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※「愚かな気分」の番外編です。そちらを先に読む事をお勧めします。
放課後、登希子(ときこ)は荷物をまとめ、教室に戻らなくても帰れる状態にしてから廊下へ出た。窓外を見ると、グラウンドで準備中の運動部員が動き回っている。敷地内の北側にあり、普通教室や職員室などのある校舎が現在地、西側には体育館、東側に特別教室棟。そこの2階に図書室がある。渡り廊下と呼ばれる、簀の子を並べただけの道を通って特別棟へ向かう。1階の保健室の窓が開いて、河坂(かわさか)先生が顔を出した。換気をするらしい。
「先生こんにちはー。」
「こんにちは。図書委員?」
「そうです。津代(つしろ)先生、もう通りました?」
「うん、さっき。」
それを聞いて少し口元が緩まった。階段を昇り、まず視聴覚室の前を過ぎると、奥に「図書室」の名札が見える。その間にある、図書・視聴覚準備室のドアをノックした。返事は待たずにそっと中を覗く。
「失礼します……」
ドアから真っ直ぐの窓際にスチールの机があって、先生は椅子に背中を預けてこちらを見ていた。
「茉理(まつり)先生、こんにちは。」
「こんにちは。今日もよろしくね。」
両側の壁にそれぞれ、視聴覚と図書用の教材棚があるので、図書用の空いている所に鞄と手提げ袋を置き、羽織っただけのコートを脱いだ。制服のタイを直すのに鏡を出そうとしていたら、先生が立ってきて直してくれた。
「ありがとうございます。」
「ううん。あ、私も髪、纏め直したい。」
「やっぱり、鏡出しますね。」
椅子に戻って、手早く後ろ髪を束ね直す先生の、動作を見届けてから鏡をしまう。そこへ再びノックが鳴り、今日二人で図書当番を務める後輩が入ってきた。棚には登希子が荷物を置いてしまったので、机の方へ誘導する。先生はここに常駐しているわけではないから、手荷物程度の物しか乗っていない。
「伊嶋(いしま)さんも、直してあげる。」
「え、え、何ですか?」
説明もなく先生にタイを直され、彼女はちょっと照れた表情で笑う。伊嶋さんはコートを持ってきていない。何故そうなるのか分からなかったのだろう。登希子は身振りで上衣を脱ぐ仕草と、自分のタイを摘んで、先に直して貰ったのだと教えた。
「なるほどですね。」
いきなり近付いて来られたら慌てても無理はない。先生、綺麗だもんねと登希子は思った。
田舎の小さな高校では、図書室もそれ程大きくなかったので、入学当時の登希子は余り来た事が無かった。ある時情報誌で好きな作家のインタビューを読み、その人が「俐風(りふう)」という文芸誌で連載を始める予定だと知る。登希子は俐風を買っていないのに、どこかで見た覚えがあると思って記憶をなぞり、図書室の雑誌棚でめくったのを思い出したのだった。こういうのも置いてあるんだ、と。
そこで連載開始の号が出た頃にちょっと図書室を覗いてみた。棚には無い。新聞や雑誌は貸し出しをしていないから、誰かが読んでいるのかと観察してみたが、それも見当たらず、仕方なく当番の上級生に尋ねたところで、準備室から茉理先生が出てきた。手に持っている物に目が行く。
「先生、それ……」
「これ?ごめんなさい、読みたかったの?」
カウンターの横で本を受け取り、空いている席に座る。取りあえず目次を開こうとしたら、自然に読みたいページが出て来た。開き癖のせいだ。思わずカウンターの方を見ると、まだそこにいた先生と目が合った。不思議そうな顔で見返してくる。その時お互いに初めて、同じ作家が好きなのだと気付いた。
登希子は茉理先生とよく話すようになり、進級してから図書委員になった。自分は彼女に対して特別な感情を持っているのではないかと思う。それを確認する為、近くに身を置いた。生徒として可能な範囲で先生の側にいて、満足出来るなら、きっと只の憧れだ。
もうじき登希子はまた進級する。来週にはバレンタインデーが来る。当日は先生にプレゼントを渡そうとする生徒もいるだろう。また、三年生になれば定期の図書当番から外される。二人きりで会って、何か渡せるチャンスは今週だけだ。登希子は家でチョコレートケーキを作ってきた。それが答えだった。短い時間でも、先生を独り占めしたくてそこまで計算するのなら。
閉館時間が過ぎ、片付けと戸締まりを終えてから伊嶋さんは帰っていった。見送りの後、自分の持ち物を纏めようとする先生を呼び止める。
「先生、ちょっと渡したい物があって……。」
「ん?何かあったっけ?」
スクールバッグの隣、手提げの中にもう一つ、口を閉じられるタイプの紙袋が入っている。登希子はそれを取り出し、机の上へ乗せて中を開いた。
「これ……、バレンタインのです。」
「えー、ケーキ!わざわざ、いいの?」
「はい。」
紙皿にプラスチックのフォークと、多少ムードに難ありだが仕方ない。
「飲み物、ありますか?」
「あんまりないかも。」
先生が持参している水筒のコーヒーは、もう残り少ないようだ。登希子は自販機で買っておいたパック入りの紅茶を渡した。ここまで準備してきたら、自分の気持ちなんて丸わかりじゃないのかと、緊張が高まってくる。気付かれないように呼吸を整え、ついでに先生の反応を盗み見た。変に思われてはいなさそうだった。
包みを解かれ、白い皿に丸いブラウンのケーキが乗る。崩れやすい装飾は出来ないから、上には粉砂糖とアラザン、それとミントの葉だけ。地味過ぎるかと思ったが、殺風景な準備室には割と合っていた。
「椅子、持ってきて?」
「ここにありますよ。」
そう言って先生の向かい側に座ろうとしたら、
「違うよ。こっちに来て、一緒に食べよ。」
「でも先生……」
一緒に食べるのは気が引けるし、そもそもフォークが一本しかない。それでも茉理先生に押されて、椅子を持ってきてしまった。二人で90度に机を囲む。どうやって食べるのかは訊くまでも無かった。先に一口食べた先生が、フォークでケーキをまた切り取る。自分の手で、登希子の口に入れるつもりだ。
「あ、林檎入ってるんだ。」
「チョコだけだと味気ないんで……。」
「美味しそう。ほら、あーんしなさい。」
「はい……」
幸せな往復だった。ケーキを、もう少し大きく焼いても良かったと思うくらいに。ただ、これが余りに続いたら、感極まって耐えられないとも思う。もう味なんてろくに分からない。やたらと喉が渇いてきた。
「最後の一口。私にも食べさせて?」
フォークを渡され、今までの繰り返しと違う動作に、我に返る。ちょっと子供っぽい笑顔で待つ先生と、自分の間にあるケーキの一欠片。それを刺して彼女の唇まで運ぶ。咀嚼する様子を見つめていたら、微笑んだまま眉をひそめられた。
「あんまり見るもんじゃないわ。」
「すみません。」
「でも美味しかった。ありがと。」
終わった。そして、告白するタイミングが来た。ティッシュで口元を拭いた後、ここだと立ち上がる登希子に向かって、先生は言った。
「でも清水(しみず)さん、こんなにしてくれるなんてどうしちゃったの?」
何度も考えて、練習してきた筈の言葉が出てこなくなる。瞬間的に、「どうしちゃったの?」という問いの意味を見極めようと思考が回転したからだ。先生が登希子の気持ちを気付いているなら、これはやんわりと断られているのだろう。逆に知らないとしても、好きだと伝えて受け入れてくれるかどうか。何故こんな事をしたのか尋ねる位だから、彼女が生徒以上として自分を見ている確率は低い。もし、仲良くし過ぎたのかと思われて距離を置かれたら。ここで危険を冒すより、あと1年、今まで通り共通の趣味を持つ相手として楽しく会話出来た方が幸せではないか。
「あの、先生にはずっとお世話になってますから、こういう機会にお礼が出来たらと思ってて。」
それで良いのかと自問しながらも口は動く。もう引き返せなかった。先生は頷きながら登希子の言い訳を聞いている。何か、彼女の方も自分に好意を持っているような反応が見られないかと期待したけれど、悲しくなってきて止めた。
話し終わってから、立ち上がった先生が髪を撫でてくれる。
「ちょっと伸びたね。」
「冬なんで。もう少ししたらまた切ります。」
ショートヘアを適当に手で直し、そのまま二人で食後の残骸を片付けた。話し掛けられても上の空の返事しか出来ない。
「このケーキの作り方、教えてくれる?」
「覚えてる限りで良ければ……。」
鞄からルーズリーフを出してきた。顔を見られないように俯いてレシピを書き込む。泣き出しそうなのは登希子自身のせいだと、その事実がとにかく痛かった。何とか顔だけ笑って紙を手渡す。
「ありがとう。私も家で作ってみるね。」
帰ったら、沢山泣こう。また明日も茉理先生と話せるように。それだけを考えながら、登希子は先生の目を見ていた。
どこかでメロディが聞こえている。情緒がなく、快くもない。これは目覚ましだと分かったところで、自分は寝ていて、今起こされたところなのだと把握した。肘を支えに上半身だけ起こし、枕元の携帯を掴む。アラームを止めたついでに通知を見ると、メールの着信があった。今じっくり読んでいる時間は無いからと、携帯をスタンドに置いてベッドを降り、廊下を洗面所へ向かう。戻ってからパンツ、セーターを身に付けた。一緒にコートも出しておく。鏡台の前に座って、簡単にメイクをしながら、その隅の封書に目をやった。眼鏡ケースと並んでいる。茉理先生からの手紙だ。返事は昨夜考えたので、仕事が終わったら書こうと思う。そのせいで昔の夢を見た。鏡の自分を見て、あの時のように、ちょっと伸びてきた髪を触ってから登希子は立ち上がった。
仕事場まで15分程、通勤ラッシュが過ぎた時間帯は比較的静かだ。歩きながら今日の予定を頭の中で組み立てる。
