に手を当てて指先を回すようにそっと刺激を与え、返ってくる反応を見ながら少しずつ手付きを変えていく。やがて控え目に声を上げ始めた優生は耳たぶから首筋までほの赤くなっていた。佐恵もその姿に堪らなくなる。

「優生、すごい可愛い……」
「あ……」

 初めて呼び捨てにされ、ほんの僅か動揺を見せる優生を立ち上がらせ、正面から強く抱き締めた。4、5秒後に手を緩め、うなじと背筋に触れながら舌を絡めてキスを交わす。長く見つめ合い、口内に感じる優生の唾液に興奮して。

「一緒にお風呂行こ……?私も脱がせてよ。」
「はい……」

 キスの間佐恵に縋り付いていた優生は、その手でTシャツをたくし上げてきた。動きを合わせて腕を上げ、途中から自分でシャツを抜き取って床に放り投げる。

「ブラも、ね?」
「じゃあ、後ろ向いて下さい。」
「ううん。違うよ……」

 優生の腰を抱き寄せて、前から背中に手を回すようにさせた。ホックを外そうとすると佐恵の胸骨辺りに顔を預ける形になり、優生は切ない目でこちらを見上げてくる。その後ろ髪を撫でてやりながら、佐恵はもう一度、可愛いよと囁いた。





 二ヶ月程すると優生からの連絡は途絶え始め、そのうち何も来なくなった。会う度に体を求められてばかりだったら当然だろう。彼女は佐恵を家庭からの避難所として利用したかったが、割に合わない代償を払い続けるつもりも無かったのだ。
 優生を傷付けたのはすまなく思う。でもこういう別れ方になれば、もう彼女は自分に近付いては来ないし、佐恵の気持ちだって抑え込める。後味の悪さを除けば、それなりに良い解法だった。

「砂津さん、この間たまたま憩い園の前を通りかかったんですけど……」

 リマソールの店内で、座ってクロスを被ったゆかりが話し掛けてくる。鏡越しに佐恵の顔を見ながら、言いにくそうに後を続けた。

「優生先輩がいて。ニックと一緒なのに、公園の中に入らないで外のベンチにいるんですよ。」
「そう……」
「私が来たら遊んでくれたけど、多分砂津さんのこと待ってたんじゃないかって。」
「どうかなぁ……。」

 トリートメントの作業に入る前、ついでに毛先を揃えてあげるので佐恵は鋏を持っていた。霧吹きで切りたい部分だけ湿らせてから指で髪を挟む。

「私達、心配かけてるかな?」
「まあ、そうですね。」

 ゆかりは佐恵達が喧嘩したのだと思っている。きっとこのままお茶を濁していればこの子もいずれ店に来なくなる筈だ。三人でデザート券を使う約束は守れないけれど、許してねと心の中で呟いた。

「電話でもメールでもすればいいのに。先輩、ちょっと変わったところありますよね。」

 佐恵が反応薄なのでこの会話はフェードアウトしていったが、ゆかりの言葉は少々気になる。8月に、家も知らないのに優生が佐恵を訪ねてきた事を考えると、単純で危なっかしいあの子は佐恵と会えるまで公園で虚しく待ち続けるかも知れない。
 帰宅し、食事の後に寝室で考える。自分からメールするべきか。ベッドの縁を立ち上がり、クローゼットを開けて最初に優生が着ていったパジャマを取り出す。夏はとうに終わり、夕方からは肌寒い。風の吹く屋外で座り続ける彼女の姿を思い浮かべると、僅かながら罪悪感が芽生えた。
 別れるにしても、最後は直に会って話した方が良いと佐恵は決めた。「11月12日、午後6時半に憩い園へ行くよ。西口に来て。」という文面を用意して翌朝に送信する。返信は当日になっても来なかった。だから優生がどうするつもりなのかは分からないが、来なければそれ自体が返事だと受け取っていいだろう。
 タイトテーパードのサルエルパンツにショートブーツを履き、サープラス風のジャケットを着て玄関を出る。昼間より風が出てきているようだ。自転車に乗ると髪が早速乱れた。憩い園の駐輪場は東口のそばにあるので、河川敷ではなくコンビニがある方の道路を進んでいく。憩い園に着いてから自転車を停め、公園内を突っ切って待ち合わせ場所へ向かった。日の短い季節に子供の姿は無く、鞄を持ったサラリーマンやペットを連れた老人と擦れ違う。手櫛で髪を直しながら、ふと思い付いてあの自販機に寄り、温かいコーヒーを買っておいた。
 西口のゲートをくぐって河川敷の舗装道路に出ると、すぐ南に街灯とベンチがある。実際にその瞬間を迎えるまで佐恵に自信は無かったが、座っている優生が見えた。本人よりも、退屈そうにしていたニックの方がまずこちらに気付いて駆けてくる。彼に引っぱられる形で優生も目の前までやって来た。ジャージにベンチコート姿だ。