登希子は高校を出て就職し、数年後に小説教室へ通い出した。あくまで趣味のつもりだったのだが、ゲスト講師の脚本家、金塚(かねつか)まゆみ先生に見出され、「清水潮美(しみずしおみ)」の筆名で活動する事になった。そこから「ラプソディ」というライトノベル誌で執筆する機会を得て、暫く短編を寄稿、そのうち評判の良かった一編「トゥ・アン・エバーグリーン」が連載となり、ヒットして今に至っている。東北地方南部の高校を舞台に、東京からの転入生・山能千絵(さんのうちえ)と演劇部の仲間達の日々を描いた作品だ。本編はもう終了しているものの、昨年映画化されるなど、やはり登希子にとっては代表作になるだろう。
仕事部屋の前まで来て、インターホンを押す。少し経ってから返事が聞こえた。
『はーい。』
「花恵ちゃん、登希子です。」
『おはー。今開けるよ。』
ドアの向こうで微かに足音がして、鍵が開いた。顔を出したのが升花恵(ますはなえ)、登希子のパートナーである。彼女は栗谷知花(くりやともか)という名でイラストレーターをしており、ずっとトバグリの挿絵を描いてくれていた。普段も気が合ったから、二人で部屋を借り、一緒に働いている。
「上着掛けて、手洗ったらご飯にしよーぜ。」
仕事場は、玄関から洗面所脇を抜けてダイニング、それから共同の作業部屋と、一番奥に二人の自室がある。登希子は部屋でコートを掛け、手を洗ってからまたダイニングに戻ってきた。その間支度をしていた花恵は、今テーブルに食事を並べている。ジーンズとカッターシャツにエプロン、緩いウェーブヘアは縛ってあり、彼女が振り返る度に背中で動いていた。それを眺めていると抗議してくる。
「見てるだけか!」
「手伝うって。」
今朝のメニューは、小豆と南瓜の煮物に、コンビニで売っているバターロールだ。
「冷蔵庫にキウイもあるよ。デザートのつもりだけど、後で食べてもいいよ。」
「うん、ありがと。」
「コーヒーと紅茶と水、どれにする?」
「抹茶。」
「ねーよ。」
却下されたので水を貰い、花恵と向かい合って着席した。
「いただきます。」
煮物を食べ、マーガリンをお供にパンにも手を伸ばす。
「ジャムは?」
「いらないかな。煮物の味が……」
「あー、分からんくなる?」
朝食は交代で当番し、昼は二人で買いに出て、夕食は一緒に作るのが清水・栗谷宅の基本ルールだ。
「しおちゃん、夜は何食べよっか。」
「リゾットは?」
「お腹に良い感じで?」
「そうそう。」
そこからリゾットの具をどうするか話しながら、食事を終えて器を片付けた。
「今朝メールが来ててね、普段そういうのが来ない時間だったから……」
「急ぎの用かな。」
「さぁ、何とも。」
作業部屋に移動したらまず打ち合わせをする。部屋の真ん中に置かれた机の両側、向かい合うそれぞれの椅子に座った。登希子はノートPC、花恵はデスクトップを立ち上げる。待っている間、彼女は伸びをしながらあくびをし出した。
「向こう向いたら?」
「今更、いいじゃんか。」
二人で気抜けた笑いを交わしながら、メールをチェックする。
「これ、仕事のじゃなかった。真衣ちゃんからだわ。」
「東澤真衣(とうざわまい)ちゃん?」
「うん。えー、舞台挨拶から、全然会ってないので、そのうちご飯でも行きたいって。」
「私も会いたい!駄目かな?」
「じゃあ、聞いてみるね。今返事書くから、お店も選ぼうよ。」
真衣は、映画版のトバグリで千絵を演じてくれた女優だ。花恵は直接ストーリー作りには関わっていないので、映画では販促のみに参加していた。頻繁に真衣と会い、しかも懐かれている登希子が羨ましいらしい。
「しおちゃん、もうじき帰省するよね?真衣ちゃんと会うなら、その前か後か……」
「後の方が、都合合わせやすいでしょ。ついでにお土産渡せるし。」
「実家の?」
「うん。」
大体の時期を決め、今度はお店を検索する。めいめいネットで調べつつ、記憶にある店も加えて候補を絞っていく。
「個室がいいよね。真衣ちゃん、有名人じゃん。」
「料亭とか行く?」
「いや、そんなんじゃなくても……」
何軒か良さそうな所を選んで、メールに書いた後、花恵が一緒でも構わないかと添える。真衣からの返信は夜になるのではと予想していたが、お昼時にはもう届いていた。「今、ご飯食べてます!」という文に、出来合いの弁当を持った自撮りの写真が添付されている。背後にマネージャーの野町啓子(のまちけいこ)さんも写っていた。中学生男子のようなルックスの人なのだが、最後に会った時より細くなった気がする。「お久しぶりです」と書かれたスケッチブックを胸に抱え、良い笑顔だった。
「で、私もお呼ばれオーケー?」
登希子の後ろにやって来て、開いている画面を覗き込む花恵。
「真衣ちゃんも会いたいって。皆で会うなら、お泊まりしたいですって書いてある。」
「おー、いいね。しおちゃんの家でいいのかな?」
「多分。」
真衣と仕事で会い始めた頃、夕食と打ち合わせを一緒にした事がある。野町さんも一緒に、中華料理店に入って会話しながら、来た料理を食べ始めた、と思ったら真衣がお腹を壊してしまった。
「真衣、朝寝坊してちゃんとご飯食べてこなかったんですよ。お昼も時間が圧して、結局大して胃に入れないままでここに来ちゃって……」
野町さんが薬ケースを取り出しながら説明してくれた。体を丸め、テーブルに顔がくっつきそうな状態の真衣は、顔色が悪くなってきたように見える。
「先生、ごめんなさい……。」
「それはいいから。私の家が近いけど、休んでいく?」
真衣達は車移動なのに対して、登希子は徒歩である。そこで野町さんは、先生の所から近い場所にしましょうと配慮してくれていた。
「有り難いですけど、いいんですか?先生。」
「私は全然。真衣ちゃん、泊まっていってもいいけど?」
「え、うーん……」
真衣はやや緊張しているようだった。具合が悪いせいもあって、はっきり表情に出たわけではない。が、野町さんはそれを見て何か思い付いたらしい。
「真衣、甘えちゃいなさい。朝迎えに行ってあげるから。」
「そう……?じゃあ、先生のお世話になります。」
マンションまでは車で送って貰い、そこから真衣だけを預かって帰宅した。幸い薬ですぐお腹は落ち着いたから、お粥を食べさせ、ゆっくり入浴もして、ばたばたせずに済んだ。後から風呂に入った登希子が寝室に戻ってくると、真衣は鏡台の前に座っていた。ドア正面の隅にあるベッドの、対角線上に設置されている。
「潮美先生、ありがとうございます。」
「ううん。すぐ治って良かったね。」
真衣が座っている椅子の側にクッションを持って行き、床に座った。登希子はパジャマ、真衣にはゆったりしたワンピース状の部屋着を貸している。身長差から、セパレートなパジャマではつんつるてんになってしまうからだ。
「先生、場所替わります。」
「ここでいいわ。」
下から見上げる姿勢で話し掛ける。
「それ、読んでみた?」
「はい、こういう風にキャラクターを作るんですね。」
本来の打ち合わせも少し出来ればと、トバグリの執筆時に使っていたキャラクターシートを真衣に渡しておいた。家庭環境や、食べ物の好み、服の趣味から色々、主要キャラについては本編で使われなさそうな部分まで考えてある。
「千絵、葡萄が好きとか、似合うなって思います。」
「お嬢様だから料理は出来ない事にして、そうすると簡単に食べられて、甘くて美味しいもの、みたいな連想なんだけど。」
「りんごなんかは剥けないんですか?」
「私の中では、何とか剥ける、ぐらいになってるね。でも指怪我しそう……」
「危ないですねぇ……」
二人で目を閉じて、りんごを剥く千絵を想像してみる。私服で台所に立ち、髪はポニーテールにでもして、と見た目は簡単に出てきたが、動作が進まない。単に剥けるというだけでは、やっぱり駄目かな、となったところで目を開けてみると、真衣と視線が合っていた。慌ててちょっと恥ずかしそうに俯くのが可愛くて、ただ想像していた反応と若干違ったのを密かに訝しみ、そこで野町さんの言葉が浮かんだ。真衣は外見が千絵のイメージ通りで、つい性格の方も同じように考えてしまっていたが、実際は幾分人見知りをする子なのだろう。今夜、初めて二人だけで話す機会を得たから気付いた。野町さんは、真衣の事を知っておいて下さいと暗に伝えていたのだ。
立ち上がって椅子に手を掛け、鏡台の鏡に映った真衣と向き合う。
「今日はちょっと強引に誘っちゃったね。ごめんね、真衣ちゃん。」
「そんな、とんでもないです。私も、もし時間があったら先生に教わりたい事があったんです。」
「トバグリの事?千絵の何かかな。」
真衣は椅子からこちらを振り返り、体もずらして向きを変えた。
「それとは違うんですけど、物語を作るのって、どういう風にするのか知りたくて。」
「脚本でも書くの?」
「いえ、今、仲の良い人達で集まって、短編映画を撮ろうって話になってるんですよ。で、話は全員で考えるんです。」
「なるほどね……仲間内だけで見るのかな。」
「はい。年を取ったら、また皆で見返すつもりで。」
「それはいいかも。でも説明すると長いから、ベッドに行って、リラックスして話そうよ。」
「リラックスすると寝ちゃいそうですね……。」
ベッドの方を、遠慮がちに見やる真衣。途中で寝られても登希子は構わないが、真衣はそうもいかないだろう。そこで、
「じゃあ、ついでに体をほぐしながらさ。ね。」
「でも……」
「ここまで来て、遠慮しないの。」
「それじゃ、お願いします。」
眼鏡を外してスタンドに立て、真衣を椅子からベッドまでエスコートする。
「いつも、息抜きに栗谷とやってるのよ。お互いにぎゅうぎゅう。」
「栗谷先生、最初にお会いしたきりですね。格好良かった……」
「見た目は、ね。」
うつ伏せに真衣を寝かせ、その側に座り込んだ。取りあえず腰に親指を当てて、軽めに揉んでみる。
「効いてる?」
「効いてないですね……。」
若者だからと力を抜いたが、もっと強くていいようだ。
「このくらい?」
「もっとです。」
「あら、真衣ちゃん、体凝ってる?」
と言いつつ中年向けの強さで揉むと、ようやく丁度良くなったらしい。
「私と変わらないんじゃない?柔軟は出来る方?」
「けっこう硬いですよ。」
「ね、ちょっと起き上がってみて。」
二人で足を伸ばして並び、腕も上げて体をコの字にした。そこからせーの、と前屈してみる。掛け声だけで上半身がちっとも沈んでいない。思わず顔を見合わせた。笑い声が漏れてしまう。
「これは何とも……」
「ですね。毎日練習したら柔らかくなりますか?」
「多分……試してみようか。」
盛り上がってきてから、会話が途切れた時に見ると、真衣が楽しそうな表情のままでいる。一段階打ち解けられたようだ。
それから二人は食事をしたり、仕事と関係ないメールを送り合ったりするようになった。野町さんにもお礼を言われた事がある。先生のおかげで、真衣はより頑張っているようだと。他の友達に比べれば、登希子の果たした役割など然程ないと思うが、年上の、甘えられるお母さん的な対象なのかも知れない。と、本人の態度から何となく予想している。
帰宅して寝るばかりの状態にした後、寝室のクローゼットを開け、真衣の着ていった部屋着を取り出す。これは昔花恵がプレゼントしてくれた物だ。動きやすいよと彼女が説明していた通りだったけれど、地味な自分には似合っていなさそうで、余り着ない内に年を取ってしまった。また真衣が泊まりに来るのならと、良く使うグループの方にそれを移動させてから扉を閉じ、ベッド横の書き物机に向かう。二つ便箋が置いてある。一方は茉理先生の手紙で、もう一方が返信用の白紙だ。
登希子が先生と直に会ったのは、成人式の時が最後だった。それから彼女は転勤し、数年後には結婚もしている。登希子もデビューを目指し始めた時期だったので、手紙やメールのやり取りだけ、というのが暗黙に普通となって今に至る。が、昨年先生のご主人が退職した為、登希子の地元、枝泉町(えだいずみちょう)に戻ってくる事にしたらしい。ご主人はその近隣の出身で、先生も赴任経験があり、二人共馴染みのある土地だから決めたそうだ。
時候の挨拶、近況、具体的な予定と筆を進めながら、過ぎた時間の長さに思いを巡らす。登希子も「お姉さん」では通じない年齢になったし、先生は更に年上だ。高校生だった頃には、ここまで付き合いが続くとは思っていなかった。
当時、転勤をきっかけに、恐らく縁も切れたつもりでいたのが、先生の方から手紙が届いた。意外だったけれど、文面を読み進めるうちに分かった。自分は気を使われている。きっと、茉理先生はバレンタインプレゼントの日、登希子の感情に気付いていたのだろう。でも上手く対応出来たとは思っていない。それで説明が付く。
気にする事なんてないのに、そもそも途中で諦めた私の方が問題だと、申し訳なく思いながら返事を書いた。この時の気持ちも、告白しようとした時の気持ちも、今では心の中で整理されている。手紙やメールを送る際には、いつも先生からの文や、自分が前に書いた内容を見返しながら書くから、それが少なからず役に立ったのは自明だ。
思い出と上手く向き合えるようになったのは、本人にそんなつもりは無くとも先生のおかげで、今の自分を作ってくれた点で言えば、花恵もそうだ。出会えて良かったと、日頃から思っている。一々口にする事はないけれど。
文章の締めに差し掛かり、その前にちょっと喉を潤したくなって、登希子は席を立った。
車窓から見える景色が流れていく。空は薄曇りだが、寒くはない。今登希子が乗っている長距離バスは、数年前に運行が開始されたもので、都内から実家の近くまで一気に運んでくれる。それまでの、電車を乗り換え乗り換え、という面倒さに比べたら、相当楽になった。但し、停留所は何もない路端にあり、そこからの交通手段は自力でどうにかしなくてはいけない。登希子の場合は、事前に義姉の有喜(ゆき)に迎えを頼んである。時刻表を見て、おおよその到着時間を知らせ、バスを降りて暫く待っていると、車がやって来た。見ただけでお互い判別出来るので、クラクションは鳴らさずに路駐し、早く乗れと合図してくる。
まず後部座席にスーツケースを置いてから助手席に乗り込んだ。ドアを閉めて挨拶を交わす。
「有喜さん、有り難うございます。」
「いいのよ。登希ちゃん、これから夕飯の買い物するけど、いい?疲れてるなら先にうちに置いてくるけど。」
「大丈夫です。」
「じゃあ、一緒に色々選んで。」
有喜の服装は大体3段階に分かれていて、よそ行き、買い物、散歩程度の順に見た目が変化する。その基準で見て、これから寄り道するのだと予測は出来ていた。
「みっちゃん、どうしてます?」
行き先が決まり、走り出した車内で会話する。有喜は前を向き、登希子だけが首を動かしていた。
「春休みでごろごろしてるわ。登希ちゃんと、どっか遊びに行きたいって言ってたよ。」
「えー、今言われても……」
「帰りに、一緒に東京へ連れてってくれって事じゃない?」
「そういうあれですか。じゃあ、夏休みにでも、ちゃんと予定を立てて連れて行きます。」
「そうだね。考えなしに行っても、ぐだぐだになっちゃうよ。」
姪の満穂(みちほ)は今度高2になる。都会に住み、作家をする叔母に少々憧れがあるようだ。でも、将来どうしたいのか訊いたら、地元で就職したいと言っていた。案外現実的に割り切っているらしい。
「で、パパが最近、家で納豆作り始めてさ。」
話題の先が兄に移った。登希子の実兄、晃生(こうせい)だ。
「コタツで発酵させるんだけど、今年はずっと出しとくぞって。どこに置くのよねぇ。」
「兄ちゃん、去年は松ぼっくり細工でしたね。」
「そう。それよりは実用的なんだけどねぇ。」
ただ、今夜は筍ご飯にするそうなので、納豆は出てこないとの事だ。それと周りの副菜の材料も買い込み、真っ直ぐに帰宅した。初めは花恵と真衣へのお土産も選ぶつもりだったが、支度にかかる時間を計算して、遠慮しておいた。
まずガレージに車を入れてから、二人で玄関まで荷物を運ぶ。その時に居間の前を通るので、中を見てみると、満穂が手を振っていた。立ってドアの方へ向かったから、玄関へ出迎えに来るのだろう。
「お母さん、叔母さん、お帰り。持ってあげるよ。」
「みち、お祖母ちゃんは?」
「ばーちゃんは部屋。呼んでくる?」
「いや、そのうち出てくるしょ。」
玄関を入り、廊下の左手側に居間の戸、その奥に台所、洗面所と風呂場が続き、トイレは突き当たり。右手側が家族の居室で、母の部屋は一番奥にある。話し声と物音が聞こえたらしく、すぐに顔を出してきた。その間に満穂がドアを閉める。部屋着にサンダルという出で立ちのところへ風を受け、うへぇ、と肩を竦めていた。
「登希子、お帰り。有喜さんも。」
「ただいま。あ、お土産渡しとくね。」
スーツケースを開け、ギフト包装の箱を手渡す。
「これは?」
「入浴剤セット。」
「へえ。ばーちゃんは何でもいいから、後で満穂、選んでくれるかい?」
「はーい。」
「じゃあ、登希子は荷物置いて、お父さんのとこ行っといで。有喜さんと、支度始めてるから。」
「登希ちゃんは休んでる?」
「戻ってきたら、手伝います。」
「それなら早く出来るわ。みち、叔母さんの荷物運んであげて。一緒に寝るんでしょ。」
「うん。」
二人でトイレ横の階段を昇り、2階に着いたところで満穂に手を伸ばして荷物を引き上げた。2階は廊下が窓に面しており、部屋は全て向かって右にある。そして突き当たりがベランダの入り口で、廊下とベランダで部屋を取り囲むような構造だ。その突き当たりの、道路に面しているのが満穂の自室である。かつては登希子が使っていたのと、この子が叔母好きな事から、帰省時は毎回ここで寝ているのだった。
「開けたげる。」
「ありがと。」
登希子を待たせて、満穂がドアを開けてくれた。連れだって中へ入る。ガレージと庭が見える方には窓と、道路側は半面がガラス戸で、戸のない壁際にベッドがあった。隣の部屋と接する壁面には押入と、その横に学習机が置かれている。ベッドは満穂の為に買われた物だが、この机は登希子のお下がりで、見ると懐かしい。
「宿題とか、出てるの?」
机の側にスーツケースを置いて、上着を脱ぎつつ話し掛けた。
「ううん、春休みだから。」
満穂は上着を受け取り、押入を開けながら答える。内部はクローゼット兼本棚になっていて、私服と一緒にセーラータイプの制服が見えた。
「みっちゃん、後で制服着て見せてよ。叔母さん、まだ実際に着てるとこ見てないのよ。」
「そっか。じゃあ、ご飯食べたらね。」
「うん。」
部屋を出て、行きとは逆に満穂が先を歩く。高校入学当時から、徐々に髪が短くなっているなと思う。この方が似合うとも。
「可愛いね。髪。」
「ほんとー?」
「本当本当。」
ただ、後ろを縛れないと不便なので、この辺が打ち止めだそうだ。
と、階段を降りた後で満穂と別れ、仏間に行って父に手を合わせてきた。他の家族に比べたら、兄は最も気を使わない相手だし、これで顔見せは一段落と言っていいだろう。
夕食と、何故か全員参加になってしまった制服撮影会を終え、登希子は部屋に戻った。庭側の窓の側には、日中日なたで寝転がれるようにラグが敷いてある。座布団を持ってそこに座り、携帯を取り出した。満穂が風呂に入っている間、花恵に電話しておくつもりだ。前もって知らせてあるから夜間でも構わない。
『もしもし、花恵ですー。』
「登希子です。夕方、実家に着いたから。」
『そっか。ご家族によろしく言っといて。』
「言ったよ。」
今年の正月は、二人で花恵の実家に帰省した。毎年交代で、正月はどちらかの実家へ一緒に行き、行けなかった方は年度末に一人で行く、という方式になっている。
「お土産まだ買ってないんだけど、欲しいのある?いつもの和菓子屋さんの詰め合わせとか……」
『それがいい。あとはお任せで。真衣ちゃんにはどうするの?』
「東京で買えなさそうなのを見繕って、選んでもらうつもり。」
『余ったのは私らで……』
「うん、食べよ。」
一緒に太ろうぜ、と嫌な勧誘を受けながら、真衣にもメールしたいので花恵との通話を終えた。明日には茉理先生と会うのに、余り緊張していない。それ自体は良いとしても、うっかり忘れ物などしたら格好が悪いし、持ち物チェック表を書いておく事にした。