「ニック、元気だった?」

 まだ憶えていてくれたんだなと思う。屈んでその背中を撫でながら、優生を見上げて話し掛けた。

「久しぶりだね。」
「はい。会いたかったです。」

 優生は笑ったが、無理をしているように見えた。両手をポケットに入れ、詰めておいたコーヒーを渡してから皆でもう一度ベンチに座る。ニックも座席に飛び乗り、佐恵が抱っこしてあげた。

「優生がどうしてるのか、ちょっと気になって。」

 ニックの耳元を触りつつ優生を見る。手が塞がった為、コーヒーは飲まずに置いておく。優生の方はもう缶を開けて、一口目を飲んでいた。

「寒くない?」
「大丈夫です。でも警備の人にちょっと変な目で見られました。」

 膝の上に手を乗せ、そこに収まった缶を見つめ、少し考えてから彼女は言った。

「衛利さんとお父さん、別れたみたいです。」
「そうなんだ。まあ、あの性格じゃねぇ……。」

 恐らくどこかでぼろを出したのだろう。一生自分を取り繕う事など出来ないわけだが、早い段階でこういう結果になったのは幸運だ。

「お父さんは何も言わないけど、わたしの方にも連絡来なくなったし、休みの日とかずっと家にいるんですよ。」
「落ち込んでる?」
「多分。わたしに家にいて欲しいみたいで。もう受験の事考えなさいって言うんですけど、本当は自分が寂しいからなんです。」
「失恋パパか。大変だ。でも優生には良かったよね?」
「そうですね……。」
「DVとかなったら、嫌じゃん。」
「もしかしたらって、ちょっと思ってました。」
「もう心配ないね。」

 ニックが上半身を起こしたので離してやると、今度は優生の膝の上に引っ越していった。もっと体を動かしたがっているように見える。

「ごめんね。家で遊ぼうね。」

 ニックの頭を撫でる優生。衛利がいなくなり、この子が佐恵を頼る理由は消えた。わざわざ話すまでもなく、全て終わりだ。

「ゆかりちゃん、リマソールに来てます?」

 その話題は、コーヒーを飲み終える間だけの繋ぎだと承知で答えた。

「うん。優生はどうしてるの?」
「よそに行きました。友達に勧められたとか、適当に理由つけて。」
「上手な人?」
「わたしは佐恵さんの方が……」
「ありがと。」

 お世辞でも嬉しいよと、優生がコーヒーを飲み干す姿を見つめて言う。丁度飲みきったところで腰を上げた。

「じゃあ、私は行くよ。」
「え……?」

 優生が戸惑った顔をする。何故なのか分からないけれど、もう気にする必要は無い。

「元気でね。」

 背中を向けて公園の方へ歩き出した。優生は追ってこないから、大方ちゃんと別れ話でもしたかったのだと思う。しかし、どのみち結論が決まっているなら無意味だ。佐恵は足を止めず、公園のゲートに向けて体の方向を変えた。
 と、足元に重たい物が掴まってきてよろめく。ニックだった。