翌日の昼頃、予め満穂に段ボールやガムテープを用意してもらい、お土産を買い集めてから一度家に戻った。玄関先で荷物を作ってタクシーに引き返す。その足で駅前まで行って発送の手続きをし、身を軽くした上で茉理先生との待ち合わせ場所へ向かった。
登希子の実家は枝泉町の北東地域にあり、反対側の南西部に駅がある。と言ってもローカル線が1本通っているだけの小さなもので、近辺にも中くらいのショッピングモールと、2時間もあれば見終わりそうな数の店舗しかない。先生が待ち合わせに指定したのは、ショッピングモールに隣接したバス乗り場の、端の方にあるベンチだった。帰省する直前に貰ったメールの画像を見て、ここだと確認してから腰掛けた。
教えて貰った住所からすると、車で移動する程の距離ではない。そして、先生は東の方から来るだろう。と思って注意していたら、すぐにそれらしい人物が歩いてきた。登希子も自分の服装を撮って送っておいたので、向こうも気付いたようだ。立ち上がって手を振り、周囲の通行人にちょっと見られながら落ち合う。
「清水さん、久しぶりね。」
「はい、写真は頂いてますけど。」
「そうね、実物はね。」
当時、成人式の後に同窓会があって、先生と少し会話した。その時の記憶と今目の前にいる本人とを比べてみる。小皺が目つきをたれ目に見せ、顔の輪郭も昔よりややふっくらとしていた。髪の量は余り変わらないが、色がグレーがかり、触り心地も少々堅そうだ。が、そういった変化を踏まえても、この人が綺麗だと思うのは、きっと登希子だけではないだろう。
「またじっと見て。」
先生が笑いながら言った。
「老けたでしょ?」
「年は取ったと思います。でも綺麗です。」
「清水さんも、やっぱり可愛い。」
そんな、と俯いた登希子の背中に手をやって、行きましょう、と先生は促した。道路を2本渡り、角も2回曲がって後は道なりに行くと、そう背の高くないマンションが見えてきた。ショッピングモールの後ろ側と、駐車場がまだ視界にあるし、人や車も多く通る場所だ。
「賑やかな所ですね。」
「もう若くないから、人通りの多い所に住んでいれば、何かあった時に助かると思って。」
そう言いながら先生は登希子の前に立ち、カードキーを使ってロビーのドアを開けた。そこからエレベーターに乗って、今度は普通の鍵で自宅のドアを開ける。
「さあ、入って。」
促されるままに室内へ上がらせて貰う。リビングが間取りの中心にあり、そこから他の部屋に繋がる構造のようだ。洗面所など、水回りだけは玄関からもすぐに行ける。
「大事なお客さんだからって、旦那は外に追い出してあるわ。」
手を洗った後で一緒にテーブルにつく。椅子は4つあって、空いている所に荷物を置くよう勧められた。
「茉理先生、これ、お土産です。」
「あら、ありがとう。」
先生宛には、竹細工の栞セットを用意してきた。それぞれ桜、朝顔、金木犀、椿が彫られた4枚組だ。
「綺麗ねぇ。季節ごとなのね?」
「そうです。」
「これで楽しみが増えるわ。今、お茶をいれて来るから待っていてね。」
栞をしまい直してから、先生は台所の方へ立っていった。今登希子がいるテーブルの他には、窓際の角にテレビ台と本棚、それと合わせた位置にソファーがある。引っ越して間もないからか、生活感が少ないなと思いながら、窓に溜まる陽の光を眺めた。朝方は雲が多く、予報でも曇り時々晴れと言っていたが、どうやら外れたようだ。
「お待たせ。準備出来たわよ。」
「ずっとここに住むんですか?」
「一生ではないけど、当分はね。まだ子供達も若くて、一緒に住む時期じゃないし。」
立って会話をしながら配膳を手伝う。お茶と言っていたが、紅茶のようだ。
「後、お茶菓子を持ってくるから、座ってて。」
「はい。」
お茶と、お茶菓子。何も気にする事なく待つ。でも、戻ってきた先生の持っている物を見て、思わず立ち上がってしまった。
「先生、それ……」
「チョコレートケーキよ。似てる?」
高校時代、登希子があげたケーキにそっくりだった。それ以上の反応が出てこない登希子に、先生は半分に切って分けるよう頼み、自分はお茶を注ぎ始めた。
「今日、どうしても清水さんにこれを食べて欲しかったの。」
自分の分のケーキを受け取り、先生は座って登希子を見つめる。
「まずは一口、どうぞ。」
促され、フォークを取ってケーキを口に運んでみる。
「美味しい?」
「私が作ったのより、ずっと美味しいです。」
「良かった。」
そう言って、先生も同じように食べ始めた。
「ずっと思っていたのよ。あの時、私は清水さんの気持ちを分かっていたのに、逃げるような返事しか出来なくて……。ごめんなさい。」
「いえ、悪いのは私ですから……」
「もしそうだとしても、年長者として、もっと向き合い方があったと思うわ。私のせいで、清水さんは決着の付かない思いを引きずってしまってるだろうって。罪滅ぼしのつもりで、何かしてあげたくて手紙を書いたのよ。」
「先生、それで……。」
「迷惑じゃなかった?」
「全然そんな事ないです。だって20年も返事を書いてるじゃないですか。」
「そうよね。」
「先生の文章を読んだら、どんな気持ちで書いたのか、すぐ伝わりました。」
「ありがとう。」
照れ臭そうに先生は笑う。ただ、思いを引きずっていたという指摘は当たっている。時間しか解決手段のないしこりはどうしてもあった。小説教室に通いだしたのも、自分へのセラピーのつもりだったのだから。そこでまゆみ先生に実力を見出され、本格的にやってみてはどうかと言われた。しかし身近にこういった事を相談出来る相手がおらず、登希子は最初、茉理先生に手紙で尋ねたのだった。それが無ければ、デビューしていなかったかも知れない。告白の失敗から始まった巡り合わせだ。
「私は、結構これで良かったんじゃないかと、今は思えるようになりました。」
「そうなの?」
先生は登希子の事情を知らないから、簡単に説明を加える。
「先生が手紙をくれたり、話を聞いてくれたり、このケーキを作った時よりも、その後の出来事の方が重要だったと思うんです。」
「それなら、今、充実してるのね?」
「はい。もうじきエッセイの単行本が出る予定なんですけど、先生にもお送りします。」
「栗谷さんとやってたあれね。」
最近まで、登希子は小説の他に、女性誌「クミア」でエッセイを連載していた。登希子の文と、花恵の1ページ漫画がセットになった構成だ。トバグリの元担当だった人が誘ってくれて、恐る恐る始めたものだが、好評のようで良かったと思う。今は引き続き、書評のコーナーをやらせて貰っている。
「この間、高校のすぐ近くまで行ってみたんだけど。清水さん、あれから行った事ある?」
「いえ、特に用事がないので……」
同窓会にも行かなくなってしまったし、学校を訪れる機会は尚更ないだろう。
「遠目から近くに行って、良く見てみると校舎の壁とか凄く古くなっててね。周りにも、田んぼしかなかったのが、家とかコンビニとか建って、こりゃ自分も古くなるはずだって。」
「知ってる人とか、もう殆どいないでしょうね。」
「当時若かった先生なら、いるかも。」
「先生、河坂先生と良く話してましたよね?」
「うん。でもずっと前に結婚して、辞めてるわ。年賀状とか、見る?」
残り少なくなったケーキをつつきながら、二人で河坂先生からの手紙をいくつか見た。昔は子供の写真が主だったが、今は猫の方が多くなっている。二匹いるらしく、非常に仲が良さそうだった。
「子供が大きくなったら飼い出してね。世話好きなのかも。」
「茉理先生は、ペット飼った事あります?」
「ないわね。TVで見て、満足してるわ。」
「私も、栗谷と何回か話して、結局止めてますね。お別れするのがちょっと嫌で。」
「そうね、また別の話になるんだけど、旦那の友達で、つい昨日まで元気だった人なのに……」
腹ごなしに必要な時間だけ、くるくると話題を転がして、最後に先生は立ち上がった。もう一度本棚に行って、今度はクリアファイルを持ってきた。
「これ、受け取ってくれるかしら?というより、清水さんのものよ。」
「私の?」
心当たりがないのでファイルされた紙を覗き、そのまま勢いよく顔を上げてしまう。驚かされてばかりだ。
「これ、私の……。」
「そうよ。」
あの日、登希子がレシピを書いたルーズリーフだった。ケーキとは違い、こちらは本物で、ファイリングされていても色が褪せ、字が掠れてきている。
「とってあったんですか?今までそんな話、聞いた事なかったですよ……」
「わざわざ話す程でもないと思っていたから。でも、今日清水さんと会う予定になって、渡す気になったの。」
「懐かしいですね……。昔の自分の字です。」
「ええ。」
登希子は座って、先生は立って、一緒にレシピを眺めた。
「もし、」
先生が言う。その顔を見る。
「ずっと教師を続けていたら、私なんかでも少しは成長出来ていたかなと、思う事があるわ。」
私なんかでも、という言葉を聞いて、自分と同じような部分がある人だから好きになったんだろうなと、振り返り考えた。
「今までずっと、ありがとう。」
「私の方こそ、ありがとうございます。」
立ち上がって礼をして、同時に別れの挨拶も交わし、登希子は荷物を纏め始めた。
「今度会う時には、外へ食べに行きましょうか。」
「じゃあ、家族にどんなお店があるか訊いておきます。」
「ううん、私が自分で調べておくから。」
「調べるって、食べて歩くだけじゃないですか?」
声を揃えて笑い合ってから、先生に見送られてマンションを離れ、もう一度ショッピングモールに戻った。タクシー乗り場へ向かう。すぐ空車に乗り込めた。
来年は正月に花恵と帰省するが、先生にも家族がいるわけだし、この時は遠慮して、会うなら日を改めた方が良い。となると、やはり春先が一番だ。暑くも寒くもなく、春休みなら実家も兄以外はのんびりしている。
茉理先生にケーキをあげたあの春は、桜や緑の、季節の輝きから自分が隔絶されて見えた。きっとこの状態が一生続くんじゃないかと悲観した。今考えれば、そうやって自分を可愛がりたかっただけなのだと分かる。窓外はそろそろ、夕刻に向けて空が色づき始めていた。
タクシーを降りて実家の玄関先に向かい、呼び鈴を押して待つ。
『はーい。』
「登希子です。」
『あら、直接入ってくればいいしょ。』
それもそうかと思いながら、ドアを開けると有喜が出迎えてくれた。母は居間にいるようだ。
「元気だった?お世話になった方。」
「はい。これから年に一回は会おうって話してきました。」
「うん。会っといた方がいいよきっと。」
靴を脱ぎながら、満穂の靴の横にレザーのスリッポンがあるのに気が付いた。昨日は見なかったし、買ったばかりには見えない。
「今、友達が来てるのよ。部屋にいるわよ。」
「そうなんですか。荷物置いてこようと思ってたんですけど……。」
「顔出してくればいいじゃない。みちの叔母ですって。」
家にいればいずれ顔は合わせるし、知らない振りというのも変だから、行ってみる事にした。
階段を上がって廊下の奥、まずノックして声を掛けた。
「みっちゃん、叔母さん帰ったよ。」
室内でかすかに音がして、満穂がドアを開けた。
「お帰りー。」
「お友達来てるって聞いたけど、荷物置いてもいい?」
「いいよ。入って入って。」
中へ招き入れられると、座布団に座っていた友達が立ち上がった。タイツにキュロットにセーターと、髪が長く背も高い。目つきからキリンを連想させる。登希子を見て随分緊張しているようだ。
「紹介するね。この人が私の叔母さんで、清水潮美です。」
満穂がペンネームの方で紹介したので、この子は自分が何者か知っているのだと分かった。それで緊張しているらしい。
「初めまして!私、阪見里穂(さかみりほ)って言います。」
里穂は深く頭を下げた。後ろ髪が乱れ、それを直しながら満穂に呼びかける。
「満穂、カバンとって。」
「え?なぜよ。」
「潮美先生、私はこれで失礼します。」
「えー!何で急に!座ってなさいって。」
「里穂ちゃん、おばさん荷物置きに来ただけだから……。」
二人で止めて里穂を元の位置に座らせ、その周りに登希子達も集まった。理由を訊いてみると、登希子に会うのが目当てで此処へ来たように思われたくないから、だそうだ。
「考えすぎだよ!」
「そうね。せっかくだから、私の事を知ったきっかけとか聞きたい。」
「はい、お姉ちゃんが……」
「りっちゃん待った。おやつ食べながら聞く。」
満穂は振り返り、ベッドに乗っている麻袋を手繰り寄せた。清水家で用いられている、通称おやつ袋だ。ここに各自買ってきたお菓子等を入れて、自由に食べて構わない、但し一人でやたらと食べるのは駄目、自分が食べた値段分は補充するといったルールがある。
「叔母さん、取りあえずこれ。」
「干し貝柱……」
「私は一度聞いてる話だから、飲み物持ってくるね。」
そう言って満穂は席を立っていった。おやつ袋の中をちょっと覗いてみたが、女子高生が食べるような品の割合が少ない。確かに財力から言って、兄の好みが最も反映されるところだが、姪はその好みにかなり感化されてしまったようだ。
「すみません、満穂が先生は晩ご飯まで帰らないって言うから、来ちゃったんです。」
「いいのいいの。私は外で食べたばっかりだから、里穂ちゃん食べて。」
登希子は小魚せんべいを取り出し、貝柱と一緒に開けてちゃぶ台に乗せた。
「うちのお姉ちゃんがトバグリを持ってて、部屋で読ませてもらってるうちに気に入って、好きになったんです。」
「お姉さんも読んでくれてるのね。」
「はい。でも今は私の方が好きだと思います。」
「そっか……」
話しながら登希子も少しだけおやつをつまみ、これ美味しいねと頷きあっていると、満穂が戻ってきた。
「たのもー。」
「はいはい。」
ドアを開けて、お盆と飲み物を持ってきた満穂を通す。
「レモンティーね。で、どこまでいったの。」
コップを配って机にお盆を置き、満穂も会話に加わった。
「高校に入ってから満穂と知り合って、家に遊びに行くようにもなって、でもその頃はまだ、何も知らなかったんですよ。」
「何も?」
「うちが、清水潮美の家だって事ね。」
満穂が説明を入れて、更に先を促した。
「ここが先生の暮らしてた部屋だなんて全然知らずに、普通におやつとか、今みたいに食べてたから、満穂にその話を聞いた時はもう、ひっくり返っちゃって。」
「なるほどね。それは驚くねぇ、里穂ちゃん。」
「叔母さんの机とか、しばらく触れなかったもんね。」
「今は?」
「触ってます……」
少し笑って、一息ついてから、三人はもっと姿勢を崩した。
「満穂にトバグリのことを勧めたら、うちにもあるって言うんです。文字の本はあんまり読まないのに珍しいと思ったら、実は叔母さんが書いたって言い出して。」
「普段は人に言わないんだけどね、りっちゃんは特別。」
トバグリの紙版は登希子が持っており、満穂には電子版を買い与えてある。他の自作もそうだ。本棚を見ても分からないので、最初のうちは会話に上らなかったらしい。
「じゃあ、私がきっかけで知り合った訳じゃないんだね。二人はどうして仲良くなったの?」
満穂と里穂は顔を見合わせて、お互いにあんたが言いなよ、という感じで目配せする。一呼吸もいかないくらいで、満穂が口を開いた。
「や、名前が似てたから。」
「それだけ?」
「他になんかあったっけ?りっちゃん。」
「いや、特には……。」
「じゃあ、それがなかったら……」
「私、ここにいないですね。」
コップを取って、レモンティーを飲んでから登希子はふう、と肩を落とした。
「どこでどういう縁があるか、分からないもんだねぇ。」
「油断ならんね。」
「そうだねー。」
満穂達は笑っている。若いからか、余り分かっていなさそうだ。
「あ、叔母さん、どっか連れてってくれるって話は?」
「却下だよ。」
「えー!」
「夏休みにね。きちんと予定立てて、その時にどっか行こう。」
そう話したものの、里穂の表情を見て、何かしてあげたいという気分になった。
「じゃあ、明日三人でお昼食べてこようか。叔母さん、増座市(ましざし)まで行くんだけど。」
「そこで食べるの?こっちの駅前とかじゃなくて?」
「うん。里穂ちゃん、『まんてん』ってトバグリに出てくるでしょ?」
「はい。」
花恵以外に話した事はないが、作中で千絵達が集まりに利用する食堂「まんてん」にはモデルがある。登希子が通っていた小説教室は首都圏に近い増座市の駅前で開かれていて、そこの飲食店街に建つ、「わくだ」という定食屋がそうだ。ファーストフードなどを好まなかった登希子は、食事の際には大体ここへ寄っていた。そのうちに顔を覚えられ、一度手帳を忘れて出てしまった時から、店主の和久田さんや、奥さんと話すようになった。二人にはデビューしてからも暫く世話になり、今でも交流がある。
「ここ、メニューは2種類しかないのよ。和久田さんが作るのと、奥さんが作るのね。」
「へー。うまい?」
「うん。で、チェックシートを使って、量を増やしたり減らしたり出来るの。」
「ご飯と味噌汁だけとかにも?」
「そうそう。だから女の人も割といて。おばちゃんばっかりだったけど……」
「それで叔母さんは目立ったのかな。りっちゃん、行くよね?」
「行きたい。先生、お母さんに電話して聞いてみます。」
「その前に、お店に連絡しないと。姪っ子達も一緒でいいですかって。」
「あ、そうですね。」
その場で「わくだ」に電話を入れ、続いて里穂も家に電話した。明日会ったらまた色々話そうという事で、今日のところはお開きとなった。
「潮美先生、次のラプソディも、楽しみにしてますね。」
「ありがとう。」
トバグリが終了してから、登希子は「クラリオン・コール」という作品を連載している。卓球を元にした架空の球技・レッキングボールを扱った話で、こちらもそろそろ佳境に差し掛かっていた。
「りっちゃん、その辺まで送るから。」
母や有喜を呼んで、登希子も玄関で里穂と満穂を見送り、また部屋に戻った。明日は増座に行った後、そのまま東京へ帰ってしまうので、満穂のいない間に軽く持ち物を見ておく。
まず学習机の上には、最低限必要な化粧品と、仕事も出来るように持っているタブレット端末と。それとスーツケースの中には、和久田さん夫婦にあげる旅館の宿泊券が残っている。登希子はそこへ重ねて入れておいた、茉理先生のクリアファイルを手に取った。
椅子を引いて腰掛け、ファイルを机に置いて目を閉じてみる。あの日、ここで夜中まで泣いていたのだ。10代の自分が生きる世界は小さく、ずっと感傷に浸っている事も出来た。が、今は無理だ。満穂だって帰ってくるし、花恵と連絡する必要もある。そう簡単に放っておいて貰えない環境になったのは、私にとっては良かったんだと登希子は思った。立ってガラス戸の側へ行き、外を見ると満穂が歩いてきていた。部屋を出て、出迎える為に階下へ向かう。クリアファイルは元の位置にしまっておいた。
「そんな事があったわけか。」
カーペットに座っていた花恵が、ソファーにもたれ掛かって斜め横を仰ぐ。そのソファーには登希子と真衣が座り、テーブルの上には三人分の水やお茶と携帯、TV等のリモコンが乗っていた。さっき夕食から戻ってきた後、登希子宅のリビングルームで寛いでいるところだ。
「里穂ちゃん、どんな子ですか?」
真衣に言われて、登希子は自分の携帯を掴んできた。今、無線でスピーカーに接続し、BGMとして映画版トバグリのサントラを流していたので、まずその画面を切り替える。
「えー、この子ね。」
満穂からのメールに付いていた写真を開いて、二人に見せた。枝泉のショッピングモール内と思われる通路で、里穂がラプソディを手に写っている。文面には「買いました!これから読みます。」などと書いてあった。
「あら、可愛い。」
「母性を感じる子ですね。」
「そうね、満穂といると尚更……。」
今度は帰省中に三人で撮った写真を見せると、真衣と花恵も頷いた。
「里穂ちゃんのスカート、可愛いです。栗谷先生の履いてるようなのと、足して割った感じのがあれば……欲しい。」