「え、どしたの、ニック!」

 そのまま腰にのし掛かられて尻餅をついてしまう。構ってくれと言わんばかりのニックを受け流し、ようやく立ち上がったところで優生と目が合う。険しい表情。今まで見た事が無いような。

「ほんとに行っちゃうつもりですか?」

 彼女が佐恵を止める為にニックをけしかけたのだと理解した。

「だってもう、私達……」
「やだ!」

 面食らって声を失う佐恵に、優生は更に叫んだ。

「今帰ったら、わたし佐恵さんのこと本当に嫌いになっちゃいます!」
「え……」

 今度は佐恵が戸惑った。自分はとっくに、限界まで嫌われている筈だ。そうではないというのなら、と思考を整理するよりも早く、優生の顔が歪み、涙が溢れだしてきた。それを拭おうともしないまま走って飛びついてくる。佐恵にしがみつき、胸に思い切り頬をなすり付けて泣いた後、少しだけ顔を離した。しゃくり上げるのが辛そうだったから、佐恵は抱き返すように背中をゆっくりさすってやった。

「好き!佐恵さん、好き……」
「でも私、あんな事したんだよ……?」
「好きだから全部許したのに、佐恵さんだから!そんな事も分かんないんですか!?」

 怒られてしまった。治まりかけた涙がぶり返し、佐恵がハンカチを取り出してそれを拭く。
 この子は自分が思っているよりも遥かに純粋な気持ちで慕ってくれていたのではないか。佐恵の方が余程打算にまみれていたのではないか。胸が苦しい。今まで抑え込んできた感情に自ら手を伸ばす時だった。

「優生、ありがとね……。」

 彼女の肩と頭を包み込んで目を見つめる。

「佐恵さん、わたしの事……」
「うん。私も好きだよ。優生に負けてないと思うよ。」
「ほんと……?」

 もう一度肯定して抱き締めると、優生も背中に腕を回してきた。嬉しそうな顔でまた泣き始める。もっと明るい場所で見たらジャケットが涙の跡だらけだろうと思いながらも、構わず佐恵は優生の髪を撫でてやった。彼女の呼吸が落ち着いてから手を止めて、大丈夫?と問う。優生は返事をして顔を上げた。濡れた睫毛に紅潮した頬、そこを伝う涙も少し力の入った唇も全て愛おしく映る。もう即物的な劣情ではなく、甘くて優しい気持ちが自分を支配しているのだと分かった。

「目、閉じて……?」
「ちょっと、待って下さい。」

 人通りがないか一緒に周囲を確認した後、照れ臭そうに笑い合い、顔を上向けた優生の頬に手を添えた。それを肩へ移しながら顔を近付けて軽くキスをする。目を開けた優生から離れると、ニックが佐恵の太腿に纏わり付いてきた。遊んでくれるんじゃなかったのかとご不満だ。二人がじゃれていると思って、仲間に入れて欲しいらしい。

「そろそろ帰りましょうか。」

 しゃがんでニックを抱き寄せて宥める優生。その頬を彼は一舐めした。多分、キスするご主人様達を見て真似したかったのだと思う。

「ちょっと違うかな、ニック。」

 優生は苦笑しながら立ち上がり、リードを持って佐恵の隣に来た。無言でそっと手を繋ぎ、確認するようにこちらを見上げる。佐恵がそれを握り返して応じるとはにかんで俯いた。

「橋のとこまで送るよ。行こ?」
「はい。」

 自転車を取ってきた後は、二人共目立った会話もせずに、時折お互いを見ながら谷久第三橋のたもとまで歩いた。別れ際、ハンドルを持っている間は手を離してしまったからと軽く抱き合い、ニックにもハグしてあげて佐恵は自宅へ戻った。
 寝る前に優生からメールが届き、ベッドに寝転んで開いてみる。送るつもりで一度諦めたもののようだ。優生にしては文章がかなり長く、佐恵に好意を持った事と、あんな接し方ではなくちゃんと自分を見て欲しいという思いが綴られていた。
 最後は『今だって好きです。でも辛くて、』と、そこで文章が途切れている。佐恵は返信用の画面を呼び出した。