里穂のスカートは控えめな花柄で、花恵は黒地のエスニックスカートを履いていた。2つの要素を頭の中で合わせてみてから、おおよそのイメージを真衣と話し、彼女の欲しい品物を共有した。
「いいね。」
「探しに行きたいですね。」
「今日、真衣ちゃんが着てきたのも気になるんだけど……」
花恵が移動してきて、登希子の膝に後頭部を預けながら真衣の服装を示す。ハーフパンツにハイソックスと、七分袖のシャツにネクタイをしていた。外ではブーツを履いていて、同じく今は解いているが髪を縛っていた。
「それはどこかのブランドの?」
「これは、『boy 1904』っていうところのです。」
「上も下も?」
「そうです。シャツとパンツと。後はもっと安いお店で買ったのを合わせてます。」
「可愛いわー。」
登希子にも同意を求めながら花恵は見とれている。
「花恵ちゃんも着る?」
「もっと若かったらね……。」
花恵の頭が膝小僧の間に割って入ってきた。その髪の毛を弄りながら、夕食時に出た話題を再開させた。
「三人で何か作ろうっていうの、本気で考えない?」
「どうすんの?しおちゃんが話を書くとして、私は絵を付けるよね。真衣ちゃんは?」
「お芝居しますか……?」
二人とも登希子に良い意見を出して欲しそうなので、頭を働かせてやりたい事を整理した。
「出来ればライブで、手作りな感じでやりたいね。真衣ちゃん、一人芝居はどう?」
「興味はあります。」
「絵はどこに出すの?」
「壁?スクリーンに絵を出して、大きい紙芝居にするの。」
登希子のアイディアに、皆合点がいったようだ。
「レトロ可愛いのにしようぜ。」
「昭和みたいな?」
「いや、童話みたいな。」
「真衣ちゃんはどんなのがいいの?」
「童話、いいですね。家族で楽しんでもらえるような。」
花恵が立って、登希子と真衣の間に座った。
「事務所的には許可出るの?」
「正式に依頼をしてもらって、作品の内容を吟味してから、スケジュールを検討して決定します。だからまず、原案が必要ですね。細かい部分はともかく、雰囲気や方向性はここで固めないと、後でころころ変わったら信頼関係が崩れます。」
「そっか。大体どんな風に作ればいいか分かったね、しおちゃん。」
「うん。私が最初に設定やプロットを考えるから、花恵ちゃんと真衣ちゃんは色々口出しして。それで皆のものにしていこ。」
「今回は私自身が原作者の一人なんで、企画が通らない事はないと思います。」
紙芝居をやる事と、大体の雰囲気は希望が出た。子供も見られるものにするなら、公演時間は1時間強といったところだろう。必要な労力の見当は付くが、締め切りまでの日数によって、一日あたりの負担が変わってくる。
「真衣ちゃんのスケジュールが空いてるのっていつ?」
「今年なら11月、来年なら春ごろですね。」
「じゃあ、11月に本番だと、その予定でやります。練習の期間もあるから、5ヶ月くらいでほぼ完成させないと。」
「しおちゃん、こないだエッセイが終わったとこだから、丁度いいんじゃない?」
「ただ、ファミリー向けって、いつも夏休みに公開されてる、有名アニメ制作会社の映画みたいな感じのだよね。」
「しおちゃん、回りくどいね。まあ、私達にとっては未知の作風かもね。真衣ちゃんは親子連れに人気ある?」
「ファンの中心ではないでしょうね。」
「課題はその辺かな。後さ、BGMを生で伴奏してもらいたい。」
花恵に言われて、登希子も気付いた。今さっきサントラを流していたから、機械で処理するイメージが前面にあったが、本当は自分もそれがいいと、どこかで思っていたなと。
「そうそう、私も賛成。」
「真衣ちゃんなら知り合いに楽器弾ける人がいそうだけど。」
「ピアノの上手な人がいます。誘ってみますね。」
「これでやる事は決まったかな?」
まず原案は早く纏める、締め切りは9月の半ば、練習はそこまで待たなくても徐々にやる、等、全体の流れが決まった。
「なら、お風呂だね。真衣ちゃんからね。」
「はい。」
「あ、あれあれ。真衣ちゃん、あの時やったやつ。」
登希子が身振りをすると、真衣も通じたようだ。花恵を残して二人で床に降り、座って足を伸ばす。
「花恵ちゃん、見ててね。」
「はいよ。」
真衣が最初に泊まった日と同じように、せーの、で前屈をした。
「潮美先生、結構成果出てませんか?」
「ね。」
「それでかよ!」
花恵に突っ込まれながら立ち上がり、連れ立って廊下へ出た。右手は玄関、向かいの二部屋のうち、左のドアが寝室で、バスルームは玄関と逆の奥にある。
「栗谷先生は体柔らかいですか?」
「うーん、普通かな。ちょっと待っててね。」
花恵は一度バスルームに行って、ワンコインショップ製のバスケットを取ってきた。
「これ、着替え入れね。」
「ありがとうございます。」
三人で寝室へ入った後、真衣は必要な物を揃えて引き返していった。
「それじゃ、布団敷くか。」
クローゼットを開けて、まず掛け布団を引っ張り出してベッドの上に乗せる。次に敷き布団を出し、戸を閉めてから床に敷き始めた。
「しおちゃん、さっきの話だけどさ。」
「どの話?」
「里穂ちゃんのね。一緒にご飯食べに行ったんでしょ?」
「うん。」
「しおちゃん、変わったと思うよ。最初に真衣ちゃんを泊めた時も。昔はそういう事するような人じゃなかったじゃん。」
「いつの話なのよ。」
「ふと思ったんだよ。」
「花恵ちゃんのおかげじゃない。」
手を止めて、敷き終えた布団の上に正座して花恵の方を向く。花恵も隣の布団から立ち上がり、登希子の側にやってきた。膝を崩して肩を寄せ合うように座る。
「この人、私が世話焼かなきゃやっていけないと思ってさ。多分、その頃からどっかで意識はしてたのかもね。」
「うん……」
何か言いたいが、口にする言葉を決められずに黙っていると、花恵の手が伸びてきた。正座しているところを自分の腕ごと抱き寄せられたので、上半身全部で花恵に寄りかかってしまう。
「ちょっと……」
花恵は登希子をより強く抱き締めて受け止め、そのままゆっくり布団に寝かせる。
「いい?」
人差し指を唇に当てる仕草をされて、目を閉じてキスを受け入れた。それから、今度は登希子の方から花恵を抱き寄せて、離したくないと言うように体を密着させた。
「花恵ちゃん……、好き。」
「知ってるぜ。」
茉理先生との事があって、会社勤めをしていた頃の登希子は人付き合いに積極的ではなかった。好きになった人もいたが、結局登希子の方に問題があって上手くいかず、もうずっとこの調子で構わない、という気分になっていた。
ただ、作家として連載を持ち、知名度が上がると構われずにはいられなくなる。その時に助けてくれたのが花恵だった。登希子が、不特定多数の反応を吸収する事に不得手だと見て、まず執筆に集中するように言ってくれ、ネットで見られる感想等は花恵が選んで持ってきてくれるようになった。読んでみると、好意的かどうかよりも、作品を作る上で参考になる意見なのかと、文章力を基準に選ばれていて、その丁寧さに感謝したのを良く覚えている。本人は、仕事だからさとうそぶいていたけれど、そんな事をして貰っている作家は他にいない。
だから惹かれ始めた。花恵に依存し過ぎてはいけないと思うのに、実際には逆に振る舞ってしまう。自分の事を考えて欲しい、彼女の心を占めたいという欲のせいだ。正直、余り綺麗な気持ちではなかった。また、花恵の方もそこまでしてくれる以上、登希子のことを憎からず思っているのではと期待していたのもあり、直接好きだとは言えずにいた。
「あー、疲れたよ。進んだ?」
机の向こうで花恵が伸びをし出した。今、トバグリとは別仕事のイラストを制作中だ。登希子の方は直接原稿を書くのではなく、今後の構想などを纏めている。トバグリも軌道に乗り、話途中で終了したりはしなさそうになったので、色々整理しなくてはいけない。
「ちょっと休も。」
あくび混じりに花恵はそう言うと、窓際のソファーまで歩いていって倒れ込んだ。登希子の机がある側を頭にして、仰向けでこちらを見てくる。
「冷たいものでも食べたい。」
「もうじき帰る時間だよ?明日の朝、何かデザートでも付けるから。」
「んー。ありがと。」
作業に戻ると長話は出来なくなるので、登希子は相談したかった事を訊いてみようと思った。
「花恵ちゃん。」
「何でしょうか。」
「いつかトバグリが完結する時には、エピローグを付けようと思うんだけど。」
「どういうの?」
物語の終わりに、老境になった千絵が出てくる。裕福な商家の娘である彼女は、そういう育ちではない演劇部のメンバーと段々疎遠になり、年を取る頃にはもう、年賀状のやり取りさえ無くなってしまった。また、徐々に足を悪くしていた千絵は、自分用に建てられた離れで過ごす事が多くなり、家族との会話も少ない。
ただ一人だけ、孫の桐香(きりか)はいつも千絵のところへやってくる。平日は寝る前に離れに来てくれ、週末は午後に並んで庭を散歩する。寒い季節には寝室で千絵の昔話を聞かせたり、逆に桐香の学校での話を聞いたりした。
そうしているうちに彼女も高校最後の夏休みを迎え、ある日散歩の後、千絵は一冊のノートを見せられる。脚本の勉強をしたい桐香は、今までお祖母ちゃんから聞いた話を元に、物語を作ってみたのだと言う。
「まだ最初の方しか出来てないんだけど、お祖母ちゃんさえ良ければ、ずっと書き続けたいの。」
まず夜にでも読んでみて、明日また感想を話すと桐香に言い、千絵はそれを受け取った。
桐香が本宅に戻った後で、物語のタイトルを見てみると、
「『トゥ・アン・エバーグリーン』か……」
花恵は体を起こし、腰の位置で腕を組んだ。登希子もソファーまで行って隣に座る。体格が違うので目の高さが揃わず、こうするといつも上目遣いになるのだった。
「どうかな?」
「私は反対だな。」
「え?」
花恵は連載開始からずっと、大体登希子のしたいようにさせてくれた。それに慣れきっていたから、この言葉は意外だった。
「駄目なの?」
「綺麗に纏まるとは思うよ、そのエピローグを付けたら。でも千絵が将来どういう境遇になるのか、ここまではっきり決めてしまったら、読者の想像を阻害する事になるよ。」
「そんなものかな……」
「うん。私は作品作りって、種蒔きと収穫で出来てると思うんだよ。私らが物語をこさえて、世に出すのは種蒔きで、読んだ人から反応が返ってくるのが収穫なの。で、穫れたものからも種が取れるのさ。私らだけじゃ生み出せないような遺伝子を持った種だってきっとある。トバグリがヒットしたのは幸運で、こんなに大きい畑は今後作れるか分からないから、収穫量が最大になるようにした方がいいよ。」
花恵は登希子より作家歴が長いし、こう言われると説得力がある。エピローグは無くすか、違う内容にしようと登希子が考えていると、もう一つ付け加えられた。
「ちょっと厳しいこと言うけど、しおちゃんには独善的なところがあって、しかもそっちの方がいいと思ってる感じがするんだよね。必要以上に自分の枠を固めてるような。いつか私と離れたら、それだと先細りになっちゃうよ?」
これには返事に詰まってしまった。独善的と言われた事よりも、花恵が自分を単に友人としか見ていなさそうな事にだ。トバグリが終わった後もパートナーでいられるかは分からないので、登希子がずっと花恵と一緒に暮らしていきたいのなら、どこかの時点で好きだと伝えて、仕事相手を超えた関係にならなくてはいけない。ところが今の言葉で、そういう脈への期待も失われた。仕事だからさ、というのはそのままの意味だったのだろう。
結局、口だけ「そうだね」と答えたまま、この夜は会話が終わった。翌日からも、二人はいつも通りに仕事をした。登希子の方は、常に頭の隅で花恵との今後について、身にならない思考を繰り返してはいたが。
「しおちゃん、明日の朝、なに食べたい?」
「お米。」
「汁物いる?」
「うん。」
登希子は仕事場へ徒歩で通ってくるが、花恵の自宅は一駅だけ離れている。今日は終夜営業のスーパーに寄りたいからと、一足早く帰り支度を始めた。
「そろそろ夜は冷えるねぇ。」
自室で上着を着替え、ショルダーバッグを提げて出てきた花恵を、玄関まで見送りに行く。座って靴を履く後ろ姿を見ながら、もっと早く気持ちを伝えていれば状況はましだったのじゃないかと思った。
次に登希子が作品を書く時も、花恵に組んでくれと頼んでもいいが、報われないのなら辛いだけだ。また恋に失敗したという事実や、花恵を失った後の自分を想像し、更にもっと口にし難い、淀んだ感情がせり上がってくる。目の前で大事な人が去っていく、という絵を俯瞰して脳内に映してしまった。まだ明日は花恵に会える。でも、もう何年かしたら、と思ったら堰が切れた。
下駄箱の上にあるバッグを、普段なら花恵に渡してあげるのに、手が伸ばせない。頬に指を当てる。涙が溢れて、振り返った花恵が驚いていても顔を背けることすら出来ずにただ見つめ返す。
「しおちゃん、どうしたの!」
「ううん、何でもないの……」
「何でもないって、だって……」
涙は顎まで濡らし、床にも零れている。靴を脱いで廊下に上がろうとする花恵に対し、一歩身体を出して制止した。
「ごめんなさい、大丈夫だから……一人にしておいて。」
何とも言えない表情をしていた花恵も、暫く迷ってから分かったよ、と言って玄関を開け、出て行った。登希子はその場に座り込み、誰もいなくなった土間とドアを見たまま途方に暮れた。こうなったらもう、今まで通りではいられない。花恵に理由を言う必要がある。
嗚咽が止まり、涙がおさまってから一度顔を洗って、また玄関へ戻ってきた。どう言おうと花恵に愛想を尽かされそうで怖い。まだ友達でいて貰える、その可能性を少しでも伸ばそうと考えて、朝まで待っては駄目だと思い至った。作業部屋の時計を見ると、先刻から20分程経っている。タクシーを拾えたら、隣駅前のスーパーで花恵を捕まえ、拾えなかったら自宅まで行ってしまおう、そう2つのルートが頭に浮かんできた。自業自得なのに今更あがいて、浅ましいと自嘲しながらも、昔の自分ならつまらない言い訳を捏ねて何も伝えられずにいただろうと思う。良いのか悪いのか分からないが、この点だけは前向きだった。
自室に行き、昼食を買いに出る時に使う上着を羽織って鞄と財布を持ち、歩きながら身に付けて玄関を出た。エレベーターに乗ってから鏡に顔を写す。化粧を全部落としてしまったから、人通りの多い道では目立つかも知れない。
一階に着いてロビーに出ると、向かい側に駐車・駐輪場の入り口があって、その横にベンチがある。
「花恵ちゃん……」
花恵が待っていた。良く知っている容姿なのに、一瞬誰か認識出来なかった。絶対こんな所にはいないと思っていたからだ。
走り出そうとしていた足が2、3歩で止まり、ふらふらと吸い寄せられるように登希子もベンチに座った。
「どうして?」
「ちょっと待ってみようと思って。もしかしたら、しおちゃんが出てくるかも知れないから。」
果たして、花恵が予想した通りになった。気持ちが噛み合って嬉しい反面、切なくもある。良くしてくれてありがとう、でも、と。
「花恵ちゃん、優しいね……。」
「普通だよ。それよりしおちゃん、完全ノーメイクだよ?これでどこまで追っかけるつもりだったの?」
「花恵ちゃんちまで。」
「何でまたそんな……」
「言わなきゃいけないの。嫌われても。私、花恵ちゃんと一緒にいたい。好き。独り占めしたいの。」
やや言葉に詰まりながら一気に言った。花恵は登希子を凝視し、でも嫌がる感じはなく、じきに表情を柔らかくした。
「私のこと、好き?」
「好き。」
「嬉しいよ。」
自分の手に花恵の手が重ねられ、握られた。どうやら断られはしないようだ。ただ、実感がない。
「いいの?私で……」
「うん。私も、しおちゃんが嫁さんになってくれたらいいなって、思うようになってたから。」
「でも、いつか離れるとか言ってたじゃない……」
「あれは、もしそうなったらどうするの?って意味で、本気じゃないんだけど……」
「全然そんな風に聞こえなかったよ!もう!」
「あら、ごめん……。」
「私、こんなに悩んで……ひどいよ……」
口では怒りながら、内心は安堵が満ちて、涙が滲んできた。それで眼鏡を外したものの、そういえばハンカチを持っていない。
「眼鏡、持っててあげるよ。」
花恵が眼鏡と入れ替えにハンカチを渡してくれ、目元を拭いてからまた交換した。
「ありがと……」
まだ嬉しさを伝えたくて花恵の腕にすり寄ると、彼女は手を後ろに回し、登希子をもっと引き寄せた。そのままゆっくり背中を撫でてくれる。
「でも、しおちゃん、自分からこうやって一歩飛び出してこれたし、これからもっと変わっていけるよ。」
「花恵ちゃんがいてくれるなら、うん。」
「寄りかかり過ぎたら駄目だからね?」
笑って腰を上げた花恵を見る。両手を引かれて登希子も立ち上がった。
「うちまで来るつもりだったんなら、一緒に行こうよ。泊まってって。」
「うん。支度しなきゃ……」
「そうだね。」
エレベーターから廊下まで、ずっと手を繋いだまま歩き、部屋で登希子が身支度をしている間も花恵は後ろで仮眠用のベッドに座っていた。
「こうやって一緒に仕事場を借りてなかったら、しおちゃんを付き合いたいほど好きにはなってなかっただろうね。」
「告白しても、断られてた?」
「多分。最初の頃、しおちゃんがメンタル強くないのを知って、友達になれたし放っておけないなと思って、だから一緒に部屋借りようって話にも乗ったのさ。」
顔の他、髪も少し整えて、資料閲覧や鏡台がわりに使う机から、移動して花恵の隣に座る。安い組み立て式の物だから、微かに軋み音がした。
「でも一日一緒にいるようになったら、この人となら四六時中顔合わせてても、どういう距離でもいけるなって気が付いて。もしかしてこの先ずっとこういう生活でも平気だと思ったんだよ。」
「好きってことだよね?」
「うん。恋するっていうより、既に夫婦の好きみたいな感じなんだけど。人の性格をマルで描いてみたらさ、絶対綺麗な円にはならないじゃない?どっか尖ってたり、凹んでたり。そういう部分がしおちゃんとは上手く噛み合ってて、歯車みたいに動かせるんだよ。」
「さっきもそうかな?」
「多分ね。」
花恵を追いかけた登希子と、登希子を待っていた花恵と、結果は良かった。但し、今夜登希子が告白出来たのは、花恵が言葉選びを間違えた事に発端がある。つまりハプニングだ。それが無くても遠からず気持ちを言えたのかというと、恥ずかしながら自信がない。そこで恐る恐る訊いてみた。
「もし私が何も言えずにいたら、花恵ちゃんはどうしてたの?」
「待ってるだろうね。」
「花恵ちゃんから言わないんだ……?」
「さっき言った通り、しおちゃんの方から踏み出して欲しかったから。きっと大丈夫だろうし。」
「そう思う?」
「うん。ちょっとだけ、私が手を引っ張るからね。」
登希子が引っ込めかけた手を、花恵が引っ張るタイミングはきっと絶妙なものになるのだろう。
「大丈夫、か……」
「ん?」
「本当、花恵ちゃんとなら大丈夫だろうね。」
そう言うと花恵は微笑み、その目で登希子を見つめてきた。
「不束者ですけど、よろしくね。」
「私こそ、側にいさせてね。」
立ってから体を向き合わせるとすぐ、花恵の手が登希子の腰に触れ、登希子もそれが分かっていたように動作を合わせて、ごく自然に抱き寄せられた。眼鏡がぶつかってしまうので外して貰うと、その指先が首筋に来て更に頭を包み、胸元で優しく髪を撫でてくれる。暖かい心地良さに身を任せた後、満足を示すと、花恵が肩を持って顔の距離を取った。登希子が半歩下がって花恵の目を見るのと、指が頬を上向かせるのは同時で、やがて唇が重なり、二人の動きも暫く止まる。それから再び抱き合う姿勢に戻り、花恵が耳元で囁きかけた。
「しおちゃん、大好き。」
それに応えるべく、腕に力を入れてやる。
「息苦しいよ。」
「だって……」
花恵には苦笑されたが、とにかく身を寄せたくて仕方ない。
「これから、いつでもどこでもやってあげるから。」
「どこでも?」