『本当にごめんね。優生が好きだよ。』

 一滴、モニターに涙が落ちる。起き上がってティッシュを取り、濡れた場所を拭いた。拭いてもまた零れてしまうだろうから腕を上げて目の高さで送信処理をして。座り込んだまま、きっと優生もこんな風だったのかなと思いながら、佐恵は暫く泣き続けていた。





 冬用のパジャマを着た優生と、同じく佐恵がソファーに座っている。二人で大きい毛布にくるまって、映画版トバグリを見終えたところだ。佐恵も大野司家と同じビデオ配信サービスに加入し、最近この作品が追加されたので優生を自宅へ誘ったのだった。
 重ねていた手を離して、肩を寄せてくる優生。

「面白かったですね。」
「うん。映像化に興味なかったけど、映画館で見ときゃ良かったなー。」

 映画版は原作に全く無いオリジナルのエピソードを描いており、夏休み中、東京で行われる演劇コンクールに千絵達が参加する事になる。そこで合宿も兼ねて山能家に皆で泊まるのだが、脚本を読んだお爺様が後半を手直しすると言い出した。三食ご馳走付きで世話になっている手前、無下にも断れずに受け入れてしまう演劇部の面々。そこへ個性的な千絵のいとこ達まで乗ってきて、一騒動持ち上がるという寸法だ。長期作品の映画化としてネックになりがちなキャラクターの紹介も、子供向けのヒーロー番組であるような「説明しよう!」のナレーションで手早く解決してあって、勢いの良いコメディだった。

「やっぱり潮美先生が監修してるんだね。……出演すれば良かったのに。」
「そうですね。そしたら話題にもなるし。」

 先生は出ていないものの、千絵役はミュージカル版と同じく東澤真衣が務めている。

「真衣ちゃん、若いのに上手いわ。テレビでは全然見ないけど……。」
「ほぼ映画と舞台しかやらないみたいです。」
「ふーん……」

 他に真衣が出ている作品も見たいねと二人で話し、スタッフロール後の演出等も無いようなので立ち上がる。

「私は毛布畳んでるから、トイレと歯磨きしてて。」
「はい。」

 一旦別れて、寝室へ向かう。今映画を見ている時もそうだったが、優生は声を上げて笑う回数が減った。その原因は全部佐恵にある。だから単に恋人として振る舞う以上に、彼女に対し果たすべき責任を感じていた。もしそれが出来たと自分で思えたら、改めて好きだと伝えたい。
 洗面所で優生に追いつくと、歯ブラシを持った佐恵に黙って背中をくっつけてきた。

「磨きづらいよー。いたずらしないの。」

 わざと仕事を増やすように髪を乱してやる。

「わー、あー。」

 やられた、という顔でブラシを取る優生。佐恵が口をすすいだ後、揃って寝室に戻った。足元の暖に入れておいた湯たんぽを出し、靴下を履いてからベッドに入る。

「優生、おいで。」

 掛け布団を広げて優生を招き、二人共肩まで収まったところで寝やすく姿勢を正した。枕元のスタンドライトも消していざ目を閉じようとする。筈だったのに、優生がじっとこちらを見ていた。

「そんなに見られたら寝れないよ。」
「どこにも行かないで下さいね?」
「大丈夫、行かないよ。」

 優生の手を握ってから、体を横にしてその上半身を抱き寄せる。前髪をよけておでこにキスをしてあげた。

「どう?」
「ちょっと、目が冴えちゃいそうです。」

 二人はまた仰向けになった。

「じゃあ、指でゆっくり字を書き続けるの。そうすると寝れるんだよ。」
「何て書くんですか?」
「へのへのもへじ。」
「本当ですか、それ……」

 最初は信じていた優生が疑いの目を向けてくる。小さく灯る幸せを感じながら、眠るまで少しの間、佐恵達は下らないやり取りを繰り返した。




 終わり




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