「いや、ある程度。」
「もう。」
笑いながら体を離し、それぞれに荷物を掴み上げた。
「帰ろうか。」
「お風呂貸してね?」
「うん。朝ご飯何にする?」
「さっき言ったよ。」
「もうちょっと具体的にさ。一緒に作るんだし。」
まず登希子が外へ出て、後から花恵が明かりを消してついて行く。ドアが閉まった後、今度こそ二人共戻っては来なかった。
世間ではゴールデンウィークが終わり、徐々に初夏の空気を感じる時期、登希子と花恵は休日の朝から出掛けて映画を見てきた。現在ヒット中の「ミニッツ・トゥ・ミッドナイト」というアクション映画なのだが、シンデレラ・ミーツ・ダイハードという宣伝文句が印象に残っている。日本では劇中の主人公、シンディ・マージソンの吹き替えを真衣が担当しており、本人がチケットをくれたのだった。
帰り道、今日は晴れているし、公園で昼食を食べようという話になって、付近のコンビニで買い物を済ませてきた。園内に入って空いているベンチを探してみると、親子連れや会社員の姿が多いように思う。
「良い天気だもんねぇ。ちょっと暑いくらいだし。」
花恵が藤棚の下のベンチを指さしながら言った。朝方は雲が出ていたが、それも今はどこかへ行ってしまっている。予報は少々外れたようだ。
「ふえー、どっこいしょ。」
「やだ、花恵ちゃん……」
腰掛けて上を見てみた。陽光が花と葉の隙間に溜まり、丁度良く和らいでいる。花恵はビニール袋から昼食を取り出して登希子に渡してくれた。どら焼きと、小さい紙パックのお茶と。飲み物は二人共同じで、花恵は二個入りのホットケーキを買っている。
「それ、どこでも売ってるね。」
「まあ、これに限らずだけど。しおちゃん、もう一個の方半分食べてね。」
「うん。」
まず二人の間に食事を並べてから、空いた袋にストローの包装ビニールを突っ込んでゴミ袋にし、花恵が脇にそれを置いた。
「真衣ちゃんの吹き替え、上手かったよね。」
「そうね。声優の人に比べても、浮いてなかったね。」
登希子は携帯用のウェットティッシュを出して、やはり真ん中に置きながら答えた。花恵はもうホットケーキを一口食べている。
「これは紙芝居の方も、より期待しちゃっていいのかね。」
「良い物作らないといけないね。これ、ただ三人で何かしたくて言い出したんだけど、段々プレッシャー感じてきたよ。」
「新境地だから?」
「新しい客層へのアピールだもん。エッセイの時みたく、上手くいくといいけど。」
「まぁ、気負い過ぎないようにやろうよ。」
花恵がお茶を持ち上げて、ほれ、と差し出したので、そのストローに口をつけて一口飲んだ。
あの後、真衣と野町さんと、その他のスタッフを交えて会議をした。会場は200人規模の所を使い、宣伝も登希子達が主導して手作り感を強調する事、好評なら定例の企画にする事が決まり、最初の原案はもっと子供向けを意識して修正するのと、チャリティの要素を入れるかどうか、入れるならどういう形にするかが次回の議題として挙げられた。
「次は社長が来るって言ってたね。」
花恵はホットケーキを食べ終えたので一度手を拭き、もう一個の方を取り出そうとしている。
「良い人っぽかったけど……」
「でも偉い人と会うの、緊張するよー。」
「別に、フリートークする訳じゃないじゃない。」
社長は年輩の女性で、よく寄付などをしている。子供がいないのが理由の一つだろうと真衣は言っていた。
「私らも子供はいないけどね。」
「お金持ちではないね。」
「そうだねぇ。明日はどうなるか分からんような商売だし。」
登希子は半分に割ったホットケーキを受け取ったが、すぐに食べる気が起きない。何故かと考えてみて気が付いた。
「失敗した。どら焼きもホットケーキも、殆ど同じだよこれ。」
「あー、バンズ的なあれに、甘いのが挟まってて……」
「うん、違うのにすれば良かった。」
「って言いながら食べてるじゃん。」
「まあね。」
もう食べ物が無くなったので、花恵が距離を詰めて登希子の横へ寄ってきた。
「しおちゃんさあ……」
「どうかした?」
「そろそろ、二人で一緒に住まないかな?」
「どうしたの急に。」
「いや、最近考えてたんだよ。これから年取っていったら、一緒に住んでた方が何かあった時に助かるじゃない。」
「そうだね……」
年齢を重ねるにつれ、周囲の知り合いで倒れたりする人もいた。花恵と全ての生活を共にしたら、万が一というリスクは減る筈だ。確かに考えていい時期かも知れない。
「じゃあ、紙芝居が終わって、来年になったら家探ししようか。」
「いいの?」
「私だって、花恵ちゃんに何かあったら嫌だし。」
「ありがと。どこに住みたい?郊外とか?」
「さあ、そうだとしても都内にすぐ出られる所だね。」
「家ってどのくらいするのかな。」
「賃貸じゃないの?」
「いや、言ってみただけ。ちょっと調べてみようか。」
携帯を取り出して、花恵は登希子にも見えるようにその手をこちらへ伸ばしてきた。
「しおちゃん、タッチして。」
「私がやるの?」
二人で額を寄せ合って検索を進め、何だかんだと話しながら情報を絞っていく。大体めぼしいページに辿り着いてから、載せられた物件を観察した。
「結構するもんだねぇ。」
「買えなくはないかな。」
「老後は仕事しないで、旅行ばっかりしてようって決めたじゃない。今あるお金は取っとかなきゃ。」
「じゃあ、今後もう一山稼げたら、お城でも買おうぜ。」
「お城はいらないよ……」
花恵は携帯を鞄にしまい、少しだけ離れて登希子に背を向けた。
「揉んでくれー。」
「いいわよ……」
向けられた腰を両手で支え、親指でここだと思う箇所を揉んでやる。
「あー、いいね。分かってるね、しおちゃん。」
「まあね。」
二人でそんな風にしている様子を、通りかかった女子高生が見ていた。三人組で、どうやら座る場所を探しているようだ。登希子は花恵に目配せしてから、手招きしてその子達を呼び寄せた。
「おばさん達、もう行くから、ここに座って。」
「いいんですか?」
見た感じ、一番しっかりしていそうな子が歩み出て聞いてくる。大分年上の女性達から席を譲られるのに抵抗があったのだろう。
「いいのよ気にしなくて。」
「ありがとうございます。」
礼をし終えたその子と目を合わせる。お互いショートヘアに眼鏡をかけていた。口にこそ出さないが、何となく二人共に意識しながら会釈をして別れた。公園の出口に向かって歩き、もうベンチが見えなくなってから花恵が口を開く。
「制服で昼間っから、いいのかね?」
「テスト期間じゃない?満穂もそうだから。」
「そっか。しおちゃんも昔はあんな感じだった?」
「あんなに可愛くなかったよ。」
「ふーん……」
勿体ぶって何か言いたそうな花恵だが、きっと大した事ではない。
「もし、もっと早くしおちゃんと出会ってたら、どうだったかな。」
「付き合ってたとは思うよ。」
「制服姿、見たかったなー。」
やっぱりそんな事かと思いながら返事をした。
「写真では見てるでしょ?」
「まだ持ってる?」
「着ないわよ。」
再び公園のゲートまで戻ったので、一旦足を止めて元来た方向を見る。
「しおちゃん、まだ寄る所ある?」
「切手を買おうと思ってたの、忘れてた。」
「じゃあ、さっきのコンビニに行って……」
「嫌よ、パン買ったばっかりでまた入っていったら、何だこのおばさん達って思われるじゃない。」
「しょうがないな。じゃあ、どっかもう一軒寄っていこうよ。」
「うちの近所の方?」
「そうだね。まずは駅に行こ。」
花恵に促されて登希子も歩き始めた。会話のない間に、次は茉理先生に何を書こうかと思考を巡らせる。制服の話が出たので、先生に貰ったレシピの事を考えついた。あのケーキを今の自分なりに作ってみて、写真を撮ろうかと思う。勿論撮ったら終わりではなく、仕事場で花恵と一緒に食べるだろう。それだったら、オリジナルよりももう少し華やかな飾り付けをしたい。夜のうちにケーキ本体を作っておき、朝食を作る際に持ち込んで飾りを付けるのが良さそうだ。が、二人の間で、朝からケーキを食べる文化が無いという別のハードルがここで持ち上がる。
花恵の顔を盗み見てみた。この人の性格なら、違和感は最初だけだと勝手ながら思う。ただ、特に理由もなくケーキが出てくるのも何なので、ちょっと言葉を添えてあげたら良いのではないか。レシピの話をして、これは10代の私からのプレゼントだよと、決め台詞を花恵の側で贈る。我ながら冴えているなと自賛している顔を、どうやら向こうも盗み見ていたようだ。
「何か思いついたの?」
「ちょっとアイディアが出たの。」
「聞いてもいい?」
「まだ秘密ね。」
「あら。ま、期待してるよ。」
まさか自分へのプレゼントの案だとは思っていない花恵は、それ以上質問してこなかった。横断歩道を越え、もうじき駅の入り口が見えてくる。今歩いているところは丁度オフィスビルの側面に沿っており、人通りがまばらだが、もう少し進むとやや混んできそうだ。
「それよりさ、家探しの事、本気だからね?」
「うん。」
「愛してるよ。」
「知ってる。」
「じゃあ、もう言わね。」
「だめ。」
花恵の手を引いてこちらに引き寄せ、すぐ腕が組めるくらいの距離を歩かせる。人が増えれば並んで歩きづらくなるのは彼女も分かっていて、付き合ってくれた。登希子が後ろ髪の房を撫でる。と、花恵は犬が尻尾を振るようにそれを動かす。無言でそんな遊びを始めたら、すれ違った親子の子供が笑っていた。
「やめてくんないかな、つい乗っちゃうからさー。」
屈託なく笑う花恵を見て、結構良かったと言うより、凄く良かったのだろうと思う。全てはこの人と出会う為のお膳立てだったと、錯覚したいくらいに。
角を曲がり、日を背にして歩き出すと二人の影が前方に見えた。それを眺めながら登希子は、ケーキの飾り付けはやっぱり昔のままがいいかも知れないとか、そんな事をまたぼんやりと考えるのだった。
終わり
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